生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「初心者」はかくのごとく生長の家の『御教え』を否定する! <その30> (785)
日時:2013年04月12日 (金) 09時00分
名前:四万十分析官




「初心者」という人物は、「トキ掲示板」において下記の如く生長の家の『御教え』を否定しているのである。「トキ掲示版」規約には「基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためのサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。」と書いてあるが、一連の「初心者」と名乗る人物は、この投稿規約に反する投稿を続け、管理人氏も未だに一回も注意を与えていない。「初心者」と「トキ掲示板」との関係は主従の関係にあり、この様なところから「初心者=雅宣(自称)総裁」と言われているのである。そして、彼、雅宣(自称)総裁としては、決して公の“総裁”としての立場では言いたくても言えない開祖・谷口雅春先生への反逆の「本音の思想」を「初心者」なる名前を使い、思う存分吐露し続けているとも考えられるのである。この意味からでも、彼のやり口は宗教家として非常に卑怯そのものであり、“総裁更迭”に十分に値するのであり、信徒はもっと声を大きくしなければならないのである。

以下、生長の家の『御教え』を否定する「初心者」なる人物の投稿を転載させていただき読者のみなさんの判断に供するものである。




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「トキ掲示板」より


1047 :初心者:2012/10/16(火) 19:26:54

ある考え方を信じたことで病気が治ったとされる奇跡的体験にしても、それは言葉によって解釈され、意味づけされた体験でしかないと、ソシュールは考えます。言葉いぜんには、病気もなければ治癒もないとするのがソシュールです。じっさいわたしは、「病気」という言葉に大変な違和感をおぼえます。それはわたしにとって「未知のなにか」ではあっても、「病気」という言葉で、世間一般で意味づけられている「なにか」であるとはとてもおもうことができないものです。それは世間の人々が「病気」と呼んでいる出来事とはひどくちがった別の出来事のようにおもえます。人は、言葉いぜんの世界で起きている、それを神秘といってもいいような未知の出来事を、病気という言葉で意味づけすることで、病院にいって治療しなければならない別の「なにか」として実体化させているにすぎないという気がいたします。言葉がなければ、病気もなく奇跡的体験もない。そこにあるのは未知なる神秘であるのかもしれない。そんな神秘を、言葉によって別のものとして意味づけることで、病気や奇跡的体験が実体化される。それは言葉のうえだけの話でありますが、それが拡張されたところに「真理」が置かれる。いうまでもなく、その「真理」は言葉で言い当てることができるものとみなされます。




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<問題点>


@ 上記の「初心者」なる人物の考えは、雅宣(自称)総裁が信徒の奇跡的体験談を軽視無視して一回もその体験談を称賛したり講話や著書・ブログ文の中で真理(『御教え』)を基礎とした解説をしていない理由そのものの説明となっていることがわかるのである。


A この「初心者」なる人物の書いた文章は、決して宗教家の書く文章ではないのである。「四無量心」の心で病気なる現象を見ず、冷徹なものの見方を常とする思索的学者という感じである。


B 文中の表現で説明するならば、――

* < 「未知のなにか」ではあっても、「病気」という言葉で、世間一般で意味づけられている「なにか」であるとはとてもおもうことができないもの >

* < 神秘といってもいいような未知の出来事を、病気という言葉で意味づけする >

* < そんな神秘を、言葉によって別のものとして意味づけることで、病気や奇跡的体験が実体化される。それは言葉のうえだけの話 >


C これ等の表現文句は、現実に病気で苦しんでいる人の苦しみなどにはお構いなく、病気とは何ぞや? と自分だけの“言葉の遊戯”に耽っている哲学者のそれである。「言葉の遊戯」では病人の苦しみの現実的解決はできないのである。だから、「病気になれば病院へ行きなさい!」と回答せざるを得ない。しかし最新医学の病院でも治癒できない難病奇病の病人には「初心者」なる“言葉の遊戯”学者は答えることができない。答えることができないならば彼は“宗教家”と称すべきではないのである。ここで、「初心者」=「雅宣(自称)総裁」という等式が成り立つのである。


D 「初心者=雅宣(自称)総裁」は、“言葉の遊戯”の世界でいられるのは、幸いにして彼が今生において健康に恵まれた生活をしているためであって、病人の心理状態を体験として味わっていないからである。実際、医療不治の難病奇病になり、経済的にも追いつめられ、肉体的にも非常なる苦しみの中にある病人は、<なぜ自分はこの様な難病奇病の苦しみに合わねばならなかったのか?>・<何とかこの医療難治の病気を治せないものだろうか?>と自分も苦しみ、家族も苦しむのである。そして、霊的機縁が熟した段階において素直に“霊的真理”を受け入れ奇跡的治癒を果たすのである。これが信徒の<奇跡的体験談>といわれるものである。この間の肉体的・心理的苦しみを共有して喜ばず、“何をそんなに非科学的なことをいっているのか!”と「初心者=雅宣(自称)総裁」は冷たい目で見ているのであるから、彼の口からは「タマタマの偶然でしょう!」ということばが出てくるのである。


E 「初心者=雅宣(自称)総裁」は、霊的理解能力は皆無であるから、この様な自殺したほうがマシだと考えるほどに深刻な病気の苦しみから「『御教え』の真理によって脱出して健康状態となった人達のこの間の“意義”は何であるか? に対しての正しい解答はできないのである。その意義とは“霊魂の霊的進化”と云う事である。今生で人並み以上の苦しみの体験を経験し、それを卒業し得た人たちは、今生において健康に恵まれ、経済的にも恵まれて一生を過ごす人の何倍もの“霊魂としての進化(實相顕現)”を果たせたのである、という事なのである。このような霊的意義の面に対して「初心者=雅宣(自称)総裁」は一切目を向けていないのである。


F そして「初心者」なる人物は最後にこのように言っているのである。<「真理」は言葉で言い当てることができる>と。つまり極めて優秀なIQ指数を持つ「初心者=雅宣(自称)総裁」ならば、その優秀な肉体頭脳の思索で持って、何が真理であり、何が真理で無いかは容易に言い“当てる”ことができると云う事を言っているのである。何たる傲慢! 彼には「不立文字」とか「言詮不及」と言われてきた真理を言葉の芸術の高いレベルにまでたかめられて表現された開祖・谷口雅春先生の“真理の文字化”などは理解できないのである。独裁権力者にして遂に驕慢の極に達した「初心者=雅宣(自称)総裁」は、本当はモット謙虚になって「未だ、われ『無』の関門を超えること能わず」と自戒して、開祖・谷口雅春先生の足跡に学んで求道の道を進まねばならないのである。しかし、彼は余りにも「神の子」の本性が何重にも迷いの雲でおおわれた今生では救済不可能な神性隠蔽の状態であるから、「総裁の更迭」は信徒にとっての今日的至上課題であるのである。






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