生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第六十話> (875)
日時:2013年04月23日 (火) 10時51分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第六十話(通算第386話)


 
キリストの十字架について(1)

(『神癒への道』P.145−148)




<< 時間空間があらわれているので、その中に「因」があり「果」があり、是が因縁因果の世界であって、そこにいろいろなものが起こっているかのごとく現れているのですけれども、併し、時間的つながりもなく、空間的ひろがりもないのだとしたならば、そしたら、迷いということもなければ或いは因縁因果のくるしみということもないのであって、何もないのです。

唯(ただ)、ここに形もなければ、(形があるということは、空間があるとうことである。)空間もないし、時間もない。唯、そこに仮に斯ういう時間空間という縦横の枠をつくり出して、その面(おもて)に絵を書くかのように生命が自己表現をしているのであります。


永遠不滅の無時間の、久遠の<いのち>が、そこに自己を表現しているのであります。


それを説いたのがイエス・キリストであって、「神の国は汝の内にあるのだ」というイエスの言葉は、すべての空間的時間的なあらゆるものを吾々は自己の内に握っているという意味であります。

イエスが「十字架を負いて我に従え」と言ったのも、要するに一切の時間的空間的な持ち物を抹殺して時間的空間的なるものの本源に立ち返れ、そこから時間があらわれ、空間が出現するところの縦横十字の交叉点上に坐せといったわけであります。

そこで今まで時間の流れがあり、空間的ひろがりがあると思っておった間は、人間は時間的空間的存在に執持して居りますから、そこからどういう風にやらなければ仏になれないとか、神の子になれないとか、天国に行けないとかいうことになるのでありますけれども、もう既に自分は時間空間を絶した十字交叉の点に存在するところのものであるということが分かりますと、<ここ>にそのまま今茲(ここ)に神の国があるということが解るのであります。

時間的空間的なものに執持しないことがキリストの言った「汝の持てる全てのものを売りてこれを貧しき者に施せ」ということに当たるのであります。

そうするとそこにそのまま神の国があるのであります。

大工も収税吏も、漁師も、遊女も悉くそのままで神の子であるから、そのまま神の国に住んでいるということになります。


 斯ういう風に吾々が生命の端的を把握いたしますと、ここに此のまま吾々はいっさいの空間を握り一切の時間を握っている自分を発見するのであります。

全く吾々は素晴らしい存在であります。自分の数寸の掌のうえに大宇宙を握っている。誰でも自分の内に時間空間の源があって、全時間全空間をば、時間空間交叉の一点に(否一点もあらざる無字の中に)握っているのが吾々なのであります。まことにも素晴らしいものであります。

ですから吾々個々人は悉く宇宙の中心であり、各々全知全能であって、何でもできないことなどはけっしてないのであります。そして吾々はこの十字の中心から心の波を起こして、心に描けば富も現れて来るし、不幸が来ると観ずれば、不幸も現れて来るのであります。そのためのスクリーン(銀幕)として生命が仮につくったものが時間空間であります。

その時間空間に於いて、自分の心が描いたものを何でも映画のように映し出すのであります。だから自分の思う通りに、貧乏であろうが、幸福であろうが、不幸であろうが、どんなものでも現わすことができるのであります。

併しながら現わしたものは、自分が現わしたものだから、直ぐそれを変更しようと思えば、心の振動(念の波動)を変えれば直ぐまた別の姿にかわるわけでありますから、どんな不幸が顕われていても、そんなに歎(なげ)くことはない。自分の心の波の変化によって、自由にフィルムの掛けかえが出来るのでありますから。>>






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