生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第四十五話> (724)
日時:2013年04月07日 (日) 08時18分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第四十五話(通算第371話)

 
生命の實相とダーウィンの進化論

(人間の生命は如何にして顕現したか) <その六>




指導理念がなければ物質分子は生命体にはなり得ない

(『生命の謎』P.260−264)


 実験によってある種の生物に特殊な変種ができたからといって、地球上の生物の無数の変異がそういう実験と同じ様な原因によってできたものだと断定するのは、早計であるといわなければならないのである。

生命の現実はきわめて複雑であり、一つの生命がそれを物質的形に現わしてくるためには、いろいろの要素および条件の協力がいるのであって一、二の原因だけを以って実験を重ねてみてそれによって結論を正確に得ようとするのは間違いであるのである。

人間の性格の如きも、ある種の方法によっては、それを変化してしまうこともできるのである。しかもその「人そのもの」は変わらないのである。

すべての動物は両性的性質をもっているものであって、多くの動物実験によれば、雄(おす)の動物に雌(めす)のホルモンをその雄の優生をうちかつ程に注射する時にはその優生がかくれてしまって雌の如き性格に変化してしまうのである。

人間に於いてはかくの如き実験は尚行なわれていないけれども、去勢された男性が女性に近き性格を現わすのは知られているところである。然し「彼」は依然として彼自身であって性格が女性化しようと男性化しようと「彼」自身は変わらないのである。

そのように、同じ「彼」なる<人格>(理念的存在)でも、それが表現する所の媒体に変化が起これば、勇敢なる男性的性格が女性的性格に変化して現れるということはあり得るのである。従って同一「理念」が物質界に現象化して出る場合にその遺伝因子の構造に変化が起こる時には、その形態に変化が起こることも予想されるのであって、かくの如き場合には「理念」は変異しないのであるからそのような突発変異は遺伝しないで、そのうちに還元するのであると考えられるのである。

「理念」によって物質が特殊の配列を与えられるのが生態の現象である。一定の有機体を構成している所の「精神原理」というものを考えずして、単に物質の化学作用によってそれが分裂し且つ結合して行くにしてもそれは電気メッキの際に生ずる「樹枝状鉛」の如きものであって、それは形は樹木に似ているが有機的な生命は現れて来ないのである。

人間に於ける視覚器官の如きものが如何にしてこのような複雑な器官が、物質の分子原子の配列を指導する所の、何か叡智ある精神原理(理念)がなくして盲目的に出来上がることが出来るであろうか。

皮膚ある生物が光にふれている中に、光の刺戟によって皮膚の組織に化学変化がおこり、それが目に変ずることがあり得るというかも知れないけれども、たんに皮膚の成分たる物質に光が照射してそれによって化学作用がおこり、従って皮膚組織の一部が眼球に変ずる如きことは到底それはあり得ないことであるのである。

吾々は太陽の光線を上からも下からも前からも後ろからも額にも頬のも受けるのである。それにもかかわらず、なぜ額の下部にただ二個だけの眼球を生ずる様に化学作用をおこしたのであろうか。

その様なことは到底人間というものがたんなる物質の化学反応によって生じたという様な理論では説明することが出来ないのである。然も視覚器官が出来上がる為には、単に眼球のみが出来ただけでは足りるのではないのである。それには複雑な視神経が必要であり、視神経の終端に脳髄の視覚中枢が必要なのである。

しかし外界から光の放射が水晶体を通して網膜に衝撃を与え、そのエネルギーの電磁的波動が視神経を通過して大脳の視覚神経中枢にある振動をおこすにしても、その物理的振動がどうして「心象」となり得るのであろうか。大脳のごく一部におこった振動が、広々とした大空の彼方の如き心象を、どうして描くことができるのであろうか。

この問題は又後に詳しく述べる機会がある筈であるが、更にその物質の振動が吾々の感情となり、吾々の理性となり、論理的構造をもった理念の働きと変化するのはどうしてであるのであろうか。

何(いずれ)にせよ脳髄中枢に存在する所の神秘なる「成分」は、たんにそれは物質的成分ではなくして「理念」的成分をもっており、それがある刺戟によって触発される時に、その理念の姿を現すのだという外はないのである。

ともかく人間はたんなる物質ではないのであり、又たんなる物質の複合体でもないのである。吾々が現在かくの如き姿を現しているのは、猿から徐々に進化したのではなくして、突如として現在の人間形態の新種が地上に出現したのであるとみることが合理的であるのである。

然もその種類はかたちの世界にあるのではなく、遺伝因子の中に顕微鏡で見てもわからない「無」の中に、即ち時間空間をこえた中に、存在する或る形(理念)であって、その理念の指導精神に従って物質の分子原子が現在のような構造におきならべられて、現在の様な形態を構成するに到ったものだと考えられるのである。


 かくてダーウィンやラマルクの進化の原理というものは真理ではないのであって、進化とみえるものは、結局新しき「理念」の降誕即ち「生命」の発生と同一起源に到達するのである。


最近物理学がいよいよ発達して来て、物質の原子が崩壊せしめられて、その素粒子が結局「無」に帰することがわかって来たのであって、宇宙全体の実質は本来、姿形なき一様のものであったということがわかって来たのである。

従って一様の素材を以って色々の形を現わすのは、その一様の素材そのものの力ではないのであって(すべての物質が最始源の状態に於いて一様であるならば、その物理化学的運動も一様であるから、特殊の形態を別々に造りだす如き異種類の反応は物質それ自身ではできないのである。)

そしてその一様の資材をある形にまとめあげるのは、どうしても理念とか知性とかいうものの存在を仮定しなければならないのである。この宇宙全体にみち満ちている理念とか叡智とかいうものを吾々は神というのである。>>






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