生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第六十一話> (880)
日時:2013年04月24日 (水) 13時22分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第六十一話(通算第387話)


 
キリストの十字架について(2)

(『神癒への道』P.148−152)




 キリスト出現以前、洗礼のヨハネまでは此の身を時間空間の流れに置いて、時間空間上の色々のものを実存として、その実存する過去の罪を滅する為にいろいろと苦行をしたのであります。

いろいろと苦行をしたけれども、実際苦行に依っては人間はすくわれないのであります。

丁度アキレスと亀の譬(たとえ)見たいなもので追い付きようがないのであります。アキレスが亀に追いつく、つまり追いつくというのは是だけの罪をあるとしてそれの償いをする。ところがここまで追いついたと思った時に亀はもう一寸余計にあるいている、というなは折角今行(ぎょう)をして過去の罪を消したとしても、今日は又飯を食ったり、或いは呼吸によってバイ菌を吸って殺したり、誤って蟻を踏み殺したり、一寸位はその罪の方が前進しているから、アキレスが有限の空間を観て走っている限り亀に追いつけないと同様に、どれだけ毎日罪を消す苦行をしても、やれやれここまで来たと思ったら又犯した罪は常に前進しているのであります。

だから時間空間の流れに添うて苦行をやって、その苦行に依って罪を消そうと思っても中々消えるものではないのです。

ですから吾々はそういう時間空間のない世界に入る、一ぺん自分の肉体を十字架につけ(「十字架を負うて我に従え」キリスト)て、時間空間の由(よ)ってもって生ずる本源の一点に帰っていった時、初めてそのままに罪なき世界に入ることが出来るのであります。

こういう時間空間なき世界へ入らない限り、アキレスが亀に追いつきたいと思っていくら走っても、どんなに亀が遅くても亀は一寸でもアキレスよりも前進していて追いつけないと同様に、如何に苦行によって罪を消しても、罪の方は毎日前進して行って罪の消えようがないのであります。

 そこで吾々は観方を変えて、そして罪なき世界に飛び込むのであります。

それを吾々は十字架と一つになるといい、楽行道だといいます。キリストは「我が軛(くびき)は易(やす)く、荷は軽ければなり」といわれました。

洗礼のヨハネの軛(くびき)は苦行でありましたから、これは中々辛い重い軛でありました。軛というのは頸(くび)にかけてある木であります。牛が荷物を引っ張るのに頸のところに横に木がかけてある“あれ”であります。あれに荷物を括(くく)りつけて引っ張るのです。

そこでヨハネの道は苦行であるから其の軛(くびき)は辛いけれども自分の軛は軽いのだとイエスは被仰(おっしゃ)ったのであります。何も難しいことはない。アキレスのように空間的に寸断せられる世界に亀を追っかけて走ることは要らないのであって、初めから亀のとどかない救われの山頂に飛行機(キリストの十字架)の願船にのって到達するのであります。

初めから罪がないのだという世界にキリストの恩寵(おんちょう)によって入るのでありますから、一寸も苦しいことはない――是がイエス・キリストの教えなのであります。

けれども、キリスト教をそういう風に説いた人は少ないのです。生長の家ではそういう風に解釈しているのであります。

『ヨハネ伝』第四章三十五にも、麦畑の譬話があるのでありますが、(はや黄ばみて刈り入れ時になれり)ということをイエスがいっているのですが、それはまだ肉眼でみれば四月頃の青い麦畑であって、まだ実っていないで刈り入れ時になっていない。「汝らは刈り入れ時になるのに四カ月かかる、斯ういう風に言っているけれども、心の目を開けて畑を見よ、既に刈り入れ時になっている」斯ういう風に言っていられるのであります。

これは麦畑をもって人間に喩(たと)えたのであります。すべての人間はまだ青いのでこれから苦行してそれから茶色になって黄金色に清められてはじめて一人前になって刈り入れされるのかと思うと決してそうではない。「もう既に熟している」のだ。人間は既に神の子である。既に仏の子である。初めから神の子でないもの、仏の子でないものは一人もない。時間空間を超えたところの存在、それが自分なんだ、斯ういうわけなのであります。

それが分かれば皆さんは全世界を掌(てのひら)の上に載せてそれを自由に欣翻(きんぽん)することが出来るのであります。尤もそんなことは分かっても分からなくても神の子なのでありますけれども、それに気が着かねば、その實相があらわれませぬ。

吾々は物質にあらず肉体にあらず霊的存在であると自覚が生まれ更ったとき、不思議な偉大な力があらわれて来るのであります。

若し人間が単なる肉体であったら吾々人間は終始一貫した一個の人格の持続感というものが有り得ないのであります。

肉体人間は最初は白墨(はくぼく)の粉末ほどの小さな卵であったのでありますが、その卵が今こんな大きさになっているのであります。最初はその卵もいなかった。卵もいないし卵の成分もいなかった。全然異(ちが)うものが集まって斯ういう肉体になっている。一微粒であった卵の時の成分、赤ん坊の肉体の時の成分、そんなものは大人になった吾等の肉体には少しも残っていない。そうすると卵の時代の肉体と今の肉体とは全然違う。

それを矢張り終始一貫した同じ人間としての人格の持続を感ずることが出来るというのは何故であるかというと、自分というものは肉体ではないからであります。

肉体そのものが人間だったら、生まれた時とは全然違う成分になっている今、自分はあの赤ん坊が成長したものだということは出来ないのであります。そうすると何年か前の肉体と今の肉体とは成分が変わっておるから肉体的見地からいうと何年か前にしたことはいまの自分の責任でないということになります。肉体の方からいえば別人であって、五年前に戦争を起こしたが、その肉体は今おらぬから私は知らぬといってもいいということにもなります。

今大いに借金でもして置いて、「お前に貸したんじゃないか」「いや、私は借りた覚えはない。そのお前に借金した肉体は汗になったり小便になったり、排便になったりしてもう無くなっているから今の自分には全然責任がない」などということになります。

ところがそこに責任を生ずるのは、人間というものは肉体じゃないのであって時間空間を超えたところの存在であるからであります。

人間の肉体はその時間空間を超えた中心点から放射して現わしているところの一つの放射投影であります。本当の人間は『甘露の法雨』に「肉体の奥に霊妙極まりなき存在あり」と書かれている肉体ならざる人間であります。これが「本当の人間」なのであります。

人間を肉体でないと観ること、これがメタフィジカル・ヒーリングの最初の根元的基礎自覚になるのであります。>>







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