生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第三十八話> (639)
日時:2013年03月28日 (木) 10時58分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第三十八話(通算第364話)


無生物と生物との境 <その二>



物体は生きていて特異の疲労感覚を示す。

(『生命の謎』P.59−62)

<<前章で、私は「鉱物も疲労し死す」ということを述べたが、鉄の一片も疲労し、ついにその刺戟に対する感覚反応が死するのである。

それは鉄全体としての感覚が疲労し死するのであって、鉄の分子そのものは依然として生きているのである。

即ちそこに“鉄全体の生命”と“鉄の分子の生命”と、二つの段階の生命があるということがわかるのである。

人間も疲労し、やがて死ぬとしても、人間を構成している分子は死なないのである。即ち「肉体全体」としての<生命>と、「分子、原子」の<生命>とは又異なる段階にあるものだということができるのである。

複雑な有機体になればなる程、色々の段階の「生命」が複合して形成せられているのである。

人間は<分子>としての生命、<細胞>としての生命、そして全体が一つに統一された、<有機体>としての生命、更にその上に目には見えない<幽体>としての生命、<霊体>としての生命が複雑に複合して成り立っているのである。

 最近「生命」の人造説が或る一部で唱えられているのであるが、それは、「生命」が人造せられるのではなくして、生命は普遍的に到る処に潜在力として潜在するのであって、それが発現する条件がととのうた時にそれが生命として肉眼に見ゆる状態に現れて来るのである。

例えばそれはラジオの波は普遍的に空間に充ち満ちているにしてもラジオ・セットの条件が整った時にのみ感覚に触れるように現れて来る様なものなのである。条件がくずれた時は生命は姿を消すが生命そのものは滅するのではないのは、ラジオ・セットの条件がくずれた時にアナウンサーの声は姿を消すが、アナウンサーは死んだのではないようなものである。

 ともかくすべてのものは生きているのである。

分子として原子として生き生きと活動しているばかりであなく、その結合配列の条件が整うと、一段上の「界」に存在する理念がそれに感応してきて、それが別種の結合体(細胞等)として一つに纏まった生物現象をあらわす。

その細胞が適当な状態に結合すると、更にいちだん上の「界」に存在する理念がそれに乗り移ってきて、その細胞群全体が一個の犬とか牛としての生命現象が現れるのである。

 剃刀(かみそり)も疲労するといわれている。休息させておくと又切れるようになるのである。分子原子は疲労しないが、剃刀全体としての生命が疲労するのである。

三味線の絃(げん)も疲労し遂に切断する。然し時にゆるめて休息させてやれば、それは長持ちするのである。着物も疲労するのである。「繊維が“くたびれる”」という言葉があるが、毎日同じ着物を連続的に着るよりも、時に休息させながら二三種類の別の着物と交代する様にすれば長持ちするのである。

 吾々の使っている道具も生きているのである。それにはある精神がこもっている。正宗の名刀、村正の名刀、貞宗の名刀等-------その作者の精神に類似の「刀の魂」が籠もっていて各々刀の性格を異にするのである。

機械も家も生きているから、使わずに放って置くよりも可愛がって使う方が長持ちするのである。家は空き家で置く方が早くがたがたするようになるし、農具も使わずに放置し置くならば、使う時よりも一層多く破損するのである。

同じ紡績機械でもこれを拝んで使う様にするならば同じ原綿を使いながらも斑(むら)のない良質の糸ができるのである。>>




生ける結晶体に就いて

(『生命の謎』P.62−63)

<<鉱物もかくの如く生きているのであるが、鉱物の結晶体と生物との中間的存在ともいうべき「生ける結晶体」と云われるものがある。

それは全く結晶体の様に幾何学的な形をしているものである。硅藻(けいそう)といわれるものはその一種である。此れは硅素のごく小さな貝殻の如きものに包まれている膠(にかわ)状のごく微細な一滴にすぎない生物なのである。

それは唯顕微鏡のみによって見ゆる所の存在であり、ビンの先に数千個を同時に列(なら)べることが如きという程の微小体にすぎないのである。然も、これが生きているのであって、成長、栄養、生殖------その他、生物としての萬搬の生理的活動を続けるのである。
 
いわゆる黴菌(ばいきん)といわれるものに到っては、それは植物に属するだけに鉱物よりも一層はっきりと植物的な生活現象を現しているのである。

然し鉱物・生ける結晶体・それから黴菌と列(なら)べて見ると、その境目は殆んどはっきりしないのである。鉱物が乾燥状態に多年の間おいても変化しないと同じ様に、この小さき生物は長期間の乾燥に耐えて又水分の補給を受くれば復活して活動状態に入るのである。>>






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