生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第五十三話> (859) |
- 日時:2013年04月21日 (日) 10時44分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇
第五十三話
個性命の進化と向上(その6)
『別冊・真理』<生死を超える道>よりの抜粋
<<過去の預言者の偉大な直観にみちびかれて真理を悟る者は幸いであります。然し私たちは単にそこで止まってしまってはならない。私たちは自分自身、己の耳を開いて大自然の声を聴き、心の眼を開いて大自然の魂が斯くも豪壮にして劇的な、適格な言葉で教えてくれる教訓を見なければならないのであります。その教訓はすべて私たち自身に関するものであって、目に見える形で書かれており、私たちによく考えよと言って挑んでいるのであります。>>(P.50−51)
「個」の進化と「種族」全体の進化――
<<「種族」としての全体の進化は、植物であっても昆虫であっても、或いは獣の場合でも、「種」としての生命は共同戦線を張って前進するのでありますが、人間の進化に於いては「個」としての生命が様々に変化ある戦線を張って前進するのであります。その前進は一列には並んでいないのであります。その前進は個人的業績として蓄積されてゆくのであって、工学上の製品、芸術、技術等の文化的創造、教育上の進歩-------等の如く、その福祉は、全体に及ぶことは及ぶのであるが、魚族、鳥族、象族等が「種」の進化の共通のものを代々受け継いで行くが如くには、人間は、種族全体が、個人の知的精神的発達を代々受け継いで行くことを証明する何物もないのであって、人間は、個々の霊魂が一人ひとり進化するのであります。>>(67−68)
<<遺伝は肉体的特徴だけは承(う)け継いで行くのであって、一定の型の器官を有する身体は人類の共通の継承物であります。知性はその力を比較して計るとき、下は愚鈍の零(ゼロ)から、上は天才と呼ばれる最高のものに至るまで、実に無数の段階があるのであります。 低い段階の親が、高い段階の子を持ち、高い段階の親が低い段階の子をもったり、大都市の貧民窟(ひんみんくつ)に生まれた子供が非常に大きな権力のある地位を得たり、王侯富貴に生まれた子が堕落して能力なく、非生産的寄生生活をしたりすることがあります。斯様(かよう)な変化は本能のみで生活する低いレベルの生物には全然起こらぬか、少なくとも極めて稀であって、それらの生物同士を比較してみても、その能力の差を見ることはほとんど出来ない程であります。先ず、人間以外の生物は、その与えられている能力が種族別に平均していると言えるのであります。>>(P.68)
人間には平等はない――
<<ところが人間は平等には生み出されていない。一人一人が、著しい特色、傾向、個性的性格等を持って生まれるのであります。犯罪的傾向、残忍な性格、反社会的衝動等を天賦的に持っているのもあれば、又通常の人もいます。通常とは種族民族又は国民の作っている共通の標準に精神的に又道徳的に合致していると云う意味であります。更に或る者は生まれながらにして特に勝れた力と天賦とをもっています。動物や昆虫は平等に生まれると言い得るであろうが、人間は平等の素質をもって生まれるとは言えないのが事実であります。>>(P.69)
差別の原理――
<<身体の生理作用は自然の法則に随って行なわれますが、魂の発達は霊の法則に従って行なわれます。前者は肉体に関連し、後者は霊体に関連します。前者は一時的であり、後者は不滅であります。そして霊体の発達が存続して人間に差別を生ずる原理となるのであります。霊体を使用する魂は如何なる「生まれ更り」の肉体に入るにしても、その肉体に入る前に「個」として存在していたのであるからであります。人間の精神的道徳的身長が千差万別である理由は他に説明のしようがないのであります。これは人間進化の理に叶った説明だと言わなければならないのであります。>>(P.69−70)
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