生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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「雅宣教」信徒「0350」さんの開祖・谷口雅春先生『御教え』の理解度について (874) |
- 日時:2013年04月23日 (火) 00時58分
名前:画龍点睛
合掌ありがとうございます。 「光明掲示板」に下記の投稿文が親記事(NO.7802)の子記事として掲載されていました。「本流復活」活動への一知半解の誤った批判でありますので、そのマチガイを指摘させていただきます。
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<光明掲示板>より・・・ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1465
一言だけNEW (7811) 日時:2013年04月22日 (月) 04時06分 名前:0350
学ぶ会の紹介する竹田先生の話ならよくて、雅宣先生の紹介する村松教授の本は嫌だというならそれはただのえり好み。自らの論の薄さをと愚かしさをこんなところでわざわざ露呈するなど笑止千万。分派活動や批判ばかりをして、真理を求めているつもりになっている皆様にははなはだがっかりいたします。批判と言っても虚偽ばかり、嘘と自作自演で塗り固めた論で自分こそが正しいなどと主張するのは、傲慢不遜(注:正しくは「傲岸不遜」)の極み。かしこくも、法灯継承された雅宣先生の話ができないというなら、もともと立教当初からのー雅春先生が創められた生長の家には向いていませんでしたというだけの話。私たちは来るもの拒まず、去る者は追わずです、雅春先生のお名前を恥にさらすようなことはご遠慮いただきたい。
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投稿者「0350」さんの指摘マチガイ
@ < 分派活動や批判ばかりして > この箇所の表現は「0350」さんの認識不足による完全なマチガイであります。その理由は、宗教界において開祖の教えを嗣法する者は「一杯の盃の水を一滴も零さず残さず次の盃に移し替えること」、このことを護れる人でなければならないのであります。三代目・雅宣氏は開祖・谷口雅春先生の『御教え』から「生命的国家論」を省き、「聖書・創世記」の解釈および「古事記・日本書紀」の日本建国神話を開祖・谷口雅春先生の霊感的解釈とは全く違う解釈をしております。そしてまた、人類の病悩苦からの救済を原理主義だとして排除しました。つまり、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して「今の教え」という非・生長の家「雅宣教」へと「教え」の内容変更を致しました。故に、「今の教え=雅宣教」こそ“分派”そのものであります。
また、三代目・雅宣氏の「今の教え=雅宣教」の間違いについての指摘する事を“批判”と現教団側の人たちは申しておりますが、正確にいえば“批判”ではなくして“虚説の摧破”であります。『生命の實相』第14巻倫理篇下巻「和解の倫理」には次の如くあります。
<< 「誤れる見解」をわれわれは「虚説」と申しますが、虚説とはよく名づけたものであります。「誤れる見解」は実相の世界にはない。それは「虚説」すなわち「無い説」でありますから、われわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。虚説に和解したら自分の完全なる実相が昧(くら)まされ、完全なる実相が昧まされたならば、その投影として不完全なる現象すなわち不幸、病気、災厄等があらわれてくるのであります。……虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳がないように思うのはまちがいであります。また虚説を容(い)れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのもまちいであります。虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。……虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許す……。どうかみなさんも虚説(=ないもの)に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、人間に対しては、その表面の包み(=罪)を見ないで、その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦す(=その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいのであります。要は「天地一切のものと和解せよ」との「生長の家」の第一最大のまこと誡命(=いましめ)は、「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、仮相や虚説に対しては「サタンよ去れ」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃せられたのであります。>>
三代目・雅宣氏の「今の教え」は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を基準にして観れば、“虚説”であると言うことです。開祖・谷口雅春先生は「無の関門」を超えて實相世界に超入せられ、実在宇宙の大法を直接認識して悟られまして、それを「生長の家」の『御教え』として説かれたのであります。この『御教え』と違ったことを説くならばそれは「虚説」(實相の世界には無い誤れる見解)となるのであります。“批判”と“虚説”の意味の違いを「0350」さんには明確に認識していただかねばならないのであります。
A < かしこくも、法灯継承された雅宣先生 > この箇所の表現も「0350」さんの認識不足による完全なマチガイであります。その理由は簡単であります。二代目の清超先生が三代目・雅宣氏に対して「法燈継承者」としたとの公式発表が遂になかったのであります。雅宣氏は三代目の総裁として清超先生の指名を受けた人でありますが、「法燈継承者」としては清超先生の認可はなかったのであります。なお、「生長の家」に於ける「法燈」とは、「生長の家大神=開祖・谷口雅春先生=『御教え』」この三位一体なるものをいうのであります。
「0350」さんに申し上げます。『生命の實相』及び開祖・谷口雅春先生の御著書をしっかりと熟読して頂きたい。そうすれば、三代目・雅宣氏の「今の教え」の内容が、開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎した“虚説”である事が明確にお分かりになります。 再合掌
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ご参考までに・・・< 最大の仕組まれた演出、『法燈継承』> (879) |
- 日時:2013年04月23日 (火) 23時21分
名前:画龍点睛
「本流宣言掲示板」の掲載記事を転載させていただきます。
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2613
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< 最大の仕組まれた演出、『法燈継承』>
第三代目・谷口雅宣先生が指導された平成15年度生長の家教修会の最大の開催目的はご自身の法燈継承を教団組織全体に広く認知徹底させる事にあったのであります。
(1)先ず、第三代目・谷口雅宣先生は当時の磯部和男教化・講師部長の基調講話に於いて次の如く語らせておられます。<『歴史から何を学ぶか』(P.3−4)>
<<「今の生長の家は谷口雅春先生の教えを曲げて伝えている」と言って、現在の生長の家の運動を非難する冊子を発行したり、海外の被包括団体の“独立”を唱える人がいることは、皆さんもご存知とおもいます。こうした中、私たちは生長の家の法燈継承の意義を改めて確認し、徹底したいと思います。生長の家の法燈継承のあり方については、ご存知のように「生長の家教規」第10条に規定されていますが、その第10条の改正履歴をたどるとともに、その改正の意味合いを探ることなどを通して、生長の家の法燈継承の意義を心に銘記したいと思います。>>
(2)次に、第三代目・谷口雅宣先生は、第2シンポジウムの指導講話に於いて次の如く話しておられるのであります。<『歴史から何を学ぶか』(P.179)
<<生長の家の法燈継承というものは、単に「師と弟子」の二者間でいわば“個人的”に“内密に”おこなわれるのではなく、公に発表する形でもおこなわれるし、そのことを「教規」にも書いてきちんと制度化しているのであります。
具体的に申し上げますと、私が生長の家副総裁になったのは平成二年の十一月の秋季大祭の時です。だから、この黒河内講師の資料によると、昭和五十一年九月二十五日に改正された生長の家教規において法燈を継承したということになるのですね。その教規の条文では、十条ですね、『副総裁は総裁の逝去(せいきょ)によって総裁の位置を襲(つ)ぐ。新総裁襲任する時は、その期間中にその後継者を創始者の家系に属する者のうちより適当なる者を推挙し、推挙されたる者は次期の総裁候補として副総裁の位置につく』。
まあ、そういうことで、私は自分で言うのは非常にもったいないことでありますけれども、この規定に従ってわたしが副総裁になったので、そのとき法燈は継承されたというのが正しい答えであります。>>
(3)このように第三代目・谷口雅宣先生は自信を持って、<生長の家教規第10条によって副総裁就任時に法燈を継承した>と、明言されているのであります。そしてその継承の時は副総裁になった時とも明言されたのであります。このことはP.178に書かれているのであります。
その部分を引用いたします。<<・・・それから、最後に確認しておきますが、法燈継承がいつ行われるかという問題です。みなさん、どう思われますか?・・・実はですね、私も完璧な自信があったわけではない。(笑い)それで、この教修会のプログラムを谷口清超先生のところへ持っていって、「こういうものをやりたいと思いますが、この法燈継承の問題で参加者から質問が出ると思うので、一応確認の意味で教えていただけないでしょうか。私への法燈継承はあったのでしょうか?」(笑い)――ズバリそのまま聞きました。すると、先生は不思議そうな顔をされましてですね、「それはあなたが副総裁になった時に---------」とおっしゃった。(拍手)>>
(4)上記二つの第三代目・谷口雅宣先生のご発言から次のような疑問点が浮かび上がって来るのであります。
(イ)生長の家教規第10条は「総裁及び副総裁」に関する規定であって、「法燈継承」に関する規定ではない。第10条の中には、「法燈継承」という文字はどこにもない。
(ロ)第三代目・谷口雅宣先生は平成15年の教修会直前に清超先生に「私への法燈継承はあったのでしょうか?」と尋ねられている。ということは、第三代目・谷口雅宣先生は清超先生から未だ法燈継承の認可(申し渡し・面授)を受けていなかったということであります。しかるに一方に於いては、第三代目・谷口雅宣先生は「師と弟子」の二者対面しての継承に関するテストと認可(面授)は「教規第10条」に書かれてキチンと制度化され公に発表するようになっていると説明されている。即ち、第三代目・谷口雅宣先生は清超先生からの認可(面授)は完了していると説明されている。公に発表する資格のあるのは清超先生のみ、しかし清超先生による公の発表もなければ、「聖使命新聞」の公表記事もない。要するに、「第二代目・谷口清超先生による第三代目・谷口雅宣先生への『法燈継承の公式認可(面授)』は、為なされなかったのである」というのが真相であります。
(ハ)「このままにしておくと、いつまで待っても清超先生からの面授もなければ全信徒への公式発表もないであろう。既成事実を積み上げていかねばならぬ、と考えられたのでありましょう。誰も疑問を持たない既成事実の積み上げ、その第一は清超先生から「法燈を継承した」との言質を得た既成事実を演出して「教規第10条」の“類推拡大解釈”(総裁・副総裁=法燈継承者と解釈)と抱き合わせて、平成15年度の教修会で“公の発表”を行なう.そしてその“公の発表”を「聖使命新聞」に掲載させると共に、各教化部長から組織幹部、全信徒へと浸透させていく。
以上の筋書きを既成事実化するために、第三代目・谷口雅宣先生は、一世一代の自作自演の寸劇――<<「こういうものをやりたいと思いますが、この法燈継承の問題で参加者から質問が出ると思うので、一応確認の意味で教えていただけないでしょうか。私への法燈継承はあったのでしょうか?」(笑い)――ズバリそのまま聞きました。すると、先生は不思議そうな顔をされましてですね、「それはあなたが副総裁になった時に---------」>>を着想せられて緻密な計画を練って実行に移され一応この自作自演劇は成功を見たのであります。これが最も筋道だった矛盾のない解釈であると思えるのであります。
(ニ)かくの如く考えますと、第三代目・谷口雅宣先生の『法燈継承』についての結論は、
@ 生長の家教団に於いては、「法燈継承に関する規定」はない。
A 第二代目・谷口清超先生から第三代目・谷口雅宣先生への『法燈継承』は行なわれていないのが真相である。それは、第二代目・谷口清超先生御自身による公式発表が最後までなかったという事実によって証明されている。
B 常識的に考えても、開祖・谷口雅春先生の「本来の御教え」とは異なったことを説き、あまつさえ、開祖・谷口雅春先生の御著書を50冊以上に亘って絶版処分(平成の焚書)を強行した者へは、如何に吾が息子といえども清超先生は開祖・谷口雅春先生の法燈だけは継承させることは出来ないと判断されていたと思われる。極めて当然な事である。清超先生は雅宣副総裁がここまで暴走するとは夢にも思われなかったと考えられるのであります。
C 第三代目・谷口雅宣先生は総裁ではあるが、“法燈継承者ではない”。法燈継承ドラマを自作自演した自称の法燈継承者である。というのが結論であります。以上の諸点を組織幹部の一人が質問として教化部長に尋ねたところその教化部長は何も答えることが出来なかったと聞き及んでおります。
D 最後まで残る疑問点が一つあるのであります。其れは、“然らば、ナゼ法燈継承の資格と資質を欠くと判断されたのに最後まで清超先生は第三代目・谷口雅宣先生の更迭を決断されなかったのであろうか?この疑問に対するお答えは清超先生のみぞ知る!しかし、これは今となっては永遠のナゾであります。(但し、推測は可能ですが省略いたします。)
E 最大の被害者はお孫さま信仰に生きる末端の高齢者信徒の皆様であります。この意味からも第三代目・谷口雅宣先生の教団からの辞去を求め、『盃の水を一滴も残さず、零さず、そのまま次の盃へ移しかえる』本当の「法燈継承者」による真の生長の家教団の復活を何としてでも成し遂げなえればならないのであります。
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ご参考までに A ・・・< “法燈継承” 2本の松明のマチガイ・・・> (885) |
- 日時:2013年04月24日 (水) 15時56分
名前:画龍点睛
合掌、ありがとうございます。 自作自演の「法燈継承劇」に於いて、雅宣(自称)総裁は
「私は平成二年、副総裁に就任した時に“法燈を継承済み”であるとの清超先生の言質を得た」
と語っております。
これを受けて、太鼓もちの岡本光生本部講師が
「副総裁(当時)雅宣先生の“法燈継承”は日本の松明(タイマツ)に喩えられる」
として地方講師研修会で指導しました。その録音を文章にしたのが次のお話であります。
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岡本光生本部講師の「“法燈継承”2本の松明・論」
平成15年奈良県講師研修会
<< 平成15年度生長の家教修会(本部講師・講師補が対象)の第2シンポジウムは「法燈継承」に関してでありました。
雅宣先生は「この中で、私が既に法燈を継承している、と思う人は手を挙げてください」と云われ約半分の人が手を上げた。
続いて「私は未だ法燈を継承していない、と思う人は?」と云われ、これも約半分が手を上げた。
この時の雅宣副総裁先生のお答えは「実は、私も分からなかったのです。そこで清超総裁先生の所へお伺いに行って聞きますと、清超総裁先生は怪訝な顔をして、『それはあなたが副総裁となったときですよ』」といわれたのです。
これで私たちにも、雅宣先生がその当時(平成15年)すでに法燈を継承済みであることがハッキリとしたわけです。
この事が「聖使命」8月1日号に掲載されたところ、「聖使命」編集室の方へ問い合わせがありました。
「それでは、清超総裁先生には法燈は無いんですか?」と。しかし、この質問者の法燈継承の考え方は“一杯のコップの中身を別のコップへ入れ替え、もとのコップは空になった”との発想から来ています。
そうではなくて法燈を継承すると云う事は、“火を点ずる”こと、つまり一本の松明から別の松明へと火を移し点ずる。従って、松明は2本とも燃えている。
清超総裁先生・雅宣副総裁先生お二人の法燈継承者が現在(平成15年当時)居られ、生長の家の教義の判断と解釈(判釈)はお二人とも出来る事になるのです。
そして、雅宣先生は「この問題は、講師試験に出そうかな!」と云われていたので昇格試験を受ける人は心得ておいた方が宜しいと思います。・・・(要旨)>>
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何とも筋の通らない内容の指導講義でしょうか!地方講師とその話を誌友会で聴く信徒は迷うばかりであります。法燈継承者が同時に複数いて、教義の判断と解釈はその人たちが別々に独立した最終的決定権を持っていると云う事であります。この実際上の矛盾が既に2件出ました。
*大東亜戦争について、清超総裁先生は開祖・谷口雅春先生のお考えを引き継いでおられたが、あまり言及されなかった。侵略戦争であったなどとは決して発言されなかった。しかし、雅宣副総裁(当時)はハッキリ侵略戦争と断定した。教義の判釈はどちらが正しいか、講師も信徒も共に迷う。
*日本教文社の蔡焜燦氏著「台湾人と日本精神」については、清超総裁先生は「良書として推薦します」、雅宣副総裁(当時)は、「日本精神は既に死んだ言葉、この本は台湾独立を支持している、政争の具になるから販売禁止する」と。どちらが正しいか、講師も信徒も迷うのであります。
このように、法燈継承を2本の松明に喩えて解説する事は、上記のような具体的矛盾(2本の松明の火の色・明るさは異なる=判釈の相異を生ずる)を含んでいるから比喩としては間違いであります。
最も適切な比喩は生長の家長老・本部講師・禅の大家であられた田中忠雄先生の盃の水の喩え(一滴も残さず、零さず、他からのものも混ぜず、そのまま次の盃へ移し替える)であります。
末端の浅学菲才の一信徒でさえ気がつくことさえ気が附かない(気が付いていても云えない!)岡本光生本部講師の指導講話、情けない限りであります。
ここまで現教団の本部講師のレベルは低下してしまっているのであり、その講話を聞いて反駁できない地方講師のレベルも又、低下してしまっているのであります。 再合掌
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ご参考までに B・・・“生命的国家論”を説かない「今の教え=雅宣教」こそ“分派”そのものである! (895) |
- 日時:2013年04月25日 (木) 15時45分
名前:画龍点睛
合掌、ありがとうございます。 「0350」氏は、「本流復活」を目指す信徒たちを“分派”であると主張されておりますが、“生命的国家論”を説かない「今の教え=雅宣教」こそ“分派”そのものであります。次に、開祖・谷口雅春先生の講話の一部の録音を筆者します。
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雅宣総裁が説かない・・・
新しき宗教の使命、それは“国家の成仏”
(昭和42年度青年会全国大会での雅春先生の御講話)
☆ ☆ ☆ ○ ☆ ☆ ☆
(録音テープをそのまま筆記しました。ゆっくり、ゆっくり声を出して読めば当時の開祖・谷口雅春先生の御講話の状況が再現されます。)
<< 従来の宗教というものは、ネ、単に個人が悟りをひらく、ト、そして自分の生活が良くなるとか云うような問題も むろん人間を救う上では必要でありますけれども更に、ネ、国家の成仏ということが、それが、アー 出来る宗教でなければならない、と云うわけであります。ネ、国家の成仏、国家の成仏と云うのは、ネ、お釈迦さんが示された、ネ、金波羅華の世界の、その姿、秩序整然たるすがたにこの世界をならしめると云うのが、それが国家の成仏と云うわけなんです。ネ、ネ、つまりお釈迦さんは、何のために、ネ、出現したかというと、この世界が、その金波羅華の世界、もうひとつ言い換えると蓮華蔵世界、蓮華の荘厳なるスガタを内に蔵している蓮華蔵世界である。その有様を地上にですね、完成する。そうすると地上の国家が成仏して、成仏とは仏のいのちそのままになる。と云うわけなんであります。ネ、それが新しき、エー、宗教の使命でなければならぬ、-----考えるわけであります。>>
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ご参考までにC ・・・< 開祖・谷口雅春先生の「生命的国家論」の詳細 > (902) |
- 日時:2013年04月26日 (金) 14時11分
名前:画龍点睛
合掌、ありがとうございます。 「0350」氏は、三代目・雅宣(自称)総裁の完全な信奉者であり、擁護者であります。「日本國實相顕現」とは「国家の成仏」であり、その内容は「生命的国家論」として開祖・谷口雅春先生が幾多の御著書の中で詳細に説いていただいております。雅宣(自称)総裁はこれ等の開祖・谷口雅春先生の御著書の多くを再版保留(実質的絶版)処分としたことは周知の事実であります。(ただし、『限りなく日本を愛す』が絶版になっていないのは、信徒からの追求の矛先を鈍らすための戦術である事は明らかなことです。)
雅宣(自称)総裁は、真理を中心部分の真理と周縁部分の真理とに分け、「生命的国家論」は周縁部分の真理で時代と共に変化するものとの捉え方であります。また、社会問題(地球環境問題)よりも人類社会の病悩苦からの解放(救済)を優先させることを原理主義と考え排斥すべきものと考えております。
しかし、これ等の事柄は「生長の家」の二大使命でありますから、この二大使命(個人と国家の實相顕現)を否定する事は開祖・谷口雅春先生の『御教え』の否定であり、<非・生長の家>となり、それこそ“別派”であるのであります。この点が「0350」氏には全然理解できていないのであります。
故に生長の家信徒たる者、全員がシッカリと開祖・谷口雅春先生の「生命的国家論」を正しく且つ詳しく理会して、ひとつの学者的学説ではなく、開祖・谷口雅春先生が「無の関門」を超えて直接把握された實相宇宙の真理そのものであることを知らなければならないのであります。
この開祖・谷口雅春先生の「日本國・国家論」(生命的国家論)については、「光明掲示板」に掲載されておりましたので次に御紹介させて頂きます。 再合掌
ニュー信徒の皆さま方へ : 「生長の家」の“日本國・国家論”について (6073) http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1141
開祖・谷口雅春先生『生命の実相哲学・国家論』の奥義、此処にあり。 (6114) http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1149
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