生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第五十七話> (892)
日時:2013年04月25日 (木) 14時45分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第五十七話 



 個性命の進化と向上(その10)

『人間死んでも死なぬ』<序・闘争なき世界への翹望(ぎょうぼう)>




<< 本書で私が申し上げようとすることは近代のスピリチュアリズムの研究から得られた「他界よりの消息」に根拠を置くのであります。

霊界通信に真実性をみとめない方にとっては無意義のたわごとのようにも思われるかも知れませんが、いづれは何人もこの肉体を捨てて何処かへ行かねばならないのであります。

或いは肉体の死と共に、「人間」そのものもなくなると信じている人もありましょうが、そう性急に速断しないで下さい。

肉体死後に霊魂が存続するか、存続しないかで、この世の生活を生きる態度がかわって来なければならないのです。

現世だけで、この「人間」が終るのでしたら、利己的快楽ばかりを追求しても好いかもしれませんが、現世の生活は、やがて来る未来世への準備であるとしたら、滅多な軽はずみな生活は出来ないと思います。>>(P.1−2)



<< 現世にて苦しんだ人々からくる霊界通信は、苦痛の渦中にいるとき呪わしく思ったところの大苦痛も、現在享受し得ている向上の状態にくらぶれば、実にそれは小さなものに過ぎないと云う事を述べているのであります。

私が『生命の實相』第九・十巻に書いている霊界通信の研究はお読み下さっていることだと思いますが、各種降霊会にあらわれて出て来た霊魂(スピリット)は、いづれも現世の苦痛が、今ある如き自己の向上をもたらしたと告白しているのであります。


「実に辛(つら)苦しみでした。しかしそれは苦しむだけの値打ちはあったのです。それは私の向上でした。--------そのために得たものは、私の苦しんだ苦しみなどのとても比べものにならないものです。」と一人の偉大なる霊魂(スピリット)は通信してきているのです。

 苦痛の意義を否定し、苦痛が加わることを加害と認め、苦痛が存在することを被害と認める限りに於いて「苦痛は世界のいづこにも現存の事実なるが故に」この世界は加害者と被害者との調和なき集団としか認めることは出来ないでありましょう。

しかし苦痛の意義をみとめ、苦痛を機縁として一切万物の霊魂が進化し得ることを知るものはこの苦痛の世界を霊魂の向上のための鍛錬の世界として喜んで受けることができましょう。

この自覚に立つことによって苦痛は私にとって自分を脅(おびや)かすものではなくなって来たのであります。

激しき苦痛は肉体的には実に苦しい。しかしこれによって霊魂が進化するのだと云うことを顧みれば苦痛は私にとっては一種の勉強だと思われるようになって来ました。苦痛が来る毎に私は内なる自己に向かって「苦しめ、苦しめ、大いに苦しめ、そうして大いに進化し向上せよ」と言います。人は歯を治療するためや、健康をよくするためにでも可なりな苦痛を忍びます。それだのにわれわれは霊魂の向上のために苦しむことを呪うべき少しの理由もないと思うようになって来ました。

 いやしくも此の世界が存在し得ている以上、どこかで調和しているに違いないのです。これは私が先見的に得た自覚でした。

しかし苦痛は不調和のあらわれのように、今まで思われていたのでした。しかしわたしに霊界よりの通信が「苦痛は霊魂の進化のために、なくてはならぬものだ」と教えてくれたとき、この世界は苦痛があっても究極的には調和しているのだと云うことが判って来ました。

もう私にとっては苦痛の境涯を閲(けみ)しつつある人も被害者でなければ、苦痛を与える人も加害者でなくなりました。それは互いの無限向上のための切磋琢磨(せっさたくま)であると信ずるようになって来ました。

私はこう信ずることによって、今まで敵として見えていた者が、自分を生かす味方に変貌することを体験しました。そこには宇宙の最高理念を実現せんがために、互いに切磋琢磨しながら進み行くための相互の心境を映す「鏡」があるばかりだと解って来たのです。>>(P.7−10)






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