生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第四十話> (663) |
- 日時:2013年03月30日 (土) 10時20分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第四十話(通算第366話)
生命の實相とダーウィンの進化論
(人間の生命は如何にして顕現したか) <その一>
類人猿から人間に進化した証拠はない
(『生命の謎』P.241−245)
<<人間の生命は如何にして生じて来たものであろうか。それに対する吾々の見解はすでに述べて来た通りであって、人間は宇宙心霊(神)の心の中に描かれたる最高理念の表現としての「理念」的存在であるのである。(前編「生命の本質への探究」参照)
ところが、この哲学の最初にのべたと通り、宇宙の根源は唯一(ただひとつ)の大生命であるから、宇宙には一つとして無生物というのはないのであって、原子も分子もそれが集合してできているところの物質も、それが鉱物であろうと無機物であろうと悉く生きているのであって生きていないものはひとつもないのである。
そして単純なる組織の結晶体と生物との境である様な簡単な生物の生命から、極めて高級な生命体にいたる迄、各種各段階の生物が存在するのである。
そして、形はともかくとして、人間はその精神に於いて、能力に於いて、その道徳性に於いていよいよ益々進化しつつあるのである。
人間のみならず、ありとあらゆる生物は進化しつつある様にみえるのである。
そこで簡単なる生物から複雑なる生物へと徐々に進化してついに類人猿にいたり、人間まで進化したのであろうという様な憶測が行なわれるというのも無理がないのであるけれども、類人猿が「人間」にまで進化する過程のその中間的連続を形成するところの漸進的変化の各段階と思われる姿の生物は地上に見出すことはできないのである。
類人猿と人間とは哺乳類であり、有脊椎動物であるという事について著しく似ているのではあるけれども、それらの根本的形態をのぞいては、余りにも類人猿と人間との間には徐々に形態が変化したとは居えない様な著しいギャップがあるのである。
そこに「人間」の生命が猿の生命と根本に於いて「種」を異にするものであり、「その内在理念」を異にするものであるといわなければならないのである。
もっとも類人猿と人間とのそのギャップをうずめる所の徐々変化の形態をそなえた所の生物が、過去には存在していたのであるが、それが現在は死滅してしまってそのギャップをうずめることができないのであるけれども、過去の時代には必ず、類人猿と人間との中間変異を現わす超類人猿ともいうべき生物がいたのだが、その種族が或る機会に全滅して其のリンクが絶えてしまったという説もあるのである。
即ち或る種類の生物が地上から一時に大量的に消滅してしまうという実例は随分あるというのである。たとえばアメリカ産の水牛の如きは極めて急速に滅亡して行きつつあるのであって特別の保護を与えなかったならば地上から間もなく姿を消してしまうに相違ない由である。
人間に於いてもアイヌ種族の如きは、特別の保護を与えながらでも急速にその人口が減少しつつあるのである。更にハワイに土着していた種族の如きは白人種がハワイ島を発見する当時迄は現在よりも人口も多く健康であり、知能もすぐれ、道徳的水準も高かったのであるけれども白人種がこの島を発見して以来、結核とか肺炎とかの病菌をその島に伝播してそれらの病菌に対して処女地である所のハワイ土着の民族は著しく不健康となり、その生存力を失って、次第次第に減少の一途を辿っているのである。
もしこれをば人工的な人種保存保護の方法を講ぜずして、太古の時代の如き放任状態におくならば、間もなくその種族は絶滅してしまったであろうと考えられるのである。
その外、太古時代又は中古時代に棲息していたと思われる多数の動物が地上に一匹も残らずに絶滅してしまっている事実を考え合わすならば、類人猿と「人間」との中間変異の途上にある生物も、嘗ては存在したのであるが、それらの種族は何らかの事情によって悉く死滅してしまい、その死体や骨格もその後の地殻の変動のために埋没して化石としてすら残らなかった為に類人猿と「人間」との間のリンクが絶たれてしまったという説もあるのである。
然し乍ら類人猿と人間との間に存在する如き著しいギャップの如きものはそのほかの生物に於いてもはっきり現れているのである。羊と豚との中間段階の生物もなければ羊と牛との中間生物もないのである。馬と牛との間にも著しいギャップが見られるのであって、どの種族からどの種族へ徐々に進化したという様な、徐々変異の学説をば肯定すべき事実は存在しないのである。
そこで吾々はすべての生物の形態は徐々に変化したのではないのであって、それはある「理念」(精神的設計図)が原型となり、その姿に原子分子細胞が配列せられて特殊の生ける形態をとるに到ったと考えざるを得ないのである。
そしてその内在「理念」こそその生物の本当の「生命」そのものであるのである。
ある種族がある時代に地上から絶滅するという事はあり得るのである。それは太古又は中古の地層より発掘せられる化石によっても、下記の時代に存在したに違いない生物の種族の骨が化石して歴然と残っていることがあることによっても知られるのである。
けれども、その今迄発見せられた化石に於ける生物の形態をいくら列べ合わせてみても、すべての生物が徐々に進化して形をかえたというような徐々変異の姿は見られないのであって、一つの生物の形から他の生物の形には非常なギャップが存在するのである。>>
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