生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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谷口雅春 真の宗教の救いについてB (7664) |
- 日時:2015年12月13日 (日) 23時03分
名前:天邪鬼
観世音菩薩を称うる祈り
『この世界は観世音菩薩の妙智力を示現せる世界であるのである。観世音菩薩とは単なる一人の菩薩の固有名詞ではないのである。それは宇宙に満つる大慈悲であり妙智力であり″心の法則″であるのである。観世音とは世の中の一切衆生の心の音(ひびき)を観じ給いて、それを得度せんがために、衆生の心相応の姿を顕じたまう「観自在の原理」であり、「大慈悲」である。三十三身に身を変じてわわわれを救いたたまうとはこの事ある。″心の法則″として、衆生の心に従って、その姿をあらわしたまう事その事が大慈悲なのである。 観世音菩薩は、あらゆる姿とあらわれて私たちに救いの説法を宣示したまうのである。山々のたたずまい、雲の行きかい、風の韻(ひび)き、水の流れ――ことごとく観世音菩薩の慈悲の説法である。心に耳ある者は聴け、心に眼ある者は見よ。 さらに観世音菩薩は、私たちの周囲の人々の姿となって私たちに真理の説法を常になし給うのである。意地悪と見える人の姿も、彼が意地悪なのではないのてあって、私たち自身の心の何処かに″意地悪″なものがあるのを、観世音菩薩が観じたまうて、それをあらわしていられるのである。だから他を憎んではならないのである。観世音菩薩或るいは父となり母となり、或いは良人となり妻となり、或いは兄弟姉妹となり小姑ともなり、或いは、社長とも重役ともなり、同僚ともなり下役ともなりて、常に何かを語り給う。心に耳ある者は聴くべし、心に眼ある者は見るべし。 予言者は遠くにあらず、山にあらず、街頭にあらず、今ここにあるのである。私自身の内にあるのである。自己の相念するところのものが外にあらわれ、自己の信ずるところのものが外界にあらわれ、自己の語るところのものが他者にあらわれるのである。想うこと、信ずること、語ることが予言となって、やがて実現する時期がくるのである。されば私たちは悪しき事、憎むべきこと、暗きこと、消極的なことを想ってはならない、信じてはならない、語ってはならないのである。 悪しき事、好ましからざる事があらわれた時には、外に原因を求める以上に、まず自己の心の中に、そのような"心の模型″があるにちがいないと自己反省するがよいのである。自分の心にある原因を消さないで、外界の火を消そうと思っても、一旦それは消えたように見えても、火元は自分自身にあるのだから、再びまた他の所から発火するのである。 観世音菩薩は尽十万無礙光如来の大慈悲の顕現にてありたまう。それゆえに尽十方に満ちたまうのである。あらゆる宗教の本尊は名称は異なれども、その本体は尽十万に満つる神の大慈悲のあらわれなのである。だから万教は一に帰するのである。生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩なのである。われ観世音菩薩を讃嘆し奉る』 瞑目合掌ほどいて下さい。朗読終りました。
生長の家の本尊について
まあ、そういうように観世音菩薩というと、一定の型をした仏様だとか、菩薩だとか考えると意味をあまり限定して間違うのであって、これは宇宙に満ち満ちているところの″観自在の原理″であって、見る通りに姿があらわれる。その「心の法則」そのものが観世音菩薩であって、自分に一定の型がないからどんな型にでもあらわれるというわけなんです。それで生長の家の本尊は観世音菩薩であると仮に言うけれども、観音様を仮に祭ると、「ああいう型のものが本尊だ」と窮屈になってしまって、キリスト教の人は入ることができない。あるいは、神道の人は仏教の本尊だから入ることができないというようになるから、一定の型を祀らないように生長の家ではしているわけなんです。 東京の生長の家の本部の建物の中に七階の高い円筒の塔が立っているんです。一番七階の上が「七つの橙台」のシンボルとして私が、設計に参加して、こういうものを立てるということを言って、それであれを立てたんですが、一番上の部屋が「神の間」ということになって、神様があそこにいらっしゃるとして礼拝する事になっているわけなんであります。七つは完成の数で一番高い所になかなか立派な扉があって、扉の引き手みたいなものなんかも光明燦然と輝いて、いかにも神々しくしてあるんです。そこを開けて中に入ったらなんにもない、からっぼにしてある。本尊は姿・形がないのである。姿・形がないのが生長の家の本尊である。だから生長の家は何宗ということではないのであります。観世音というのも、あんな仏像の型のお方が、観音様だとこう考えると間違いになってしまうわけなんであります。 (つづく) (昭和五三年七月八日、全国光明実践委員特別研修会における御講話より) 【『理想世界』誌 昭和55年11月号から転載】
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