生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第三十三> (580)
日時:2013年03月23日 (土) 10時21分
名前:信徒連合




< 第三十三話 > 小聖は山へ逃げ、大聖は都会(まち)で衆生済度する。!

(平成22年4月15日『小閑雑感』)


<<私たちは「他からできるだけ奪わない」生き方をしたいと思う。が、都会生活はその選択肢をほとんど与えてくれない。また、欲望が渦巻き、それに応える手段が完備しているから、「奪わない生活」はむずかしい。そういう都会がいいのか、それとも不便ではあるが、自然との接点が多い“森の中”がいいのかと考えたとき、私たちは後者を選んだのである。抽象的な“魂の向上”ではなく、具体的な生き方による“魂の向上”を選んだ>>



(講評)


『小閑雑感』のこの文章を読む時、先ず頭に浮かぶ言葉は「小聖は山に隠れ、大聖は町に住む」という諺(ことわざ)であります。

三代目・雅宣氏は将に小乗仏教的宗教家であります。

俗塵の欲望渦巻く大都会である東京の街に住み、衆生済度の大願成就の為にその身をローソクの如く焼け尽きるまで生長の家地上出現の目的(人類光明化と真理国家日本の実相顕現)達成に開祖・谷口雅春先生の如く身を捧げきるのが、いかに自称といえども法燈を継承した人の使命ではないでしょうか?

生長の家は、大乗仏教の神髄成就ではなかったのですか?

三代目・雅宣氏は如何に衆生の「病・悩・苦」を救っても地球が人の住めない星になれば元も子も無し!まず地球環境の回復が第一と宣(のたま)う。

しかし、考えても見られよ!サーキット競争レース・外国からの観光客誘致のためのジェット便の増発・高速道路無料化に伴う遠出外出渋滞による大量のCO2排出だけでも生長の家信徒のCO2削減努力などは実に簡単に帳消しにされてしまっている。

ましてや、CO2大量排出の大気汚染国家・共産中国に対しては、雅宣氏は何も要請せず。全くの内輪だけのお山の大将であります。

だから、現・教団挙げての環境運動は実は、三代目・雅宣氏の自己顕示欲望に基づく個人的趣味の人生目標にしか過ぎない。完全な公私混同で全信徒がお孫さま信仰と美辞麗句による暗示に掛けられてしまっているのであります。

そして第三代目・雅宣氏は『御教え』のレベルを小乗的な域に完全にレベルダウンせしめてしまったのであります。開祖・谷口雅春先生が始められた生長の家の指導者とは云えない完全な失格総裁であります。


 更に云えば、『生命の実相』の自伝篇を読めば、開祖・谷口雅春先生も青年時代「奪わない生活」について深刻に悩まれ思索追及された事が分かるのであります。

同じように三代目・雅宣氏も「奪わない生活」を考えていますが,“生命を賭(か)けた真剣な悩み”ではなかったため、山へ逃げる形の小乗的結論となったのであります。

一方、開祖・谷口雅春先生は生命を賭けた真剣な求道の結果、大乗的悟りを成就され、さらに釈迦・キリストの説かれなかった生命体国家論「国家の成仏」まで説かれ、具体的な実践行動を指導されたのであります。






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