生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第三十九話> (658) |
- 日時:2013年03月29日 (金) 10時41分
名前:信徒連合
< 第三十九話 >“私としたことが、開祖先生の文字表現の深い心に気がつきませんでした。スミマセン!”純子拝
(『理想世界』誌平成22年3月号、『白鳩』vol.2・平成22年5月号)
<<人に「親切をする」とか「愛を与える」などと考えると、聖人ではない自分にそんな立派なことはできない・・・(P.43)>>
<<それは、相手の成長の可能性を否定し、「判断力」という自分の理性も否定している。・・・(P.9)>>
(講評)
今日の一般社会では「親切」と書きます。また、「成長」と書きます。しかし、『生命の實相』の中では開祖・谷口雅春先生は「親切」ではなく「深切」と常に書かれており、その理由をも説明されておられるのであります。すなわち、「しんせつ」とは、“深く切ない”という気持を表わす言葉であるから「深切」と書くべきが当然である。「親切」と書けばその文字の通り「親を切る」という意味になります。
また、開祖・谷口雅春先生は「成長」という文字は『生命の實相』ではあまり使われず、「生長」が原則であります。「生長」の「生」は生命が縦に天に向かって真直ぐに無限に伸びていく意味であり「生きる」、「生まれる」、「生きている活気凛々の生命」の「生」であります。「長」は生命が横に長く延びる、生命の無限の展開を表わしているのであります。
従って、「生長」とは生きている活気凛々の生命の無限の伸長と無限の展開、そしてその縦・横の十字交叉の一点が“永遠の今”であり、この“久遠の今”を生きるのが生長の家の生活であると云う事が判るのであります。「生長」と書かずに「成長」と書くと現象中心の有限の唯物的展開の言霊(ことだま)の響(ひびき)きとなり生命的実感は失われてしまいます。
『生命の實相』を精読すれば、戦後教育を受けた人なら余計に「親切」ではなく「深切」が、「成長」ではなく「生長」が各所で使われていることがスグ気がつくはずであります。
また、その理由も『生命の實相』全巻を“海綿が水を吸い取る”がごとくに読めば自ずからわかるものであります。三代目純子(自称)白鳩総裁はこういったことに気付かなかったのでしょうか?気が付いていても「深切」・「生長」を使うことは“原理主義”になるとはよもや考えては居たのではないとは思うのですが?
また、深層心理分析学者は「親切」と無意識的に書くのは“親切=親を切る=教え親(開祖・谷口雅春先生)を切る”という心の表れと読み取るかも知れないのです。
ともかく、教団の最高指導者の地位にある人としてはこの文字の使い方、必ず『深切』・『生長』であるべきことについても気を配って頂きたいものであります。
(『生長の家』信徒行持要目第五――一切の人に物に行き届くべし)
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