生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第五十六話> (881)
日時:2013年04月24日 (水) 13時38分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第五十六話 



 個性命の進化と向上(その9)



人間は大海の一波一波ではない、個性生命は肉体死後も滅しない

(『人生を支配する先祖供養』P.97−98)


<< 人間の生命は宇宙大生命の大海に浮かぶ単なる波ではないのである。

“波は消えるけれども大海は永遠の存在である”というような説明の仕方では、人間は何らの慰めも受けることはできないのである。

そんな考え方は、「大自然は永遠であるけれども人間は須臾(しゅゆ)的存在で消えてしまう儚(はかな)き存在だ」というのとおなじである。

吾々が進歩を願い、向上を志すのは、個生命として独自の人格的存在として刻苦精励努力精進しつつあるのである。

人間があらわれては消える波のような存在であるならば、何の為に刻苦精励努力精進するのか――このような人間の“個生命的存在”を“大海の波”にたとえる考え方は唯物論の一種に過ぎないのである。

人間は決して波のような無機物をもって譬(たと)えてその存在意識が解るような簡単な存在ではないのである。波に比較して考えたことが間違いであったのである。>>(P.98)



<< 生命は、同一条件に対しても個性ある別々の反応を示すのである。・・・

生命の反応は個性的であって機械的でないからである。

こうして生ける人間の生命は個性に従って、同様の環境条件に於いても異なる反応を示し、異なる人生経験をし、その人でなければあり得ない独特の感応を起こして、その魂が個性ある独特の進歩を遂げるのである。

もし人間がこの人生に於いて幾多の困難を克服し、苦痛を忍び悲しみに耐え、複雑なる人生の事件に処して独特の反応を示しつつ、独特の進歩を遂げて来た個性的な人生経験の賜物(たまもの)が、肉体の死と共に何の甲斐もなく消えてしまって、Aの霊魂もBの霊魂も、一様に大生命の一海の中に個性もなく溶け込んでしまうとしたならば、地上の人生経験は全然無意義になってしまうのである。そんなことがあるはずもないし、あって好いはずもないのである。

この事については『生命の實相』の「霊界篇」に高級霊のヴェッテリニからの霊界通信に於いて、仏教学者のうちには霊魂は高級に進化するに従って個性を滅して宇宙生命に還元してしまうように説く者もあるがこれは非常な間違いであると、憤激した語調で説いて、霊魂は進化すればするほど一層個性が発揮されるのだといっていることを参考にせられたいと思う。>>(P.97−98)




『生命の実相』第10巻・霊界篇下巻


<< わが子よ、われわれは知恵あるものをも賞(ほ)め讃(たた)えないし、愚かなる者をいやしめようとは思わないのだ。なぜなら彼らはすべてかくあるべくしてかくあるのであるからだ。

知恵なき者もやがて知恵を得るであろうし、知恵ある者もかつては知恵なき者であったからだ。かくして人間はいよいよ高く向上するのだ。

知恵において勝れたるものは、その知恵によって神から与えられたる使命を果たし、愛においてすぐれたる者は、愛によって神から与えられたる使命をはたす。

しかし最も知恵においてすぐれたる者もやがてまた、最も深き愛を獲得するであろう。また愚かなる者もやがては最上の知恵を獲得するであろう。そして“あらゆる人類は永遠のタイムを通じて等しき高さに向上する。”>>(P.53)



<<われわれが、人を指して偉人だの賢者だのと呼ぶのは、その人の神性を指していうのではなく、その人が地上に生きている間の彼を指していうのだ。

<すべての人々には神性が宿っている。>しかしこれを感ずる者はすべての人間というわけにはゆかない。

大知恵者といえども、自己に宿っている神性を自覚しないでその地上の生涯を終ることがある。これは彼の運命だ。

しかし、神がその人の上に微笑(ほほえ)みを投げかけ給う者のみは、自己の神性を感ずることができるのだ。

もし、大知者の上に神が微笑(ほほえ)みを投げかけ給うならば、彼はどうなると思う?彼は霊が神であることを感ずる、しかし依然として彼の頭脳には神は理解されないだろう。なぜなら、肉体人間の頭脳には神は理解し難きものであるからだ。

「が、ひとたび神が彼の上に微笑(ほほえ)みを投げかけ給うたならば、彼はもう決して魂の歓びを失うことはできないのである。この“法悦”こそ奇跡(きせき)でなくてなんであろう。なんじら愚かなる人間が奇跡だなどと考えている現象よりも、魂の法悦こそ幾層倍もの深遠な奇跡であるのだ。」>>(P.54)






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