生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第六十四話> (908) |
- 日時:2013年04月27日 (土) 13時45分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第六十四話(通算第390話)
肉体は心の影(2)
(『神癒への道』P.159−163)
<<(つづき)況やこんな肉体みたいなものは不断に変わっているのであって、昨日の肉体今日は既にないのであります。成分が既に変わっております。
昨日借金して置いても今日はその借金を使うのは別のエネルギーが使っているというような肉体であります。そういうような肉体でありますから、結局時間空間の世界にある此の肉体が「自分」だと思っているとこれ位儚(はかな)い頼りないものはない。
ところが人間は、「肉体の奥に、物質の奥に霊妙極まりなき存在あり」と『甘露の法雨』に書かれております様に、肉眼には見えないけれども神の姿につくられているところの霊妙極まりなき体があるのです。
仏典ではこれを「無極の体」といっております。時空に限定せられることなき体であります。時間空間以前の存在でありますから、それは五官の眼で見る形がないのでありますけれども、本当いうと空間がなくても形があるのです。それが「無極の体」であります。
皆さんが目を瞑(つむ)って「富士山」を思い浮かべてご覧なさい。そうすると皆さんの眼球は直径一寸位の大きさしかありませんけれども、まだまだ大きな富士山が目の中に浮ぶのであります。すると心のなかに浮ぶ富士山は、一寸の中に一万何千尺が入る。即ち此の心の中の「富士山」は一寸の中にも入れば、一万何千尺でもある。寸法があって無い。空間を超えた大きさであります。空間のない世界にも、このように大きさを超越した形があるのであります。
本当のところは、空間のない世界にあるところの形こそ、本当に永遠の「今」に於ける實相の形なのであります。
空間のある世界にあるものは砕けるのです。肉体も砕ける。大理石の宮殿も砕ける。ところが空間のない世界に於ける形は永遠に砕けないところの形なのであります。
實相の世界に於いて「神の像(すがた)につくられたる人間」というのは、此の永遠に砕けないところの理念の「人間」なのであります。
この「神の像(すがた)なる人間」「真の人間なるもの」「人間の理念」こそ本当の人間であります。
真性の人間は『甘露の法雨』に書いてあるところの、五官を絶したところの人間、金剛不壊の人間であって、砕けない人間なのであります。
4+4=8という数学上の理念(数理)は砕けない不滅の理念であるのと同じように、「人間なる理念」「真実の人間」は砕けないのであります。
理念こそ人間であって、肉体は唯、その「影」に過ぎない。しかも時々、妄念によって雲がかかる影にすぎない。
その滅びない「理念人間」<神の肖像(にすがた)>が、時間空間のレンズによって五官の世界に映し出されて来ているのが、現在の肉体の人間であります。
それは間断なくフィルム(念の波)が交替することに依って活動写真の様に出ているのであって、一人の人間だと思っても、いくらでも念々に「継起する念」が廻転して、斯ういう風に見えているのであります。
その念の回転を仏教では「業力(ごうりき)」と申します。肉体は業力で回転している。その奥にそれをあらわしめている光明燦然(さんぜん)たる「實相の生命」があるのです。
この實相生命の現象界への投影として血液なら血液が間断なく交替して、そして細胞の中で養分が交替して、そして斯ういう形に見えているのです。
然しそれが實相生命の完全な投影であれば健康な肉体があらわれるのですが、吾々の念が「實相の念」でなく「妄念」である場合には不完全な姿があらわれてまいります。
いずれにせよ、現象の姿は変化交替の姿であって若し変化交替しなかったならば、現象界はあらわれないのであります。
この常に変化交替する奥に、変わらないところの本当に完全なる人間の姿があるのであります。この本当に完全なる姿の人間を自覚することが、メタフィジカル・ヒーリングの先行条件になるのであります。
『人生必ず勝つ』の本に書いてありますが、人間の肉体はあのガスの火の譬(たとえ)みたいなものであります。ガスの火をぽっと点(つ)けると、一定の形をして何時間でも燃えているのであります。そうすると同じ恰好(かっこう)して燃えているから、そのガスの火は何時(いつ)も同じガスの火が燃えているかのように思われるのですけれども、前のガスは燃え尽きて、あとは次のガスが来るから同じ形をして燃えているのであります。
ガスの焔の姿は同じ形ですけれども、その中味は同じものでないのであって、別のガスが燃えているのであります。此の肉体も同じ恰好をしているから同じ形の同じ人間であろうかと思うとそうではないのであって、別の養分が循環してこんな恰好に現れているのであります。
どうしてこんな同じ恰好に現れて出て来るかというと、ガスの出口の形の設計によって、其のガスの吹き出す形が決ってしまっておって、そしてガスの火が燃えるときそれが同じ形に持続して現れて出るようになっているのであります。
そこで其のガスの火口じゃ誰が拵えたかというと設計かが拵えた。斯ういう恰好にしたら斯ういう風にガスの焔が噴き出すようになるというので、それは設計家の心の中に拵えたその形に何時でもなっているのであります。
詰まりガスの火の形はガス<そのもの>でないのであって設計家のこころの中にある。それと同じく人間の形は肉体そのものの中にあるのじゃないのであって、人間を設計した神さまの心の中にある。
その心的存在即ち「理念の人間」が本当の人間であって、「人間」とは神様の心に描かれたところの姿なのであります。即ち「理念」でありますから、人間は砕けようがないのです。即ち永遠不滅の人間であって、釈迦が涅槃経(ねはんぎょう)で説いた、仏身、法身、金剛不壊身、非雑食身(ひぞうじきしん)であって、決して食べ物をこね上げて造ったものではないのであります。
しかし、その實相身、法身は五官の方からは見えない。五官の方から見えるのは、そこから映し出された影の方ばかりである。影の方は映画のようになって、養分が交替して見えているのであるから、やがて交替が止まれば死んでしまうということになっているのであります。
そういうわけでわれわれの本当のいのちというものはしなないものである。永遠の存在であると云う事を釈迦もイエスも言ったのであります。>>
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