生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第四十七話> (753) |
- 日時:2013年04月09日 (火) 08時15分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第四十七話(通算第373話)
生命の實相とダーウィンの進化論
(人間の生命は如何にして顕現したか) <その八>
物質の形態、色彩、大いさ等を定むるもの、2
(『生命の謎』P.268−271)
<< (つづき)この色の感覚は一体どこから来るのであろうか。
光子そのもの、波動そのものには色はないのである。唯その刺戟によっておこされたものが「赤」と感ずるのである。
それは丁度針そのものには、「いたみ」ではないけれども、針の刺戟によっておこされた感じを「いたみ」と感ずるのとよく似ているのである。
「赤い色」も、ものの視覚的な「形」の何れも、感覚によって起こされた心象であって、「ものそのもの」ではないのである。
吾々は唯その刺戟を契機としてある「心象」をおこすにすぎないのである。物理的刺戟が色々の形に変ずるのは如何にして可能なのであろうか。
吾々は、色の刺戟で写真のフィルムの上にある所の分子にイオン化をおこさしめて、それによって振動板を刺戟して映画のトーキーを語らしめることもできるのである。光の波動が音の波動に変化せしめられたのである。
かくの如き場合に於いてはある種の物理的範疇の運動が他の種の物理的範疇に変化せしめられたと見ることができるのである。然しながら<目に与えられたる刺戟がある美しき花の感覚と変化するのは、たんにある種の物理的振動が他の種類の物理的振動に変化せしめられたのであるのとは全く種類>を異にするのである。
では、光の刺戟という物理的「エネルギー」が赤い朝顔の花という「心象」に変化せしめられると云う事は、如何にして可能なのであろうか。
吾々は眼をつぶっているその上を強力に打撃すると「目から光が出た」というのである。目の神経に与えたる刺戟が光の心象をおこすのである。吾々が睡眠中に霧吹きを以って顔に霧をふきかける時、吾々は往々にして驟雨(ゆうだち)にあった夢をみるのである。皮膚に与えたる刺戟が、「驟雨(しゅうう)に遇った」心象をおこすのである。
然しかくの如き場合には目をたたかれた人、顔に霧をふきかけられたる人自身のみが斯くの如き心象をおこすのであって、他の人からみたならば「光」もなければ「驟雨(しゅうう)」もないのである。所が吾々が普通に「朝顔」の花を見る場合は、それも亦、心象には相違ないのであるけれども、他の多くの人からみても、やはり「赤き七寸咲きの朝顔の花がある」とみるのである。その大きさ、その色彩、その形等悉く他の人の見る所と一致するのである。
そこで吾々はそれを単に「まぼろし」であるが如き頼りない心象ではなくして「実在する心象」として吾々はそれを見るのである。それは単にその人がおこした心の姿であるばかりでなく、そこに真に「朝顔の花」があるのである。然しそれは物理的にあるのではなくして、物質として吾々がかく知っているのは脳髄のある一部分におこった或る種のエネルギーの爆発のみであるのである。
吾々はそれを契機として実在の世界にある所の「色の世界」「形の世界」「花の世界」等をみる所の門を開かれるのである。脳のごく小さい範囲におこったエネルギーの振動が、色もなく形もない振動が色として現され、形として表現される。然もそれが個人の心の出鱈目な形ではなくして全体に共通する所の形相(かたち)に翻訳されるということは、すべての人間の心が、同じ性質をもっているものであり、従って凡(すべ)ての人間を生み出した所の「宇宙心霊」の精神を分かちもつものであるということにならざるを得ないのである。
即ち吾々の感覚や心象は決して単に物質が分離又は結合する際のエネルギーの振動を感ずるだけではなく、宇宙的な根元からそれが出ているものであるからこそ、すべての人間に共通的なものであると結論することができるのである。
吾々の感覚器官や脳髄神経細胞は吾々の心が宇宙的な心に通ずる一つの門戸を形成するものであるけれども、見られる世界は決して感覚器官が作ったものではないのであって「小宇宙」である所の吾々の心が「大宇宙」の心の内に描かれたる「理念」の形態をみる所の媒介をするにすぎないのである。
それ故に吾々がみる所の世界は「物質の世界」ではないのであって、「想念の世界」であるにもかかわらず一定の共通的な法則に従ってそれが支配されており、それが吾々の理性の働きである所の数学的な法則によって組み立てられ、運動せしめられるのであるというのも、結局この心の世界にある宇宙が神なる一つの心、一つの叡智によって組み立てられているものであり、その叡智の一部分がわれわれに宿っている理性であるからである。
すなわち吾々の叡智が宇宙の叡智を理解して、それを一定の形態や色彩や大きさに翻訳し、それを物理学的或いは数学的或いは哲学的に理解して行くことができるのである。>>
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