生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・理性篇の再掲示<第二話> (80) |
- 日時:2013年02月20日 (水) 13時42分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第二話(通算第328) 光明思想家とマルキストとの対話(1)
弁証法と観念論<その一>
(『解放への二つの道』P.119−121)
客:
生長の家は一種の観念論だと思いますが、神という絶対精神の主体というようなものを認め、實相と言う絶対実在というような永遠不動の世界などというものを認める。そんなものは私の考えでは、事物の本当のすがたをとらえていない。此の世界は弁証法的世界であり、永遠不動の世界などというものは結局存在しない。真に存在するものは唯物質として客観的に存在する世界だけである。
そして、この物質として客観的に存在する世界は、決して永遠不動の世界ではない。すべての事物は発展変化の過程の中にある。これが真実の存在である。この事物を発展変化の過程に於いて観察し、それを捉えたのがマルクスの唯物弁証法である。私はこれが唯一の真理であると思っています。
生長の家で説く「實相」というような、永遠不動の完全世界などは人間の唯の空想にすぎない。そんなものは存在の真実を捉えていないと思うのです。
主:
あなたは自分の考えだけでなかなかハッキリ割り切っておられますが、生長の家も「存在」を発展変化の過程として認めることは、マルキシズムと異ならないのです。しかしその場合の「存在」と云う語(ことば)の意味は五官の感覚に触れる「現象的存在」のことであります。「生長の家七つの光明宣言」の第二条には、<吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。>というように「発展変化の過程」だということを「生命顕現の法則は無限生長の道なり」というふうに表現してあるのであります。
つまり「生長」ということは、それ自身のうちにそれを否定して一層発展せるものを生ずることであり、その発展せるものをも更に否定して、尚一層発展するものを生ずることでありまして、たしかに生長の家の哲学は弁証法的哲学であります。
マルクスは人間の歴史さえも、経済制度の歴史さえも此の発展流動の中にあって、一時と雖も同一の所に止まっていないものだと観る。そしてそれを存在のすべてであると観る「現象存在のすべてを発展流動のもの」として観る点は生長の家も全く同じであるが、マルキシズムはその「流動せる無常なる現象存在」だけを存在のすべてであるとして、その奥に「生命」とか「精神」とか「心」とかいうものを認めないが、生長の家はその「流動発展の現象的存在」の奥に「生命」というものをみとめる。
事物が「流動発展」するのは、その奥に「無限に完全な生命の實相」(ほんとのすがた)というものの内部的圧力があるからであり、事物の現在を否定する「自己矛盾」が生まれて来るのは、現象的事物はそれ自身で存在しているのではなく、その奥にある「無限に完全なるもの」(即ち生命の實相)の顕現であるから、現象的に一時的には完全と見える如何なる現象でも「無限に完全なる實相」の顕現としては不足しているから、中から現在の顕現を否定して、尚一層完全なる顕現を押し出そうとするのです。
だからこの現象世界は永遠に発展流動の形をとるのであります。これを生長の家では「吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ」と言っているのであります。
マルキシズムでは、生命とか精神とかいうものを単なる物質の作用として見て、事物の背後にある「絶対存在」として見ないから、何故、事物が発展流動の形式をとって顕現して来るかという其の「何故」が説明がつかない。すべての顕現としての存在が「自己否定」を含むのは「無限に完全なる實相」がその奥に存在するからだという根拠からのみそれを説明し得るのです。
だからマルクスの唯物論に合理的の根拠を与え得るのはむしろ生長の家だといわなければならないのです。
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