生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第六十六話> (924)
日時:2013年04月29日 (月) 10時36分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第六十六話(通算第392話)


 
病気の人間は本来存在しない(2)

(『神癒への道』P.166−170)



<<(つづき)そこで宇宙の本物の、實相のさながらのその儘から、“ぽっかり”と出て来たところの神の理念が人間であり、如来である。吾々は初めから如来であって、初めから救われている。死んでから救われるというのではないのであって、今此の儘(まま)如来である訳であります。

それを一度物質の面から、物質をありとして固定化して見た場合に、その波が歪んだ波になって映って見えて来ます。迷いのレンズを通して屈折して歪んで感じられて来ます。

自由自在の人間が物質に縛られた不自由な人間に見え、病気の如きすがたにも現れてくるのであります。存在の姿を屈折させて歪んだものに見せるところのレンズに当るものは執着であるとか、煩悩であるとかいうものであります。

執着といいますと、本来光明生命であり、本来形ないものを、形ある物質としてそれに捉われる状態であります。本来物質はないのに「ある」と思ってそれに捉われるから、執着があると腹が立ち怨む心が起こり、争う心が起こり、奪い合う心が起こり、斯くの如くしてそこに「心の歪みのレンズ」が造られます。

そして執着の念を通して、「心の歪み」のレンズを通した眼を以って肉体をみるのですから、それが歪んだような恰好に見えるのは当然であります。

どうしてこんな執着が、迷いの心が生じたか。「ない」ものを「ある」と思って執着する心はどうしておこったかというと、忽然(こつねん)としてその念が起って、忽然として本来物質はないのにあると思ってふと迷ったのです。

大乗起信論に「忽然念起(こつねんねんき)」とあります。「忽然」とは「ひょっこり」という意味であります。「ひょっこり」とは一体なんであるかというと「ひょっこり」というのは「本当はない」ことです。ないから説明が出来ないのであります。だからひょっこり「念起」即ち迷いの念が起こったというのであります。本来“ない”ものにひっかかって本来、ない迷いがひょっこり起こるのでありますから説明のしょうがないのであります。

迷いそのものが本来<ない>のだから、従って<ひょっこり>も何も起こり様がないのに、それを説明しようと思うから、どうも詰まってしまって言いようがないようになるのです。

<実際あるもの>は神の「コトバ」即ち理念、仏性、神性、如来、神の子――そのまま本当に立派な形相があるのみであります。

實相を無形相だと思う人がありますが、實相は無相と見える内に無限形相を蔵しているのでありますから純粋に「無」ではありません。無形相のもの、「漂(ただよ)えるもの」なんか本来ないのであります。

古事記に於ける「漂えるもの」というのは要するにすがたなきところのものです。すがたなきものは本来<ない>のであります。<あるもの>は唯「神のいのち」のみであります。

それをどうしてあると思ったかというと、“ひょっこり”そういう念が起こったのであります。その“ひょっこり”そんな念が何故起こったか、何故(なぜ)何故と問いつめられると、「無い」ものは説明のしようが<ない>ので、どうも困るのですけれども、例えばそれは目を瞑(つぶ)ったような状態であります。

本当の人間は如来である。如来でも目を瞑ったら見えないのであります。吾々も目明きで見えるのですけれども、目を瞑ったら見えない。目を瞑ったら盲(めくら)であるかというと盲でもないのであって、盲でないのは矢張りみえるのです。依然として見えるのですけれども、目を瞑って見えないと思っている。これを法華経の中には「大通智勝如来は十劫(じっこう)の間、道場に座って悟らなかった。」とあります。

大通智勝如来というのは無限年間前に悟りを開いた仏であって、大通力の智勝の如来でありますから、本来悟りを開いているのであります。それなのに十劫の間も坐禅しても悟らなかったというのですが、「何故差悟らないか」と無門関はその理由をとり上げて、「彼が悟らざるなり」と結論を下しているのであります。

「何故あいつが迷っているのであるか」「あれは彼が迷っているのだ。勝手に迷っているのだ。本当は仏のいのち、仏の理念ですから迷うという筈がないのですが、自分が勝手に迷っているのだ」と云う意味であります。

例えば自分は神様から立派な眼球を付けて貰っていて見えないということはないのですけれども、勝手に目を閉じているので見えないのだというだけであります。目は矢張り明るく見える目を有っているのに、ひょっこり瞼(まぶた)をもって蓋(ふた)しただけであります。ひょっこり瞼を蓋して自分自身が本来健康であり、円満完全であるその實相を自分勝手に見ないだけであって、悟りをひらいて心の眼をひらいて見れば、自分が既に健康で円満完全な姿を見出す事が出来るのであります。

「今汝は健康である。今起て!」といい得る所以(ゆえん)であります。だから吾々は「さとる」というのを「覚める」と書きます。眼を開く事であります。また正覚であるとか大覚であるとか等正覚とか色々名前を付けて居りますが、要するに心の<眼を覚ます>ことであります。

不幸や病気があらわれているのは、唯眠って夢を見ているだけのことであります。だから、吾々は眼を覚ませばいいのです。初めから吾々は如来であり、初めから救われている。如来は眠って居っても如来である。眼を閉じて居っても盲目ではないのであります。

病気のように見えていても健康なのであります。吾々は神の子であり、本来、如来でありますから未だ嘗て迷ったことはないのでありますが、勝手に心の眼を瞑って病気や不幸災難の夢をみているのですから覚めればいいのであります。(つづく)>>






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