生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第四十七話> (801)
日時:2013年04月14日 (日) 08時58分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第四十七話 輪廻転生について(その11)



<<生命は死を超えて前進する>>



実相と輪廻転生

(『生命の實相』第21巻・教典篇P.179−184および『人生を支配する先祖供養P.80−84)



<<(つづき)太陽が七色のバイブレーションが集まって一つの無色の光線になっているのと同じように、われわれはこの肉体という物質的波動の体のほかに、霊体的波動の体というものが一緒に複合して一つに現われているのです。

それがある期間たつと物質的波動の体と霊的波動の体との分離せねばならぬ時期がくるのです。

そして霊的波動の体だけが霊界に生活する。これが霊魂であります。

実相生命の投影が、霊魂という現象生命の波動体として現象界に現われた時には、実相の無限次元の性質が、時間空間という五官的認識機能のスクリーンによって縦横厚みだけを残して捨象されているので、縦横厚みの立体空間の世界においては、われと彼との区別がハッキリしているので、実相、自他一体の実相が蔽(おお)い隠されており、その差別智から、いろいろ実相ならざる念を起こし、その念が蓄積されて業(ごう)となるのであります。仏教でいう業とは念の蓄積であります。

 一例をあげますと、人を憎い、と思います。すると彼は憎い、という憎む念の振動数が持続されたまま念に蓄積されます。

これは、彼は憎いと思った瞬間、宇宙に蓄音機の吹き込み機のようなものがあって、憎いという念がそのままレコードに刻みつけられ、時のたつにつれて、憎いという念が蓄積され、それがたまって無数のレコードになる。これが業(ごう)であります。

業の内容は念の蓄積でありますから、念は振動(バイブレーション)でありますから、振動は客観的に観る時は体(たい)であります。だから業とは体であるということができるのであります。

まず業が霊体という念の体を創り、その業の種類に従ってさらにまた肉体という念の体を作り、その二種の念体がぴったり一つに重なった時に肉体を備えた現象人間が出来上がるので、霊体が肉体という念の体を、分離して生きているのが霊界の霊魂なのであります。

それで霊魂というのも、念の波動体であります。仏教では霊魂と言わずに、その代わりに「有」という語(ことば)を使い、「有」の本体は何であるかというと業である。だから霊魂が生まれ代わるということの代わりに業の輪廻と言いますけれども、結局は同じことであります。

釈迦は『過去現在因果経』に、自分は前世にはこういう人間に生まれて、また次にこう生まれて、その次にこうなり、浄飯王(じょうばんのう)の子と生まれ、何歳にして出家し、何歳にして悟りを開き、今八十歳にしてこうして衆生に法を説くように更生(うまれかわ)ったのだと書いています。

釈尊も自身が生まれ変ったという限り、霊魂という仮の「有」を認めているのです。

しかしその生まれ更わったのは釈迦の実相が生まれ替わったのではない。霊魂という仮の「有」が生まれ更わったのです。

業という仮存在のレンズの厚みの変化に従って現象界への投影状態が変わる。これを生まれ更わると言う。

しかし本当の実相の釈迦は生まれ変わりはしない。釈尊自身でも後にはわれは百千万億阿僧祇劫前から悟りを開いている生きとおしの如来であると『法華経』の中で説いていられます。

ところが一方には自分はこうこうして生まれかわったということも確かに言っておられる。が、これは業のレンズの変化に従って仮の有が彼方に転現し、こなたに転現したのです。


 これは釈迦だけの話ではない。本当はわれわれも、生まれ変わったりなどしない久遠生きとおしの釈迦と同じ存在であり、「アブラハムの生まれぬ前(さき)より吾はあるなり」と言ったキリストと同じ久遠永遠の存在なのであります。


 生まれ変わるのは、仮の相(すがた)の我、業の蓄積のレンズによって諸方に転現してあらわれる我であります。


だからわれわれは本体は生まれ変わらないでいながら、現象生命は生まれ更わるのであります。

仏教ではこれを広略相入(こうりゃくそうにゅう)といっている。

広相すなわち現象生命は諸方に転現すれども略相すなわち実相生命は本来去来なしと言うのです。

生長の家ではこの略相の我を本当の我と言い広相の我、現象の我を「ニセ者の我」と言っています。

「ニセ物の我」というのは本来無であるからそんなものにひっかかるな、そんなものは<ある>と思うなと説くのが生長の家でありますから、それは釈迦の諸法無我と言われた教えとぴったり一致するわけであります。

生まれ更わるということはあるにはあるがそれは現象の仮の「有」が生まれ更わるのであって、それは要するに活動写真の影のようなものであるのです。

活動写真を見るのに<ある>と思って<ある>という立場で見るから実際<ある>ように見えるのですが、結局それは影で無だ、無いもんだということを知ればよいのです。


ただ実相の我のみある!


この本当の、「実相の我」「金剛不壊の我」をわれわれが知った時、いっさいの人生の悩みは吹き消されてしまうのです。>>、






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