生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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天皇仰慕の根拠は何処にあるか(ブログ「谷口雅春に訊け」より) (752)
日時:2013年04月08日 (月) 22時20分
名前:神の子A

天皇仰慕の根拠は何処にあるか

谷口雅春



これは、日本民族が古来より民族感情として醸成し来つたところの尊き感情芸術なのであります。芸術は科学的価値以上の美的価値を有するのである。日本民族は先ず多を統一する「一」にして主なる生命の根元を求め、その根元に対する憧憬と敬慕との感情を、天皇家に移入し、その極元を 天皇に於いて自己表現したのであります。それは、「一」にして「主」なるものへの帰命の感情を自己より対象に対して移入したるものでありますから、 天皇は実は、日本民族がその生命の本源と「中心」と崇拝する理想対象として「自己の内」に在し給ひ、その理想が移入されて客観的なる 天皇として顕現し給うたのであります。吾々の自己は「民」であるがゆゑに、その自己の内に内在する 天皇は、「民」なる自己に宿るところの「主」なる理想なるがゆゑに、民主なる 天皇である。その民の内に内在する 天皇なる理想が 天皇家のある一人に移入せられて客観的 天皇となる、こゝに主客一体となるのであり、「民」の内に 天皇は民族の理想として内在し、外に於いて具体的 天皇となり給ふのであります。是を恋愛感情に譬喩するは畏れ多きことながら、解し易からしめんために譬喩すれば、吾々の心の内に内在する「恋人」なる理想が、或る具体的一人の上に移入せられて具体的恋人となって体験せられる過程と同様であるのであります。


かくて吾々は知るのである、個人に於いて「恋人」なる理想が具体化されて実現するとき、その人がアバズレの頽廃(たいはい)者でない限り、生活に理想と生き甲斐とを感じ、働く希望を見出すのと同じやうに、日本民族に於いては、その「一」にして「主」なるところの生命の本源に対する憧憬の理想的対象が具体化されて 天皇としてあらはれてましますとき、その民族中のアバズレの頽廃者を除いては、其処に民族独立の喜びと希望の帰趨すべきところの具体的中心を見出して、「国が独立して生き続くところの悦び」(個人に於いては「生き甲斐」の感じに当る)を感ずるのであります。それを感じないのは、あまりにも精神が傷いて頽廃し、又は心がひねくれた気の毒な人たちのみである。此の人たちもやがては、諸君を始めとして民族の大多数が民族生命への中心帰一の理想を失はずに再び起上るとき、民族精神共感の理に因づいて彼等も諸共、民族理想の憧憬をとりもどして、相ともに 天皇を仰慕し奉る時が来るに相違ないのであります。この真理に目覚めた国民諸君こそ、日本民族国家再建の中心となるべき真理を真先に把握し得た先導者であり、「霊の選士」と謂ふことが出来るのであります。読者に告ぐ、諸君こそ実に国を興す者でなければならない。起て、吾等の霊の選士たちよ!




『理想世界』誌(昭和51年4月号)より謹写――


中心帰一とは (760)
日時:2013年04月09日 (火) 17時55分
名前:神の子A

ここで、雅春先生が述べられている「中心帰一」とは、生長の家総裁に対する「中心帰一」ではなく、御皇室に対する「中心帰一」である事に注目して下さい。

雅春先生は「生長の家総裁に中心帰一せよ」とは一言もおっしゃっておりません。

現在の生長の家教団の「雅宣総裁に中心帰一」とは、雅宣氏が白鳩会に言わさしめたものと思われます。

「雅宣総裁に中心帰一」と言う言葉は、独裁体制を敷くには誠に持って都合の良い言葉であります。



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