生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

トップページへ戻る

 

↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓

 

名前
メールアドレス
スレッド名
本文
写真

URL
削除キー 項目の保存


生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第九話> (898)
日時:2013年04月26日 (金) 12時13分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第六十三話(通算第389話)


 
肉体は心の影(1)

(『神癒への道』P.156−159)




<< 肉体は心の影だと申しますと、「影」だというならいろいろの色がある筈がない。全体が映画のように一様に暗い筈である。また影なら平面的のものである、こんなに立体的に触覚的に感じられる筈がないと、斯ういうように反駁される人もあるのですけれども、それは「影」と云う意味の取りようが間違っているのであります。

吾々が此の場合「影」というのはリフレクションという意味であります。反映と訳しますが、謂(い)わば映像であります。鏡の前に皆さんがお座りになって映っているのはリフレクション、映像であります。反射して映っている影であります。これは立体的でもあり、色彩も厚みもあります。

念の反映が時間空間という、あの反射面(認識の形式)に、そこに映し出されているのであります。こうして念の映像にもやはり顔色も、血の色もあり、厚みもあるのであります。


 又こういう人もあります。肉体は影なのだったら、現わしたり消したり、影絵のように出来る筈ではないか。ところが肉体は殺して毀(こわ)してしまったらもう再び出て来られないではないかという人がある。ユダヤ人もキリストにそう言いました。「あそこに見えるエルサレムの宮を打ち毀(こぼ)ったら直ぐには出来まい。物質は影だというけれど、影ならパッと出て来そうなものだけれども出て来る筈がないじゃないか。あのエルサレムの宮は四十六年間も掛かって出来たところの荘厳無比な宮である。あんな物を影だと言ったり、物質は念の影だと言うが、それならあの宮を毀してすぐ又其処にあらわして見せよ」とユダヤ人の学者が言ったのであります。

すると、キリストは、「君があの宮を毀せば三日の内に建てて見せよう」と素晴らしいことを言ったのであります。勿論それはあのエルサレムの宮の事を言ったのではなかったので、自分の体の事を言ったのでありました。「お前達は此の体を磔(はりつけ)にして、此の肉の宮を毀(こぼ)ったならば三日に建て替えて、三日後には復活して汝らの前に現れる」と言ったのであります。併しその意味がその当時のユダヤ人には分からなかったのです。分からなかったのでキリストはヨハネ伝第三章に於いて『風は己(おの)が好むところに吹いている。この風が皆さんには声がきこえるが、肌には触れるが、どこから何処へ吹いて行くかお前達に分かるか』と言っている。

「空間的存在として、五官的存在として、風なら又触れるが、その風でさえもどこから起こってどこに行くということがお前達には分かるまい。況(いわ)んや此の人間の實相、無地間無空間の世界にいるところの實相の人間が、「人間のいのち」そのものが、どこからどこに行くということが分かるか。

「人間のいのち」が何処(いずこ)より来り、何処へ行くかは眼に見えて示すことはできないではないか」と答えていられるのであります。

人間の生命は本当は何処より出でて、何処より来るというようなものではない。去って去る処なく、来たって来るところなく、生なく滅なきところの存在(大無量寿経)がいのちですから、どこから生まれ、どこに去るということもないのです。

唯それが時間空間面に映像的にあらわれて見える場合に、どこから如何(どう)して生まれたというように空間的に展開し、時間的に持続して見えるのであります。

吾々は何時何処(いつどこ)に、何月何日に死ぬというような、あちらの世界からこっちの世界に来るというような存在ではない。本当はひろがりも何もなくして、ひろがりをあらわしている。吾々はそういう世界に住んでいるのでありますが、五官の眼で見たのでは分からない。

だからイエスは「見ずして信ずる者は幸いだ」と言われたのであります。信じ得る者は信ぜよ「信ずる者は永遠の生命をもつ」とイエスはまた言われた。肉体は心の影であるから生滅つねなきものであるが、わが實相は神の子、永遠に死なぬものなのだ。――斯う言ったのであります。


 ところで、吾々の實相は無時間無空間の世界にいるとすると、何だか茫漠(ぼうばく)として捉えどころがない。吾々は実に頼りない存在だというような気がするという人がありますが、本当いうと、吾々は無時間無空間の世界にいるからこそ頼りがあるのであります。

時間空間の中にいるものは一つとして滅びないものはない。どんな美しい女でもどんな達者な角力士(すもうとり)でもやがては皺(しわ)が寄って滅びて死んでしまうのであります。どんな立派な宮殿を建てましても、大理石の宮殿でさえも、風化作用に依ってやがてはばらばらに崩壊してしまうのであります。

時間空間面にある物は一つとして滅びないものはない。いくら黄金の家を建てても、黄金は風化作用じゃ滅びないかも知れないけれども、長い時間経過のうちには天体と天体とが衝突するとか、何らかの天変地変とかによって、やがて黄金の宮殿さえも姿を消してしまうのであります。(つづく)>>






Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板