生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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反・『御教え』・・・雅宣総裁語録と講評 <第四十四話> (707) |
- 日時:2013年04月03日 (水) 18時18分
名前:信徒連合
< 第四十四話 > 三代目・雅宣(自称)総裁、曰く“これは私への自戒ではない。信徒諸君へ贈る慈悲深き私からの「お言葉」と思いて受けよ!
(ツウィッター『25日のことば』より)
<<「人の忠告を大切にする人が本当の指導者である。」忠告が「真実である」と感じる時、それに従う事は忠告者に従うのではなく神に従うのだと思え。人からの忠告に怒りを感じるのは自分を神の座に置くからである。>>
(講評)
三代目雅宣(自称)総裁は、自分の説く『今の教え』を信奉せず、開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』を信奉し、それに照らして『今の教え』に意見を述べ、諫言するものを“原理主義者”として教団の組織から追放して来たのであります。或いはまた、『小閑雑感』や『唐松模様』や『恵味な日々』に対して異なる意見を述べたり諫言する内容のコメントはすべて検閲して公表しません。自分の意見に同調する、賛同するコメントのみを公にしているのであります。
三代目雅宣(自称)総裁が「日時計主義」を生長の家の大切な信条の一つと考えて、上記ツウィター25日のコトバの如く、たとえそれが批判的な異見・諫言であっても「忠告」と捉えるべきであり、その答えを公開すべきであります。そうでなければ、<「神に従うのだと思え」>の言葉が宙に浮き上がってしまいます。三代目雅宣(自称)総裁は、この論理が判らないほどに独裁専制教主となってしまったのでしょうか?
また、彼は、“正説”と“虚説”の区別さえも判断できないのでしょうか?「生命の實相」第14巻・倫理篇下巻 ・第4章< 和解の倫理>を、果たしてシッカリと熟読したのでしょうか?
三代目雅宣(自称)総裁は『今の教え』に対する忠告・諫言は現体制批判であるとして一切受け付けず、それらの忠告・諫言に耳を傾ける事なく総て一方的に門前払い・シャットアウトであります。原宿本部内はもちろんの事、『小閑雑感』・『唐松模様』・『恵味な日々』のような公開ブログは勿論のこと、『ポスティイグ・ジョイ』に於いてもその<利用規約>第8条:「禁止事項」に於いて、<(14)宗教法人「生長の家」を批判するなど、その活動を妨げる団体や組織に所属している場合。また、それらの団体や組織が開設するサイトで投稿していたり、自らサイトを開設して当法人への批判や妨害活動をしている場合>と規定してあります。
愛を説き、赦しを説く宗教団体の規約としては妥当ではありません。この規約は、上記の「25日の言葉」の精神に相反するものであります。また、この様な規約を設けておかなければならぬほどに『今の教え』は自信がないのでしょうか? 本当に自信を持って居れば批判や異見や諫言を大いに歓迎して正々堂々真正面から反論(“真理”から見ればこうなんですよ)すればよいのであります。
それが出来ないから<批判封じの禁止規定>を三代目雅宣(自称)総裁は作ったのであります。このように彼は、常に“衣の下の鎧が透けて見え”、言行不一致であり、一党独裁中国共産党国家や金王朝の北朝鮮と同じく完全な専制独裁教主なのであります。物言わぬ幹部の皆さん、お孫さま信仰の信徒の皆さん、開祖・谷口雅春先生の「世界の生長の家」はかくも情けない状態に落ちぶれたのでありますぞ!!
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