生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
トップページへ戻る
↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓
<“峻厳な愛”の美しさ>ではなく、雅宣(自称)総裁には<脚下照顧>がお似合い? (904) |
- 日時:2013年04月26日 (金) 19時52分
名前:公平なる観察者
下記の文章は、4月24日、生長の家総本山の谷口家奥津城で「谷口輝子聖姉二十五年祭」が執り行われた際の雅宣(自称)総裁の挨拶の抜粋であります。
///////////////////////////////////////////////////////////
2013年4月24日 (水)「唐松模様」=“峻厳な愛”の美しさ=
<< ・・・人間の「気品」について、輝子先生が書かれているところを次に紹介したいのでありますーー 「気品はどうして得られるか。それは、気高い心を持つことであり、気高い行動を日常に為しつづけることである。自分の職業が良心に恥じないものであり、自分の仕事が、たとい屑拾いであろうと、便所掃除であろうと、いささかも賤しいものでなく、何かのお役に立っている大切な仕事の一つであると信じたら、その人の容貌は決して下品にはならないのである。どんな仕事にも、正しい心で接し、愛の心で行えば明るく尊い表情となるより仕方がないのである。
先祖代々の劣等感によって、生れつき低い鼻や、頬骨の高い顔だちになっていても、今、自分が尊い神の子であることを悟り、神の子らしい気高い心となり、神の子らしい生活をして行ったら、一日一日と神の子らしい気品が現われて来るようになり、その人の心境の速度や深度に比例して、その人の雰囲気の浄化も大きくなるのである。親の心境の高まるに従って、その子らも高貴の相貌へと変わって行くに相違ない」。(pp.43-44)
輝子先生がここでおっしゃっているのは、“人間・神の子”の自覚を常に大切にしていれば、仕事や生活がどうあろうとも“尊い表情”になるということです。それはたとい、顔の造作が少々マズクても、毎日、“神の子”の自覚を深める努力をしていれば、自然に“尊い表情”へと変わっていくというのです。これはなかなか素晴らしい美容法ではありませんか。高額な美容整形などへいくよりも、経済的コストはよほど安く上がるに違いありません。が、“三正行”を続ける努力はしなくてはなりません。真理を生活に活かすということは、こういう側面もあることをぜひ、皆さんは知っておいてください。 もう私の年になれば“高貴な相貌”など必要ない、と考えないでください。問題は私たちの内側の“心”のことなのです。相貌や表情、あるいはその人の全体から感じられる雰囲気などは、その心の表現です。どういう心を持ち続けるかがいちばん大切です。それを輝子先生は「正義」と「愛」とをバランスさせた生き方を通じて、私たちに示して下さった。そのことを先生の二十五年祭において強く感じるのであります。・・・
私はこういう行動の中に、自然界には愛だけでなく、正しさを貫く厳しさがあると感じました。この愛と正義とのバランスは、輝子先生の生き方とも相通じるものです。タンチョウと人間の心の中に起こることが全く同じであるとは思いませんが、“執着の愛”を捨て、愛するものを自立させるということが、自然界の秩序と子孫の正しい繁栄のためには必要であることは明らかです。私たちは今、“自然と共に伸びる”運動を目指して進んでいますが、自然界では単に「居心地がいい」とか「美しい」とか「豊かである」というだけでは許されないことがあります。時には“峻厳の愛”を出して子供や若い世代の人々を導く使命が、先に生まれた者にはあるのだと思います。谷口輝子先生は、そのことをご生涯をもって示してくださった。私たちも、先生からいただいた教えをさらに次代の人々に伝えていかねばなりません。二十五年祭に際して、感ずるところを申し上げました。ご清聴、ありがとうございました。>> 谷口 雅宣
///////////////////////////////////////////////////////////
<講評>
本当に、よくもこれだけの御立派なお説教をお垂れになりましたことか! 私たち末端信徒の者たちは、人に偉そうなことを言う前に果たして自分はどれだけ出来ているか?と先ず自分を顧みるのが普通であります。「雅宣教団」と言う帝国の独裁権力者であるニコライ・チャウシェスク雅宣皇帝陛下におかせられましては、全くの脚下照顧もなく堂々と“言行不一致”の姿を信徒に見せ給うたのであります。以下の通りであります。
@ <雅宣(自称)総裁の“お説教”> 「“人間・神の子”の自覚を常に大切にしていれば、仕事や生活がどうあろうとも“尊い表情”になる・・・、毎日、“神の子”の自覚を深める努力をしていれば、自然に“尊い表情”へと変わっていくのです」
<脚下照顧> 雅宣氏は、一人で歩いている時の表情は“しかめっつら(渋面)”であるらしい。ということは“尊い表情”には成っていないということ。という事は、彼は“人間神の子”の自覚には程遠い人である。彼の自覚は、人間とは自然を破壊して自己利益を追求する“人間至上主義の「罪の子」”と認めているからである。また、「森のオフィス」の上棟式の拡大写真の何とも怖い顔つき! 悪霊憑依の表情といえるのではないか? 信徒に説教する前に、自分の表情を“尊い表情”に変える事が先決でありますぞ!
A <雅宣(自称)総裁の“お説教”> 「相貌や表情、あるいはその人の全体から感じられる雰囲気などは、その心の表現です。どういう心を持ち続けるかがいちばん大切です。」
<脚下照顧> 本部職員によると、雅宣氏から受ける感じは「非常に冷たい人間である」と掲示板に書かれていたのであります。義兄実弟の方への冷酷な仕打ち! お説教の通り、<相貌や表情、あるいはその人の全体から感じられる雰囲気などは、その心の表現です。>から、マサノブ氏の心は、説教どおりの「冷酷な心」であると云う事になります。それはそうでしょう。専制独裁体制、北朝鮮型の恐怖管理体制で原宿本部が運営されているのですからね。<どういう心を持ち続けるかがいちばん大切か?> まず、あなた自信がよく考えねばならぬ問題ですぞ!
B <雅宣(自称)総裁の“お説教”> 「“執着の愛”を捨てなさい。“執着の心”を捨てなさい!」
<脚下照顧> 20年の年月を掛けて「生長の家教規」の改訂を重ね、権力を「総裁」に集中して独裁者となった事は“権力に対する執着心”からではありませんか? 信徒の浄財を株の売買による利ザヤ稼ぎに投資運用し、自宅を教団に買取らせ現金化して個人資産を増殖した(?)とか、また、副総裁を辞めてまた復職して、やめたときの退職金2000万円(?)を未だに未返還(?)、理事・参議を超高給優遇し、それ以上の総裁報酬(?)・・・“お金大好き人間は雅宣さん”との信徒間の専らのウワサ・・・ということは雅宣氏は“お金に対する執着心”も強烈という事になります。雅宣(自称)総裁よ、先ずあなた自身が“権力とお金に対する執着”を捨て切ることから始めねば成らないのではありますまいか? 「隗より始めよ!」ですぞ!
C <雅宣(自称)総裁の“お説教”> 「時には“峻厳の愛”を出して子供や若い世代の人々を導く使命が、先に生まれた者にはある」
<脚下照顧> 雅宣氏よりも先に生まれた古参の信徒、雅宣氏よりも深く真理を研鑽し続けている信仰上の先達の皆さんは、これまでに幾度となく“峻厳なる愛”から、雅宣氏に対して幾多の諫言をなしてきたのであります。しかし、独裁権力欲がことのほか強い雅宣氏は、それらの諫言する者を“原理主義者”の烙印を押して教団から追放して来たのであります。その結果、イエスマンばかりの茶坊主の組織となってしまっているのが現教団の姿であります。この“お説教”の逆を当の本人である雅宣氏は行っているのであります。完全な言行不一致であります。雅宣氏よ、あなたこそこの“説教”の言葉によって猛反省すべきですぞ!
D <雅宣(自称)総裁の“お説教”> 「私たちも、先生からいただいた教えをさらに次代の人々に伝えていかねばなりません。」
<脚下照顧> 雅宣氏よ! 貴方はこの様な“説教”の言葉を信徒にいう資格はありません。あなたには「全ての執着を断って、辞去、独立!」の道しか残されていません。まさに<脚下照顧>ですぞ!
-
|
|
その通り (905) |
- 日時:2013年04月27日 (土) 08時11分
名前:蒼穹
全く同感その通りです。 よくもまあ、あのような説教が出来たものです。通常の人間であれば自分を省みて、あのような説教は出来ません。 輝子先生のご文章を眼にしたとき、ハタと気が付くのが通常の人間であります。
「輝子先生のご文章に接した時、自分の至らなさに気が付きました。森のオフイス完成と供に、私は隠居させて頂きます。」とでも仰れば拍手喝采なんですがね・・・・・
-
|
|