生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家の現代的意義 『生長の家30年史』から (7856) |
- 日時:2024年02月23日 (金) 23時02分
名前:本音の時代
生長の家の現代的意義 社会変革原理としての立教の使命 ― 三十年の歴史に立つ光明化運動営面の任務と活動の根本をなすもの ―
山口悌治
一、
生長の家立教三十周年を迎えて、本都職員はもちろんのこと、中央地方の全組織は強固な団結と統制のもとに、いよいよその充実を図りつつその機能と企画の一切を傾けて、全信徒がこのみ教えによってはじめて得られたその神の最高の自己実現としての自覚、その無限の感謝と悦び、その円満具足の肉体、その大調和の家庭、その天興の職業、その社会的地位立場の悉くを活用して、相ともに一丸となって展開しなければならない布教活動の根本理念は、それを一言に絞っていえば、次の一点に帰著すると信じます。生長の家信徒として自負する私共は、生長の家立教の、今日に於ける真実の意義と役割を(三十年後、五十年後にはまたその折の人・時・處に対応して立教の使命役割を果さなければなりません)どのようなものとして自覚し把握したら正しいか、そしてその正しく自覚し把握された意義役割をいかなる活動目標の達成に集中し挺身する時に、真に信徒たり得るか――に関するものであって、即ちそれは―― 生長の家出現の使命は、「人間は、皆神の子 である」という人間観の完全革命を逐行しつ つ、日本国家をしてその建国の理念さながら に正法の支配する真理国家たらしむべく、現 実社会を霊的生命的に変革することである。 従来、人類光明化運動といい、日本の実相顕現の愛国運動といいならわしてきましたが、立教三十周年を機会に、百尺竿頭を更に推し進めて、上記のように、一層鮮烈で、明確で、行動的な表現をもってその使命役割を打ち出し、その現成に向って一斉に踏み切らなければならない事態に内外ともに立ちいたっていることを痛感するからであります。この「革命の前夜」を思わせるような眼前の社会情勢を根本から変革して日本の実相を顕現する、その変革の原理として立教の使命を再自覚することは、決して過激でも誇張でもありません。事実、光明化運動が普及徹底して、日本の国家形態を真理国家として確立し、その政治体制、その社会機構、その経済組織、その生産関係、その文教政策等々の理想が正しく実際に実現し得るためには「保守」「革新」を問わず、今日支配的に横行している国家政治社会文化に関する思想感情を根本的に革命しなければ、絶対にその目的を成就し得ないからであります。人類光明化も日本の実相顕現もまったく空文に化するほかはないからであります。もちろん、人類光明化、日本の実相顕現というスローガンに、不満や誤りがあるのではなく、まったくその通りなのですが、これらの合言葉には、決然として行動に踏みきれる要素が若干不足しているため、これを観念する従来の一般信徒の信仰内容、自覚過程には、多分に自分本意的な、処世術的な自己満足と安易と御都合主義的な甘さがあり、それがいつかひとりよがりな殻となって、かえって光明化運動の実質的発展のブレーキとなってきた事實は否定できません。 谷口先生は、昨年三月制定きれた『人類光明化運動指針――生長の家各員の運動心得十三ケ條』の前文に、「生長の家人各自の信仰内容の如何によって、或はその自覚の広狭深浅によって、立教の使命遂行のための諸方針も諸計画も諸施策も、結局は悉く左右されてしまふのである。光明化運動の将来を決する最大の問題は、決して外部の諸事情にあるのではなく、實にかかって生長の家人各自の自覚の如何にあると云っても過言ではない」と申されておられます。特に、『人類の危機に臨んで是非知らねばならぬこと』を最近のものとして、ここ数年来の先生の御文章や御講習に示される、國の内外の情勢に対する深き憂慮と分析批判のただならぬ熱しきを考えますとき、先生の憂慮の深さと烈しさをそのまま私共信徒の行動に持込み、立教の使命の把握と遂行の血液とせねばならぬと思わずにはいられないのです。ここ数年ぱかりではありません。先生は立教の当初から―― 「自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。友よ助けよ。同志よ、吾れに投ぜよ。人類は今危機に瀕してゐる。自分の火は小さくとも、人類の行くべき道を照らさずにはおかないだろう。此の火は天上から天降った生長の火である。火だ。自分に触れよ。自分は今覚悟して立ち上った。見よ。自分の身体が燃え盡すまで、蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する 」と。 これが、光明化運動発進の先生の宣言なのです。私共全信徒同志は、先生のこの宣言の熱血に立って、自分の身体が燃えつきるまで、蝋燭のようにみずからを焼きつつ、いわゆる資本主義はもちろんのこと、およそ唯物論を根拠として発している自由主義、民主主義、民族主義、社会主義、マルクス主義等を指導理論とする社会体制やその観念形態(イデオロギ一)を根本的に変革することなしには、神意(宇宙眞理)の地上顕現も世界平和の實現も到底あり得ないことを決意すべきであります。 最近、九州大学の教授である向坂逸郎氏は純粋なマルクス主義者としての立場から、現在の社会党の在り方を批判して、社会党の左派が右派と合同して議会主義的な國民政党論によろめきつつあるのは社会党として根本的な誤りである。社会党はあくまでも労働者農民を基盤とする階級政党であるべきであり、階級政党による社会主義革命には妥協も話し合いもないのであるから、社会党が議会主義による平和革命を夢みるのは痴人の妄想に等しいとして、あくまでも議会主義を否定して、階級闘争による社会主義革命の党であるべきことを強調し、総評もまたこの向坂論文に同調して、革命政党としての社会党の理論的強化尖鋭化に圧力をかけつつあります。 社会党はよろしく階級政党に徹して、國内革命に、日本國家の顛覆に邁進せよ という論 議が堂々とジャーナリズムの上を闊歩していても、別にそれに対して眞向からとがめる人も見当らず、これも言論の自由だからでしょうか。それとも、このような奇怪な論議をさして異としないほど、日本の思想状態は民主化され、赤くそまっているのでしょうか。 この向坂論文にたいし、社会党裳の鈴木委員長は、議会を通じて平和的に社会主義革命を遂行する事を強調していましたが、もともと左派の人であり、かつて左派が右派と合同した折、その統一綱領の左派の草案を発表して、社会党はあくまで階級政党であるべきこと、社会党が政権をとったあかつきには、社会党の永久政権すなわち独裁を實現すること、したがってその反対の一切の策謀を封ずるため憲法を改正することを、新聞記者に公言した人物であるだけに、どのようにひっくりかえるか判ったものではありません。 もともと社会党という存在は、共産党と一線を画すと主張している限りは、今後いよいよ影のうすい、存在の意義をなし崩しに失って、末は、共産党に逃げ込むか、保守政党に吸収されるかするほかはないのです。資本主義の未成熱な群小の後進國家ならいざしらず、資本主義の高度に発達した國々では、保守政党といえども資本主義に内在する欠陥る除去しつつ、革新的な社会主義的政策をどんどん取り入れて社会党のお株を奪い、資本主義國家形態から共産主義國家とは別な形態の社会福祉國家に計画的に移行しつつある趨勢にあるのですから、社会党が階級政党たらんとする限りは、必ず共産党の傘下に立つか、分裂して右派系は保守へ、でなければ保守の左派と結んで第三党へ、左派は共産党に呑み込まれてしまう運命にあるといえるでしょう。そこがまた、共産党の手先きである総評のつけ目なのです。 日教組の幹部や総評にとっては、勤評そのものが問題なのではなく、或いは二次的三次的には問題を含んでいるのかもしれませんが、それよりも勤評反対闘争をはなぱなしく執拗に展開することによって、政府の強圧と反動性を巧妙に宣伝して、あたかも岸政権の反動性が日本の國家形態に内在するかの如くにすりかえて、打倒岸政権がそのまま感情的に國家否定に流れ込むように國民の潜在意識に植えつけ、「なんでも反対運動」を次々に起しては國内革命への大衆動員の幅を拡げ、道を容易にする戦術とするそれが第一義なのです。目的は國家と國民この離反にあるのです。現在意識面では、直接國家否定を打ち出すことは、致命的なマイナスとなりますから、潜在意識面で、國家と國民との生命的な意識下での深いつながり、意識下ですからなんら理論によって防備されないままに本能的に放置されている深い長いつながりを断ち切って、國家を架空の観念に追い落し、無用のガラクタたらしめたいのです。國民の潜在意識への心理学的浸透戦術の採用は、新聞、放送、ニュース映画等のマス・コミ戦術と結んで、とみに活発化しています。警職法改正問題に総評が打った手はいい例証です。ことに最近の総評の動きは著々と國内革命への手順を整えつつあるかに見受けられます。國内にソ連の大使館が開設せられていることも見落してはなりません。 一方、自民党はどうかといえば、このような國内情勢を知らぬはずはないのでしょうから、まずなによりも國民の党としての性格を明らかにし、党内派閥の利害によって歪められることのない保守政権としての思想を統一し、マルクス主義者やその党派以外の何人も承服せざるをえないイデオロギーと社会政策の路線を確立すべきなのですが、旧態依然として、派閥争いに浮身をやつし、それには相応の理があるのかもしれませんが、左翼系ジャーナリズムの好餌となって、総評体制の強化に側面から応援するような羽目を自ら招いています。そのどさくさをせせら笑うかのように、総評では、本年度の春季闘争の第一波を、「資本の搾取に対決する階級闘争である」とうたって、二月下旬から三月上旬にかけて、中立組合とも手を握って全國的に實カ行使に入ると発表しています。 二月下旬から三月上旬といえば、恰度そのさなかに、私共生長の家の信徒は立教三十周年記念の第一回全國威信徒大会を開催することになるわけです。こうした國内情勢のもとに、全國から一萬三千の信徒を動員して開かれる立教三十周年記念の信徒大会は、日本國家の運命にとっても、立教の使命遂行の在り方にとっても、信徒としての自覚の在り方にとっても、きわめて重大な意義をもつものとならなければならない理由を、よくよく納得して戴けると存じます。 ソ連國を除いた自由主義國家群の中で、日本ほど、マルクス主義の学説に最高の権威をいまなおもたせ、のさばらしている國はないそうですが、そのマルクス主義をも含めた一切の唯物論体制を変革することなしには、日本の實相も顕現しないし、御心の天になる相を地上に現成することはできないことも、もはや明らかでありましょう。 では、現實社会の変革は、如何なる面から著手したらよいか。 生命の實相哲学は、人間生活に関する一切の原理を余すところなく含んでいるのでありますが、教勢の現状は、目下、高度な組織力と強固な思想の統一を形成充實の過程にあり、国家対策委員会も発足直後であり、主として信徒個々人の個別的な活動しか、あるいは少数グループの地域的職能別的な活動しか期待できませんので、現實社会変革の手懸りとして、次の二つを基本的な線とするほかはないと思います。 一、人間観の変革の問題 二、日本国家の理念現成の問題 副次的には、病気の問題、家庭の問題、教育の問題、日常生活や行事の問題等々、直接個人生活にかかわる或いは少数グループの身近かな諸問題がありますが、それらを巧みに援用しつつ前記の二鮎を基本と定めなければ、社会変革の軌道を強大な力たらしめえないことは日頃からの先生の御指摘の通りであります。 そこで、ここでは第一の人間観の変革の問題を取りあげてみようと思います。
二、
谷口先生は、「生長の家の全貌―生長の家は現代に何を興へるか―」(本書『生長の家30年史』一一二頁参照)というきわめて主要な御文章の冒頭に、「凡そ人間の生活にとって何が必要であるかと言っても『人間とは何ぞや』の自覚の確立ほど必要なものは他にないのであります。戦後、人権の自由が叫ばれ、その解放が唱へられてゐるのでありますが、人権の自由が高唱せられるのはよいとして、さて人権即ち『人間』の基本的権利の確立をハッキリさせる為には、人間なるものが如何なるものであるかが先づ最初に確立されなければならないのであります――」と明言せられています。 また『人類光朗化運動指針』の第三條には、「人類光明化運動とは先づ第一に何を為さんとする運動であるかを常に明らかにしなければならない。即ちそれは、『神の子としての人間なるものの本当の相』を凡ての人々のうちに開顕し確立することによって光明化を遂げんとする運動である。自由と云ひ平等と云ひ人権と云ひ民主主義と云ひ、世界平和と云ひ、或は政治と云ひ社会と云ひ労働と云ひ教育と云ふも、すべてみな人間なるものの実体の確立なしには在り得ない。生命の尊重が今日ほど激しく叫ばれた事はないに拘らず、今日ほど生命が無視されてゐる時代はない。この矛盾、この混乱は、みな、人間が人間でありながら人間なるものの本当の相を見失ってゐる所から発してゐる――」と。 事実、多くの人々は、自分が男であり女であり夫であり親であり子である前に、人間であることを忘れほうけています。共産主義者であり、組合員であり、労働者であり、農民であり、教師であり、学生であり、公務員であり、政治家であり、資本家であり、サラリーマンであり、商人であり、進歩的文化人であり、敵であり、味方である前に人間であることを忘れています。なかには肉体的存在であり動物であると思っている人もいます。人間の自由とは、あくまでも「人間」の自由であって、単純に親や子や労働者や資本家等の自由をいうのではありません。もし人間の自由が、親や子や労働者や資本家や等等の自由というのであれば、この世の中は凄惨な対立抗争の巷と化するほかはないでしょう。いや現にそのような徴候は歴然と眼前に繰りひろげられています。ですから、今日ほど人間の自由や人間の尊厳が叫ばれている時はないにもかかわらず、今日ほど人間の空白の時代はないというのです。これほど人間がうようよしているにもかかわらず、一人として人間でない者はないにもかかわらず、人間なるものの實相が少しも問題にされていない(人間なるものの本当の相の確立に全力をあげて活動しているのは、驚くなかれ生長の家だけです。この事實にはっきりと眼を開き強く心に銘記していただかなければなりません)というのは、一体どういうわけなのでしょうか。それは、人間なるものが、集団の中に消滅しつつあるという事實から来ているのであります。独立した人格としての人間がいるのではなくて、集団が動いているのです。この人間の集団化の傾向は、今後いよいよ巨大なものとなって行くでありましょう。その集団を大別して二つに分けることができます。一つは、プロレタリアートと称される階扱集団であり二つは、思想も性格ももたぬ大衆集団です。 階扱集団を支配しているイデオロギーはもちろんマルクス主義あるいはマルクス・レーニン主義(そうでない多くの組合もありますが今はそれには触れません)であり、それを動かしているものは少数の指導者です。マルクス主義においては、独立した人格としての人間存在を最初から認めないのですから、階扱集団のみがあって人間がいないのは当り前ですが。 マルクス主義の基本的教條として有名な公式「人間は彼等の生活の社会的生産に際して、一定の必然的な、彼等の意志から独立した関係、すなわち彼等の物質的生産力の一定の発展段階に即応した生産関係に人る。この生産関係の総体は社会の経済的構造を形成するが、その上に法律的及び政治的上部構造がそびえ、これに一定の社会的意識形態が相応する。物質的生活の生産様式は社会的、政治的及び精神約生活過程一般を制約する。人間の意識が存在を規定するのではなくして、逆に人間の社会的存在が意識を規定する。」人間の意識が存在を規定するのでなく、逆に人間の祀曾的階級的存在が人間の意識を規定する、と叩き込まれているのですから、階級集団においては、人間の自由も尊厳も主体性も全くなく、人間はプロレタリア階級集団の意識の中に消滅してしまうのであります。もっともマルクスも、その出発の当初においては、「人間を人間自身の最高の本体なりと宣言する理論に基く解放である」(一八四三年発行、ドイツ・フランス誌所載の「ヘーゲル法哲学批判」より)と主張し、『共産党宣言』の中にも、「各個人の自由な発展がすべての人々の発展にとって條件となる―― 」が如き社会を想望して、商品化している労働者の「人間」の解放を企図するヒューマニストとして出発しているのでありますが、「人間」を全く一面的な唯物的な階級存在としてしか把握していないのですから、資本の奴隷から人間の自由を回復することを念願しながら、逆に「人間」をプロレタリアートと称する階級集団の中に解体してしまう結果になったのは当然の帰結です。「人間」を人間自身の最高の本体とする解放にはならなくて、プロレタリアートの独裁を最高の本体とする階級集団の闘争の手段として、鉄の規則のもとに人間を呪縛し、集団の奴隷にしてしまったのです。こんな大きなインテキがあるでしょうか。こんな悪質な偽瞞と「人間の搾取」があるでしょうか。この偽瞞と搾取に堪えかねて、自由を求めて立ち上ったのがハンガリーの労働者や農民や学生や軍隊だったのです。ソ連はこの昨日までの同志を何千台かの戦車をもって蹂躙しました。何処に人間の自由の尊重があるのでしょうか。 また、三方をソ連圏にかこまれ、人口僅かに七百萬(東京都にも及ばない)、その上十年間もソ連の占領下にあったオーストリアが、一歩もマルクス主義を寄せつけず、ついに永世中立を宣言して独立を回復し、ソ連もこれを承認しないわけにはゆかなかった事實は、七百萬の公民が、人間の眞の自由は、唯物論からは断じて出て来ないことをはっきりと自覚していたからだと思います。同じドイツ国民として敗戦の悲惨をなめたにかかわらず、西独の今日の繁栄に較べて、ソ連の支配下にある東独の貧困の理由は何處にあるのでしょうか。 それに何ぞや、こんな悪質な偽瞞と搾取を穴だらけのオンボロな唯物史観によって武装し、あたかも天徠の福音の如くにあがめ、資本主義政権のもとには自由は在り得ないとして、労組や学生はもとより、大量の婦人層までも階級集団にまき込んで、今や国内において著々と革命の準備を進めようとしているのです。しかし人間が否定されているところに人間の自由があるはずがありません。その点悪質な古い資本主義社会と異なるところはありません。ただ彼等は人間の否定を、資本主義社会における場合は「搾取」と呼び、プロレタリア集団の場合は無上の「誇り」「人民の英雄」と感じているだけの相違であって、責本主義もマルクス主義も共に唯物論から生れ出て来た腹違いの兄弟なのですから、どっちへ組みしようが、反対しようが賛成しようが、人間の否定、自由の否定となる「鉄の法則」に気附かず、狂奔しているのです。アメリカとソ連の冷い戦争も、實はこの関係の拡大したすがたといえましょう。 人類の危機とはまことに、各人における「人間の危機」に胚胎しているのです。だからこそ、生長の家は、唯物観による人間把握が一切悪の根源であることを完膚なきまでに暴露して、神の子としての人間なるものの本当の相を、生命的霊的存在としての「生命の實相」を労働者といわず資本家といわず、凡ての人々の想念と生活の根柢に開顕し確立することを使命として、すなわち人間観の革命をとおして現實社会を変革する、一切の封立を超えた第一の原理として出現したのです。 『人類光明化運動指針』の第四條には、神の子としての、眞に「人間なるものの自覚」の内容を次の如く要約してあります。 「神の無限生命の当体と云ひ神の最高の自己實現であると云ふ自覚は、『一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ』と云ふ覚悟に徹しその覚悟を徹頭徹尾生き切る事である。諸悪不幸のすべては責任を他に転嫁するところから始まる。家庭も環境も運命も社会も政治も国家も世界も、隣保班の事も青年会の事も白鳩会の事も相愛会の事も県連の事も、光明化運動の消長も立教の使命の遂行も、すべてみな自分以外の他の何人の責任でもなく、自分自身の日々念々の思ひと祈りと行動のうちに在るものであり、一切の衆生が残らず救はれてしまはなければ、『吾れ正覚をとらじ』と誓はれた御佛の心、即ち自己を一切者とする自覚の発動こそ眞に人間神の子の自覚の証左である。さればすべては自分の心の影となり、吾れ祈れば天地応へ、吾れ動けば宇宙動くものなる事をよくよく思ひ知るべきである」と。
更に聖経『甘露の法雨』には 「神こそ渾ての渾て、 神は渾てにましまして絶対なるが故に、 神の外にあるものなし。―― 」 神が渾ての渾てであり、その神と一体であり、その神の無限生命がそのまま自分なのでありますから、「自分こそ渾ての渾て、自分は渾ての渾てにましまして絶対なるが故に、自分の外にあるものなし。」この自覚こそ眞に人間の自覚であり、親の自覚であり子の自覚であり、労働者の自覚であり資本家の自覚であり、一億同胞各人の自覚であり、全人類一人一人の自覚であるのであります。この自覚を日々念々に生きる者を称して「人間」と呼ぶのであります。男も女も資本家も労働者も教師も学生も政治家も文化人もサラリーマンも、すべての人々が一切を自分の責任とする自覚、一切者であるという自覚に立った社会でなければ世界でなければ、眞の自由も平和も断じて現前せず、この自覚を缺いては、自由も平和も架空の美辞麗句にすぎません。この自覚においてはじめて、人間の尊厳が不動の権威をもって輝くものとなるのです。人類光明it運動は、立教の使命の途待ということは、私ども信徒が、人、時、處に応じてこの自覚を懸命に顕現して行く程度に応じて、その権威と迫力と実績とを現実に挙げて行くのであります。一切者としての人間の全相を見失って、人間の一面にすぎぬ個人性や、民族性や、階級性をあたかも人間の全部であるかの如くに僭称して、互いに自己を主張し批判し闘争している世界は、対立の世界であり、対立の世界に自由と平和が生息できるはずがないことは自明の理です。 マルクスが想望した「人間を人間自身の最高の本体なりと宣言する理論に基く解放」も「各個人の自由な発展が、そのまますべての人々の発展にとっての條件となるが如き社会」も、その社会の各人が、自己を一切者とし、一切を自己の責任とする生命的存在、すなわち神の子の自覚に立ってすべてを自心の展開として想念し行為する時に、はじめて出現の道が開かれるのであります。青年マルクスが夢みた社会は、人間を社会的存在とする唯物史観の経済学説によって成就するのではなく、人間を神の子、すなわち宇宙眞理の最高の自己実現とする谷口先生の『自生命の實相』によってはじめて實現し完成するものなることを、私共は高らかに宣言して、その真実を実証しなければならぬ時が来ているのであります。
(さて、階級集団とは反対に、集団としてのイデオロギーももたず、一貫した思想も主張も目的もなく、したがって統一もない、集団ともいえぬ大衆集団。従来から一般大衆と呼ばれている集団で、特別の新しいものではないのですが、終戦後、社会状況の変化にともない、急速に膨張して問題となって来ました。今はくわしく触れることができませんが、恰度霧のように分散してひろがりながらも、いつか密度が濃くなると一切の交通機開が停止するほかはないように、都市の隅々から家庭から社会のあらゆる階層から発生して霧のように人々を呑み込んで濃度を強めつつある大衆の集団。新聞はもちろんのことラジオ・テレビ・映画・娯楽雑誌・週刊誌の氾濫、世の中の極度のスピード化能率化と共に、自分でものを考えることをやめてしまった人々の集団です。いよいよますますはげしくなる大規模な生産設備のオートメーション化と技術の発達から来る人間の機械化部品化。経営の高度な合理化複雑化にともなう分業の一層の細分化、業務の単純化単調化。したがって熟練精神の無用化と創意工夫意慾の退化、等々から来る人間性の稀薄化。希望や夢の喪失。その反動としての享楽性、華美、強烈な刺激の追求、交通の便利と娯楽設備の氾濫。性の解放。悪徳読物の洪水。競輪、競馬、パチンコ、宝くじ等の投機性の日常化。金銭慾。誤れる民主主義による無差別平等化。住宅難、家庭の崩壊。教師の労働者化と学力の低下。軽薄軽信等々―― この大衆集団では、人間の否定というよりも、人間の自己喪失、人間の自己抛棄の態度がその著しい特色を強めています。極端ないい方をすれば、人間の動物化現象です。これが大衆団です。)
三、
さて、「人間は神の子である」申すまでもなくこれは生長の家立教第一の宣言です。私共信徒は皆これを確信して疑いません。しかし固く信じて疑わないということは、必ずしもその宣言の理解把握が正しいということの証明にはなりません。 人間は神の子である。――私どもは普通この宣言から、神と神の子としての人間と、この二つの命題とその直接的関係だけを生命の根本的な在り方として把握するのであります。確かにこの把握は絶対なものでありますけれども、生長の家の教義の全体から照らした場合、この把握の仕方で完璧であるといえるのでしょうか。 神と神の子としての人間と。この二つのもののみがこの宣言の根本命題であるから、他に論議の余地はないのでしょうか。それでは、私どもが先祖代々その中に生き、その構成員の一人であり、その現在及び将来の運命をになっているところの、祖国日本なるものの国家として構成はどのようなことになるのでしょうか。私どもが、アメリカ人でも中国人でも印度人でもなく、日本人であるということは、この宣言の前には何等の意味もないものなのでしょうか。私どもが日本人として日本に生れて来たのは単なるほんの偶然であって、アメリカヘ国籍を移そうと、ソ連へ移そうと、印度へ移そうと「人間神の子」の眞理は絶対なものであるから、この眞理の前には、そんなことは当人の自由であってどうでもよいことなのでしょうか。 昨年の三月、幅岡の教修会の折に、ある高校の先生が質問なさいました。「生長の家は宇宙の眞理を説いていると信じていますが、眞理というものは普遍性をもったものです。それなのに、どうして一方では限りなく日本を愛する――と、日本だけを特別扱いにするのですか。宇宙の眞理と、日本を愛するということの関係を示して下さい」と。 在るものは神と神の子である人間だけだ、その人間の多数たる人類だけがあるのだ――とすれば、それ以外の国家であろうと民り、日本の再建に努力したりすることは全く馬鹿げた事柄なのでしょうか。人間神の子の生命の自由とは、日本とかあるいは日本人であることとは全く何の関係もない自由をいうのでしょうか。 もしそうであれば、「人間神の子」の自覚を第一原理として宣言する「生長の家」は、日本人をバラバラにし、祖国日本を否定し解体する為に出現して来たのだと結論しなければならぬ結果となります。これは重大問題です。人間は神の子である―― という宇宙を貫く眞理も、一面的な把握に止るならば、このような悪毒無残な結論をも可能ならしむるのであって、これでは神の子と日本なるものとの関係は全く断ち切られ、日本国家の理念というものの根拠は何處からも導かれようがないことになります。日教組や総族であろうと、それらは特殊な存在であるから、眞理である神の前にはすべて無意味で無価値なのだということなのでしょうか。私どもが日本人として日本の文化を云々したり、日本の運命を痛心した評や共産党が全力を挙げてねらっているのがこの点なのですから。 もちろん、「人間神の子」の眞理の把握にあたって、このような結論を予想した方は信徒の中には一人もいないと思いますが、だからといってその把握が一面的でなかったという証拠にはなりません。実際また、私どもは「なるほど人間は神の子だ――」という何等かの自己の体験から、逆に、神の眞理性を無限の生命を愛を智慧を類推している場合が多いということです。この場合、その自覚の中心を占めているものは神でもなく眞理でもなく案外にも自己の体験なのです。自覚の中心が自己の体験に置かれているということは、全く本末顛倒であって、それがまた無意識であればある程これくらい危険なことはありません。確に神は体験されます。しかし体験は神の無限生命が顕現するに際して残した足跡にすぎないことを深く深く念い知るべきであります。 体験とは特殊です。宇宙の普遍原理たる神は自己を顕現するに当って必ず特殊な相をとって具体化します。具体化しない眞理、体験されない神、そのような眞理や神であるならそれは架空の観念にすぎません。しかし、だからといって単純に特殊がそのまま普遍だということにはなりません。特殊は普遍を体現することによって普遍性を獲得し、普遍は特殊化することによって具体的に普遍性を充足するのであります。普通と特殊、この両方を満足せしめてはじめて眞理が眞理としての権威をもつのです。ここに眞理の根本的性格があります。単に普遍性だけでは抽象観念にすぎません。 谷口雅春先生は、『新生の書』の中で、 「日本的といふことは現象界における一人一人の歴史又は行動にあるのではなく、日本民族の存在の底に流れてゐる理想であり、それは世界に共通的な理想の流れであると同時に、日本の個性において発言を見たものであるから、『特殊にして普遍』『普遍にして特殊』なるものでなければならない。単に日本に特殊にして世界に普遍的な基礎を有たないものは、それは眞に日本的なものではなく、日本人の特殊な癖か、因習か、歪みかにすぎない。それが眞理であるためには世界に普通する共通的な基礎をもたなければならないのである。『普遍にして特殊』なのが本当の眞理である」と。 「普遍にして特殊」なのが宇宙の眞理でありますから、神が宇宙の法則であり根本原理である以上、でたらめに自己を顕現するはずがなく、そこに整然たる秩序があるはずです。その眞理顕現の秩序の相を明確に把握することによってはじめて現代社会の革新原理としての人類光明化の正しい構想が立ち、組織が生命を得て、その使命を達成できるのであります。一切者の自覚といい、この世界を自心の展開といいましても、その自覚は條理の立った自覚でなければならず、その展開は何が何やら判らぬ展開であるはずがないのです。 それでは宇宙の根本眞理である神の自己顕現の秩序はどのような相をとるのでしょうか。 神がこの地上に自己を現わす場合の、もっとも合理的な最高の相は、国家という形体、国という相であります。この場合の国家とは、決して現實にあるところのどこかの国家をいうのでもなければ、国家主義的意味での国家をいうのでもなければ、近代の国家理論による国家をいうのでもないことはもちろんです。神意現成の最高の形態としての「国」をいうのです。「国」とは何であるか。「国」とは宇宙秩序の地上的表現であります。宇宙の普遍原理たる神の地上における自己形成の綜合的基本形態を「国」というのであります。ここに、「国」なるものの「理念」の根源があるのであります。したがって「国」を否定して世界をいうことは必然ではありません。といって世界を否定するのでは毛頭ありません。世界もまた神意現成の“場”でありますが、国の相が整わずして世界が神意を映す器とはなり得ないからであります。今日世界を構成しているものは国家群であって、直ちに人類ではありません。 人間は皆、言語を異にし風習を異にし国情を異にし歴史を異にするいずれかの国に属して、その国を構成する、いずれかの国の国民なのです。そして長い歴史の変遷の間には、それぞれの国々が、その国の在り方や目的や理想や発展や意義について不断に論議と改革と改悪とが繰り返されて来たにもかかわらず、それらの一切を呑み込み乗り越えて、宇宙の眞實の具現へ向って歩みを続けて来た(中には亡び去った国もありますが)ということは、それぞれの国の根源にある無形の「理念」の人智を超えたはたらきによるものというほかはありません。亡国の民が如何に悲惨な運命をたどるか、また彼等が如何に心を結集して独立を計り、国を形成しようと試みているかを知れば、その国民の魂を結ぶものが何であるか、単なる民族意識というようなものではなく、その底深く貫いて働く宇宙秩序顕現の原理としての「国なるものの理念」の形成作用を見なければならぬのであります。 孔子は聖人の道の支配する王道国家の建設を説き、釈迦は正法の支配する佛国土の現成を欣求し、キリストは「御国を来たらせ給え―」と祈りを捧げ、プラトンは“理想国家”の建設を夢みました。この聖者達の一連の悲願は、どんなに素朴に考えても、生命存在としての人間の在り万は、単なる一切者としての「個」ではなく、「国」において字宙秩序を神意を現成する一切者としての「個」であり、その国家の根源に、それぞれの「個」を「一切者」として成就する理念としての「国」の究極の在り方を示したものにほかなりません。 私どももまた悠久の昔から誰の意志ということもなくこの日本国に結合され、言語を一つにし、風習を一つにし、文化を一つにし、歴史を一つにし、神を仰ぎ佛教を信じ、連綿として尽くるなき叡智や情意の流れを一つにする運命共同体としてのこの国を構成し、天皇を中心と仰ぎ、この国のために切々と祈りその運命を担う者であります。そしてこの国の古い歴史を貫いて人々に受け継がれて来た祖国の理念とは、いみじくも「神の国」の理念でありました。 『人類光明化運動指針』の第五條には、 「日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を天之御中主神として把握し、その「中(みなか)」への帰一とその「中」の展開、即ち宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、天津日嗣とはこの理念のさながらなる継承以外にはなく、天皇の権威は権力をもって思うがままにこの国を支配する権利にあるのではなく、この理念の継承實現にまします事、従って天皇を中心と仰ぐ日本国家の発展は、天皇の人民支配の手段としての国家の発展と云ふが如き専制的な性格のものでは微塵もなく、宇宙眞理、即ち神意の地上顕現の至純至高の形体としての日本国家の発展である事、これが日本神話の理念であり、日本民族の理想であり日本建国の精神である。この眞理現成の大まつりごとに、神の子として命(みこと)として自己の責任としてまつろひ奉る事が實相の成就である事を明らかにすべきである。単に自分の祖国たるのみの理由にて日本を愛するのではなく、東洋と西洋との中間に位して一切を生かす大乗の眞理国家たる事が日本の理念であるからこそこの国の国体を鑽仰してやまず、この国の神の子国民として生を享けしめられた所以の深きに感泣し、わが一身もわが家庭もわが生活もすべてこの理念現成に捧げられてはじめて存在の意義を持ち得るものなる事を、各自互ひに明確に自覚し合い、その行動の根拠となし合うべきである」と。 今こそ私どもは、この「国の理念」をその在るべき相においてこの国の秩序の中に回復し、御心の天になるすがたをそのままこの国の隅々にまで現成し、この国にある神の子としての人間が、その一切者としての全相を余すところなく顕現しつつ、感謝と祈りに満ちてそれを世界に及ぼし得るが如き神の国たらしめなければならないのであります。これが生長の家立教の歴史的任務であります。 したがって「人間神の子」の把握は、それだけで完結するものではなく、「国なるもの」との内外相即において始めて完結するものであります。神の自己実現の当体として、一切を自己の責任とする一切者としての人間の全相、神の地上における自己實現の絶命的基本形態としての日本国家の實相、そして人間と国とを貫いて生くる宇宙の法則としての大神。神と国と人間との三者一体の自覚こそ、眞に人間の自覚であり、神の子の自覚なりと把握しなければ、私どもは眞に信徒たり得ないのであります。 この三者一体の自覚にすべての信徒が立って、すべての人々の生活の中に魂の中にこの一体の自覚を確立する運動、それが現代社会を変革する原理として出現した光明化運動の現代的意義であると確信するものであります。
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