生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

トップページへ戻る

 

↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓

 

名前
メールアドレス
スレッド名
本文
写真

URL
削除キー 項目の保存


生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第六十五話> (918)
日時:2013年04月28日 (日) 14時47分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第六十五話(通算第391話)

 
病気の人間は本来存在しない(1)

(『神癒への道』P.163−166)



<< 人間は神の子であり、本来健康であり、円満完全であります。これを迷って観れば本当のすがたが見えないので病気に見えたり不幸に見えたりするのであります。それは曲がったレンズで物を見るように歪んで物を見て本当に歪んだものがあるように思うのであります。

例えば御飯なら御飯を食膳に盛ってある。肉眼で見たら同じ物質のように観えるかも知れないけれども、それが物質と見えるのは肉眼で見、口で味おうても五官の方式からその波動を感じて「物質」と見るのであります。

味わいと云うものは物質の波を舌の先にあるところの感覚器官で感ずるわけであります。いづれも波動を感ずるのでありますが、その場合御飯を拝んで食べる人は御飯が美味しいのであります。ところが御飯を拝んで食べない、不平でブツブツ言いながら食べる人には、同じ御飯でも美味しくないのであります。

そうすると御飯に本来一定の味があるのではなくて、感じる心に従って物質は変化するのであります。これを物質だと思って食べる人は、御飯の味わい、つまり御飯から出すところの波が歪んで感じられ、本当のよき味わいに感ずることが出来ないのであります。


胃病などの人に食物を神の生命(いのち)の波として感謝して食べるように教えると胃病が治り、食物が美味しく感じられてまいります。或いは景色を見ましても、こちらの心が悲しみに覆われていますと、その景色は憂鬱なものに見えてまいります。これはリップス(美学者)などはこちらの感情の移入だと申しております。

ところが是は仏のいのち、神のいのちがここに現れているのだと思って見ると、どんな詰らなそうな景色でも、野辺にある一本の草花でも美しく見えてまいります。これは神のみわざ――尊いものだと思って、小さな一本の草の葉を見ても美しい<いのち>に充ちたすがたに感じられて来るのであります。それが悟りの眼を以って観るということであります。

これは食べ物や景色や草花を例にひいたのでありますが、人間を観る場合にも同じであります。此処に人間が居ってその人間が或る人には迷いの眼から見ると病気に見える。その反対に悟りの眼から見ると病気はないように見えるということになるのであります。

病気を現しているというのは要するに、本来明るい景色が憂鬱な感情から暗く見えるようなものであります。ただ人間の場合にはその生命波動が心の働きで直ぐに影響を受けますから客観的にも生理的に健不健の影響を具体的にあらわすのであります。

迷いの心の眼を以って観た場合に神の造り給うた自分の本当のすがたというものは覆われてしまって、或いは歪んでしまって、変にいびつに見えて不快な姿に現れて来る訳であります。

それが悟りの眼を以って、五官のレンズをかけないで、生命と生命とがカチカチ触れる底の眼で直接ものの本当のすがたを観た時に、此の人間は完全な歪みなきところの人間に見える。すなわち「神の子」の本来健全なる姿が見えるのであります。

病人は本当は無いのです。神の理念に依って、理念そのものでつくられているのが人間であります。神の理念を言い換えると仏性とも神性とも申します。

人間は仏性であり神性でありますから、未だかつて病気をしたこともなければ、これからも病気をすることもない、また未だかつて迷ったこともなければこれから迷うということもない。

ですから、人間は今迷っているのでも、これから救われるのでもない。初めから神の理念であり、神の「いのちの波」でありますから、その儘(まま)で如来である。

「如来」というのは真如(しんにょ)――真如というのは「マコト」本物そのまま、、実在ですね――「如」はさながら、じつざいのその儘のそこから生まれて来た――<来生>してきたので、<如来>というのであります。>>(つづく)










Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板