生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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“顕斎”の意義と新生について (7780)
日時:2017年09月04日 (月) 22時28分
名前:本音の時代

 かつて、谷口雅春先生から直に教えを受けた人たちが、今の教団のことに関しては、何故か「見ざる聞かざる言わざる」の態度のように見える。谷口雅春先生に対する恩はないのでしょうか。私には、「恩を仇で返す」態度にしか見えないのです。
 また、上記の人たちが、住吉本宮の落慶の意義も十分承知しているはずなのに、現実の行動を見ていると、本物の雅春先生の教えを受けた人なんていなかったという不信感でいっぱいになります。
 生長の家を貶めている人は、谷口雅宣さんだけではなく、何も行動しない上記の人たちもそうなのだと思います。

住吉本宮の落慶とは、いったい何だったのかを問います。


「住吉大神がこの現象世界に出御」に関連して。
以下、生長の家誌 昭和53年9月号 明窓浄机より

○ブラジル国駐在の、ラテンアメリカ伝道本部教化総長の松田己代志さんから、熱烈で信仰深い、そして真剣に考へる人でないと迂闊に散漫に見のがしてしまふ重要問題に触れた信仰に関する論文が送られて来ました。
 その全文を次に掲げさせて頂くことにします。

 “顕斎”の意義と新生について
           松田己代志

 今年の正月から私は何故か、長崎の住吉本宮の落慶の事がしきりに考へられて仕方がなかった。特に“顕斎”といふ事がどういふ事か分らなかつた。総裁先生が「日本の危機的状態を打開するためには人間力ではその術なし。もはや住吉大神のお力による他に道なし」と仰せられるその御心中はよく分るのであるが、また生長の家の運動が住吉大神の御力によることは、生長の家立教の当初より今日の世界的発展をみるまですべて大神の御神業であり、そのことは総裁先生御自身語り続けて来てをられることであり、私は総裁先生御自身が住吉大神のお姿であると考へて来ててゐるので、住吉本宮御造営の意義は分るのであるが、さて、“顕斎”となるとどういふ事なのか雲を掴む様な気持で全然分らなかった。
 幸い正月の月は月一ぱいイビウーナの南米練成道場で諸種の練成会が連続的に行はれて、その担当をしてゐたので、あの神気満つる聖地で神想観の中で無意識のうちに“顕斎”の事について真剣に考へ続けてゐた。すると『聖使命』紙の一月十五日号に総裁先生の“新生宣言”が発表されてゐた。「米寿には今より更に若返り海外に道伝へんと神に誓ひぬ」とあり、“新生について”の先生の御法話の内容も紹介されてあった。私はその“新生宣言”のお歌を拝誦して何か身の引きしまるのを感じた。米寿の年には(明後年は)今よりさらに若返って、ブラジルまで眞理の伝道においで下さるといふのである。そしてその御決意を神にお
誓ひになっていらっしゃるのである。私は“ハッ”と“顕斎”の意義が分った様な気がした。それは“顕斎”とは“新生”することだった!と叫びたい気持だった。先生の“新生宣言”のその“新生”の文字が私に大きく、力強く迫って来る思ひがした。
 私はこの“新生”について真剣に考へねばならないのではないかと考へた。それは我等は本筋に新生せねばならないといふことである。では新生するとはどうすることかと考へてみると、「人間・神の子」といふ真理がただごとではないといふことに気がついたのである。「人間・神の子」といふことは、人間は神の生命であって、本当の人間はこの肉体ではないといふことであると心得てをるし、誰でも『生命の實相』を読めてすぐ分る様に教へられてゐる。だがそれで人間神の子が分ったといふことであってはならない。勿論そのことを知ることは一番大事なことであるが、然し「人間・神の子」といふことは「人間は神」であるといふことであり、余りにも荘厳偉大な眞理である。そこで、それでは「人間・神の子」と知ってゐる我々は果して「俺は神だ」と魂の底から言ひきり得る自信と強い信仰に生きてゐるであらうか。と考へてみると身の毛のよだつ思ひがするのである。私の心の何処かでは、この問ひに対して「それは心の表面で知ってゐるだけだ」といふやうな声が聞えてくるのである。私はこれは一大事だと思った。
 我々生長の家の同志は『生命の實相』に触れた時新生してゐる。肉なる人間から霊妙極まりなき人間に新生してゐる。然し新生するといふことは自覚の問題であるから、いくらでも何度でも新生してよいし、新生すべきである。「人間・神の子」の真理にしても、人間は神の生命であり、神そのものであるといっても具体的には、肉体をもって生きてゐる。生きてゐるからといって神とみるならば大きなつまづきとなる。従って人間を神とみるならば、結局現象を否定しなければならない。然し現象を否定することの如何に難事な事か。それは恐ろしい程の達人・聖者によってのみよく悟徹し得る心境であらうと考へられる。だが、現象を否定するといふことは、現象を成就することであるから、どうしてもこの問題に取り組まなければならない。現象世界は、神の自己表現の世界であるから、現象を否定し、現象の奥なる實相を見ることによって、観るものが現われるの法則によって、現象世界が成就すると教へられてゐる。
 さて次に考へられる事は、人間が神であるならば「私には出来ません」といふ考へやコトバがあってはならないのである。またすべての人類が神であり、神の生命の兄弟・姉妹であるならば、誰それの悪を批評することもあってはならないのである。人間が紳であるならば、その人の行く所謂和の世界が、健康の世界が、豊かな世界が現はれて来なければならないと老へられるのである。
 次には我々人類が神であり、神の生命の兄弟・姉妹であっても、それは實相のことであって、現象に於いては具体的に男性であるか、女性であるかでなければならない。また親であるか、子であるか。兄姉であるか、弟妹であるか。夫であるか、妻であるか、嫁であるか姑であるか、主人であるか下僕であるか、普通の会員であるか。役職人であるか、どのやうな職業の人間、何処の国の人間で、何処に住んでゐるか等々数へればキリがない程であって、それは平等であると同時に差別があり、差別があって平等であるのが人間神の子であり、この眞理を完全に生き切ることが人間・神の子であり、人間・神の子の眞理を知ったといふことになるのではなからうか。
 私は練成会含の講話の中でこのやうな話ばかりを話しはじめた。これがわからなければ、総裁先生の住吉本宮御造営の御精神が分らないやうに思はれるし、顕斎の意義も、新生の意義も分らないやうに思ったからである。世界を浄めるといふことは、世界の思想を変へることであり、世界の思想を変へるには先づ自分の思想の徹底的な転回が行はれなければならない。しかも、長崎の龍宮住吉本宮と顕斎殿の落慶は我々の思想が徹底的に“我神なり”の自覚に昇華する、新生する是非なき機会と考へなければならない。この慶事によって日本のみならず、世界に多くの奇蹟が生ずるであらう。
 斯のやうな事を眞剣に考へてゐると、日本本部の内報“ひかり”が送られて来た。その中に伊藤陽夫祭務部長が“顕斎奉祀心得”を書いてをられる文章を読んで私は仰天した。まさに、祀りをする立場の総裁先生が祀らるる立場にお立ちになるのが“顕斎”であって、歴史上に神武天皇と神功皇后が御顕斎をしてをられる事が書かれてあった。何といふ荘厳極まりない慶事であり、重大なる神事であり、祭典であらうか。私共は襟を正してこの祭典を凝視し、その意義を徹底して生きねばならない。
 この様な深い意義ある顕斎であればこそ、総裁先生は年頭早々「新生宣言」を御発表になってをられるのである。総裁先生は已に新生していらっしやるのである。七月号の神誌“明窓浄机”欄には「私は光である」とお書きになってゐられる。先生の新生のお言葉であると思ふ。そしてさらに「近頃私は頭髪の白毛が減り、薄くなってゐた部分の毛が殖え、それが黒髪になって来たやうに思ふ。わたしは米寿になれば海外巡錫に出ると神にちかったと短冊を書いて神前に奉納したのだから、その契ひにそむかないやうに、あらゆる努力を集結してゐるのである」とお書きになっていらっしゃる。已に顕斎は行はれてゐる。驚くべき奇蹟が続出するであらう。私は「顕斎」の意義を完全に知る事が出来た。私はこの頃の話に殆どこの顕斎の話をする。肉体を人間と見て来た旧思想の残骸を潜在意識の中に蓄積したまま人間・神の子の思想を抱いて、そして、それで生長の家の信者だと満足してゐては、生長の家ではないし、総裁先生が心魂をこめて御造営の龍宮住吉本宮のこの荘厳極まりなき顕斎の意義にお応へすることが出来ないと思ふからである。
(以上、松田已代志の論文)

○顕斎とは形に顕して神祀ることであり、幽斎に対する宗教上の用語だと言へば、ただそれだけで簡箪なことであるが、それを人間自身の新生に、そして国家の新生に関連してこのやうに深く考へた人は少いのではないかと思ふ。キリストは「主よ、主よといふ者、必ずしも“神の国”に入るに非ず。神のみ心を行ずる者だけが“神の国”に入るのである」と聖書の中で喝破してゐられるのである。「顕斎」といふものを、表面の儀礼的儀式的形式的祭祀だと単純に考へてしまふ者があるならば、その人は、このキリストが警告したところの「主よ、主よと言ふ者」に当るのであって、その人の信仰は形骸に堕してゐるのであって、その人の信仰には魂の真摯さが欠けてゐるのである。まことに住吉本宮の「顕斎」とは、眠ってゐた實相の魂が、その眠りから目醒めて、自己が“神の子”であるといふことを開顕する、そしてその開顕され實相の誠實さが現實生活にあらはれる「新生」でなければならないのである。わたしは日本国民のすべてが住吉本宮の建立を契機としてその誠實を結集して、自己を「神の子」として礼拝し、住吉大神の分身として宇宙浄化の、そしてその浄化の中核体たる日本国浄化のために起ち上り、単に「主よ、主よ、神よ、神よ」と呼ぶ者たるに留らず、神の御心を行ずる者となって下さることを希はずにはゐられないのである。



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