生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第三十二話> (567) |
- 日時:2013年03月22日 (金) 08時21分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第三十二話(通算第358話)
生命の謎・萬物は皆生きている <その二>
神が遍在すると云う意味について
(『生命の謎』P.40−41)
<<神は遍在であるといわれている。神が遍在であるのは時間空間というものが実際に広がっていてその中のどこにでも神がいますという意味ではなく、時間空間は吾々の認識の形式であって、時間空間というような区画さるべきものは本当は「ない」が故に、どこにでも神がましますというのである。
「絶対者」は時間空間に対立して、人間がどの家にも住んでいるという意味に於いて、人間と住居との関係にあるが様には「どこにでもある」のではないのである。
時間空間の世界は単に心の造った認識の便宜として象徴であるが故にその奥には何処にも「絶対者」がましますということである。
画家の画いた絵はそれは画家の生命の象徴であるが故に、その絵の奥には画家の生命があり、それが到る処に表現されているという意味に於いて神は遍在するのである。
そういう意味に於いて凡(あら)ゆるものの奥には神が生き生きと存在しているのである。
かくてすべて生命現象は絶対者即ち大生命が表現されているのである。
そういう意味からすべての存在の奥には生命が宿っており、すべてのものは生きているということが出来るのである。
すべてのものは、動物は無論のこと、鉱物でも、植物でも、ありとあらゆるものは「絶対者」の生命の表現として、生きているのである。
どこかに死んでいるものというものがあるならば、そこには生命なる「絶対者」がいないということである。
「絶対者」がそこにいないで、而も或るものがあるということになれば「絶対者」以外にも何ものかが何処かにあるということになるのであるから、もうそれは「絶対者」でなくなるのである。
従って宇宙に唯一つの「絶対者」を認める限りに於いては、すべてのものには「生命」が宿っているのであり、それは所謂(いわゆる)生物と無生物とにかかわらず、“皆生きている”といわなければならないのである。
生命の自然発生説や、突然発生説に困難が感じられたのは、無生物と生物とをハッキリ分けてしまったために無生物より生物が発生することが不合理だと云うことになったのであるが、無生物も実は生きており、その生命発現の程度が低いに過ぎないと云うことが判れば問題がなくなるのである。>>
物質も生きている(『生命の謎』P.42−43)
<<ところが、最近の物理学の進歩につれて物質の原子さえも生きているということが発見されることになったのである。
物質を構成している電子は光の速度にも匹敵すべきような高速力で、原子核の周囲を回転しているのである。
それは永久運動であって、永遠に止まらないで回転していて、その軌道を変化しない限りその回転エネルギーは衰えないのである。
それは他からの動力を加えることなしに自然的に運動しているのである。
他から動力を加えられずして自発的にうごいており、而も永遠に自発的に動いているものは、これを生きているというほかはないのである。
従って電子は生きており、原子も生きているのである。或る原子と或る原子とはある場合には親和力をもって結びつき、ある場合には斥力(せきりょく)をもって反撥する。
而もそれは決して出鱈目に結合離反するのではなく、相手が何元素であるかということをよく見わけることができて結合するのである。
結合を好まない所の元素同志を強制的に結合させる事はできないのである。
尤も普通の圧力では結合しない元素も、強大な圧力を加えれば結合するのは、普通には夫婦にならない男女が周囲の強大なる圧迫のため結婚するのがあるにも似ている。
原子の相手が何者であるかということを知っており、好ましい相手と好ましからざる相手とを区別するのである。
それはたしかに相手を甄別(けんべつ)する知性をもっているということができるのである。>>
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