生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第四十八話> (762)
日時:2013年04月10日 (水) 14時28分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第四十八話(通算第374話)


 
「我あり」と自覚する者は何か 

(『神癒への道』P.26−30)



<<人間がまず自分について発見したる所の一大事実は、「自分は存在する」ということでありました。それは同時に自分以外のものの存在の自覚であって、「自分が存在する」ということは、「他とは分離したる所の自分」が存在するということである。だから「自個」発見はやがて「他個」の発見であります。

その次には人間は「自分が思う」ということを発見したのであります。「自分が思う」という事の発見は、結局は、自分の思いによって左右し得ない所の多物との対比に於いて「自分が思うのに、あのものは思うように動かない」というような体験から、「吾思う」という所の意識が一層はっきりと対照的に思い浮かんできたに違いないのである。

即ち人間が自分自身を発見し、「吾存在す」と自覚し、「われ思う」と自覚することによって他物との関係を見出し、他物を如何にすれば「吾が欲する」通りに動かし得るかということが問題になってきたのであって、その問題の研究が結局「自然界を支配している所の法則の発見」となり、人類文化の発達となったのでありますが、「自分自身の心を支配している所の法則」を発見し得るようになったのは極く極く最近のことなのであり、これが心理学の研究となり、メタフィジカル運動となって来たのであります。


 「吾あり」又は「吾思う」の自覚はどこからくるのであろうか。それを近代の生理学的心理学者は脳髄の生理作用であると考えていたのであります。

しかし脳髄が本当に<もの>を考えるでありましょうか。脳髄自身が考えるのであるならば、脳髄を人体から切りはなして脳髄のみにしても<もの>を考えてもよさそうなものであります。

所が脳髄だけで<もの>を考えたり、少なくとも胴体から切りはなした頭が考えたりすることはあり得ないのであります。だから脳髄そのものが考えるのだということは誤りであることがわかるのであります。

 しかし脳髄を摘出したあとの人間はものを考えるのであろうか。決して考えないのであります。そうすると脳髄は<もの>を考えないが、脳髄がなくとも<もの>を考えないし、脳髄を引き去った残余の人体も<もの>を考えないのである。

そこで脳髄を使うことによって「あるもの」が<もの>をかんがえるのだということがわかるのであります。即ち脳髄の背後に、<もの>を考えている所の「生き物」があるのであります。その「生き物」は如何なるものであるか。吾々はそれを見ることはできないのであります。見えないけれども、吾々は体験として「考える所の個性」が人体の内部にあって生きていることを知るのであります。

彼が<何もの>であるかは吾々は見る事ができないのであります。しかしその「考える物」はたしかに存在するのであります。<それ>こそが「本当の人間」であります。

吾々は「本当の人間」を見る事はできない。本当の人間の造った所の物なる肉体を見るに過ぎないのであります。即ち肉体は「本当の人間」の被造物であり道具であるのに過ぎません。

 そしてその考えられた<もの>は、その考えた所の想念は、考えられたる後に一体どこへ行くのでありましょうか。どこへ行くのかわからないが、それは「記憶」としてどこかに蓄積されているのであります。

その蓄積されたる想念を仏教では「業」というのであって吾々の周囲に展開してくる所の出来事は、想念の集積即ち「業」の自動的展開であるということが出来るのであります。

 想念の蓄積を、心理学的にいうならば、それは単に「記憶」又は「記憶心象」とよばれるものでありますが、その限りに於いてはそれはただ思い出そうと努力した時に浮かび上がってくる所の受動的な静的存在にすぎないのでありますけれども、それを仏教的な「業」の力として観る時には、それは実に力強い動的な存在として、吾々の前に脚光を浴びて現れてくるのであります。

かかる意味に於ける所の記憶なるものは、われわれの肉体を支配する所の力をもっているのであります。

多くの病気は、吾々の記憶(業)の表現であるということも出来るのであります。病気の学説を読んで病気にかかり易くなった人々や、色々の外界の印象に対して起こした想念そのままの形が肉体の病気の姿となって現れてきたりするのは、即ちそれであるのであります。

だから記憶は決して「過去」の蓄積ではないのであって、今現に生きているのであります。

われわれの生命はその記憶心象を無意識神経系統(植物性神経)に蓄積して自動的に内蔵、筋肉、又は血管等の運動を支配しているのであって、すべての記憶は、この無意識神経系統の中に今働いているということができるのであります。

だから五十歳の年齢の人はその五十年の生涯のあらゆる記憶が無意識神経系統を通じて動いているのであるから、今新しく造られたる皮膚でも、何となく五十年の印象をそこに表現しているがために五十歳の容貌の人に見えるのであります。

その理論がわかれば、無意識神経系統の働きによって栄養及び新陳代謝が行なわれている吾々の肉体に於いては吾々の記憶の中にある所のある「不快観念」が具象化して、癌腫の発生、粘膜の潰瘍、皮膚の発疹等々の状態が現れてくるのは当然のことだといわなければならないのであります。

かく吾々の「記憶」は今現に生きている。従って肉体の健康を得るには「記憶」即ち業(ごう)の蓄積を変えなければならないのであります。

新しき善き「記憶」を無意識神経系統に打電してその運動を新しき健全なるものとしなければならないのであります。斯くするとき「不快観念」の具象化によって発生していた諸種の病気が姿を消すのであって、これがメタフィジカル・ヒーリングの可能である根拠であります。>>







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