生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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三代目・雅宣(自称)総裁の不適確性は『御教え』の理解が浅く、“現象論”中心の理解の域を出ることが出来ないことであります。 (927) |
- 日時:2013年04月29日 (月) 11時10分
名前:画龍点睛
合掌、ありがとうございます。 「総裁先生、素晴らしいご指導ありがとうございました! いつもいつも時代の最先端をいく ご講話を頂戴できますことに感謝いたします。」この雅宣(自称)総裁を絶賛している文章は、最新の「総裁フェースブック」に投稿されている現教団の熱心な幹部信徒の“絶賛の辞”であります。はたして、それほどまでに彼・雅宣氏は三代目としてスバラシイ、さすが総裁先生といわれる真理の講話をしているのでしょうか? 今回はこの点について掘り下げて考えてみたいと思うのであります。
[ 1 ] 「今の教え」=「雅宣教」は“現象論”である。(現象の立場から物事を見ているということ)
雅宣(自称)総裁のこれまでの文章をジックリと読み返して見ますと、彼は「講習会」に於いては、生長の家の基本教義として、お決まりの三点セット、即ち<唯神實相・唯心所現・萬教帰一>の説明を致しますが、彼自身はこの三点セットを四文字熟語として単に“知っている”に過ぎないといえるのであります。
端的に言えば、彼・雅宣氏の思考は < 唯観實相 > ではなくて < 唯観現象 >であります。實相と現象をごちゃ混ぜにしての“現象論”を説いているのであります。そして彼・雅宣氏の“現象論”は < 唯心所現 > としての現象論ではなくして、< 現象独在 > の現象論なのであります。
@ 彼・雅宣氏は「人間至上主義」という言葉を常用いたします。地球温暖化現象が生じてきたのは、人類が「人間至上主義」という自己本位の利益・利便追求型の生活価値観をもって生産活動・消費活動を展開してきた結果であると説明しているのであります。このように人間という生物は地球にとっては大きな害を与える悪い存在という訳で、人間=罪作りの生物と判断するのであります。“人間は罪の子である”という思想に終着するのであります。
A この“人間は罪の子である”という思想は、「人間は神の子である」という本来の「生長の家」の思想とは対極の位置にある思想であります。彼・雅宣氏の考えを「人間至上主義」ということばから論理展開すればこのような“罪の子”思想になるわけでありますが、どうしてこうなるかといえば、彼・雅宣氏の思考の立脚点が“現象”という立ち位置に立って“現象人間”を見ているからであります。確かに“現象という立場”から“現象人間”を観れば「人間至上主義」という価値観を持った地球に害を与えている悪なる存在、”罪の子人間“となることは決して間違ってはいません。
B 彼・雅宣氏は、例えば地震や火山の爆発を人間とは関係のない独立した外界の“自然現象”だと見るのであります。そしてその“自然現象”は実際に目に見えて存在する確固たる“実在”と見るのであります。その実在たる地震や火山の爆発という自然現象によって被害をこうむらないようにするためには、耐震建築の頑丈な建物を建てるとか、大地震を引き起こす活断層地帯や噴火の危険性ある山には近寄らないようにするとかいった災害予防をする事が大切となって来るのであります。
C 温暖化防止・地球環境破壊を防止するにはCO2を出さない生活(人間活動の縮小)、自然から奪わない生活様式への切り替え、自然エネルギーの積極的活用という方向へ、肉体を持って地球上で生活している現象人間の物質的生活様式を、「人間至上主義」から「全自然尊重主義」へ切り替える生活様式の全面的転換を為すべきという訳であります。この生活様式の完全転換を全人類に推し進めれば究極的には、現行の自然資源を人間の金銭的かつ利便的な欲望を充足させる資本主義経済を捨て、自然の中での原始共産生活が最高理想となるのであります。しかし彼・雅宣氏はそこまでの純粋理想タイプの人間ではなく、全ての人が自然から一切奪わないところの自給自足の原始的生活には戻ることではないと明言しているのであります。原始的生活には戻らないと宣言しているわけですから、自然エネルギーの活用といっても鉄鉱石や石油や木材と云った自然資源を元にして造られた生産設備(機械器具)を使って太陽光発電をすることであり、バイオマス発電をすることであり、風力発電や波力発電や電気自動車を製造し、人工野菜工場を作り大量野菜栽培をするわけであります。その恩恵を全面的に受けとれるのは一部のセレブ階層の人たちであり、故に、彼・雅宣氏の言う自然との共生生活といっても一部セレブ階級に限定された“エエ恰好しい”の自己中心的、自己満足的生活なのであります。解り易くいえば、自分は手を汚さず、他人には手を汚させる生活が彼・雅宣氏の自然との共生生活の実態であります。
D 以上のような彼・雅宣氏の思考の中には「唯心所現」の考え方はどこにも見当たらないわけであります。このことは、彼・雅宣氏の思考哲学が < 唯観現象> であると共に < 現象独在 > ということがその本質をなしているということであります。現象という実在物に対しては、現象的手段、物質的手段でもって第一義的にも第二義的にも対処して行こうとするのであります。これが現象・唯物論的「雅宣哲学」であります。
E 附言すれば、彼・雅宣氏の「現象論」は、彼の神想観の解説の中にも現われているのであります。
平成20年12月27日の谷口清超先生追善供養祭で「如意宝珠観のなかには、家族一人一人の名前を呼んで感謝する言葉があります。・・・・けれどもこのお祈りの言葉をよく考えてみますと、<身健やかに>ということは肉体のことですし、<相形うるわしく>というのも肉体のことです。だから、この言葉はふさわしくないことに気がつきました。それで如意宝珠観では(清超)先生のお名前を呼ぶのは止めようと思った。・・・・このお祭りを区切りとして唱える言葉を工夫したいと思います。」と述べています。
神想観は“實相観”であって“現象観”ではないのでありますが、彼・雅宣氏の理解は“現象観”であり、「われ、今、ここ」を現象の「われ、今、ここ」として捉えており、五官の世界に居続けているのであります。彼・雅宣氏は < 實相の吾、久遠の今、實相世界 > と言う事が本当に把握出来ていないのであります。
[ U ] 真の「生長の家」の『御教え』は“實相論”である。(實相の立場から物事を見ていくということ)
@ 然しながら、開祖・谷口雅春先生の『御教え』である「實相哲学」の本質は、< 唯神實相 >・< 實相独在 >・< 唯心所現 > であります。“實相”という立場に身を置いて全てを見るのであります。
そうすると、人間は「罪の子」ではなく「神の子」であります。 < 絶対の神の真性にして神があらはるれば及(すなは)ち善となり、義となり、慈悲となり、調和自ずから備はり、一切の生物処(ところ)を得て争ふものなく、相食むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。> であります。
< この全能なる神、完全なる神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して萬物成る。萬物はこれ神の心、萬物はこれ神のコトバ、すべてはこれ霊、すべてはこれ心、物質にて成るもの一つもなし、物質はただ心の影、影を見て実在と見るものはこれ迷い。汝ら心して迷に捉わるること勿れ > であります。
さらに、< 感覚にて視得るものはすべて心の影にして第一義的実在にあらず、・・・迷い迷いて流転せる心はその信念が形となりて仮の相を現ずべし。・・・仮相に対しては實相を以て相対せよ・・・仮相を破るものは實相のほかに在らざるなり。・・・彼らに生命の實相を教えよ。彼らに生命の實相が神そのものにして完全なる事を教えよ…>であります。
A 以上の『甘露の法雨』のコトバは全て「實相」という観点に立ってのことばであります。「實相哲学」の本質は此処にあるのでありますから、私たちは常に「實相」に立って「現象」を見なければならないのであります。そうすれば肉体人間中心の金銭的、利便的な「人間至上主義」という誤まてる価値観は、迷いである事が分かるのであります。迷いの心の影として環境破壊という現象が現われて来ているのであります。地震も火山の爆発も人間の心とは全然関係のない独立した自然現象ではなくして、人間の誤まてる迷いの心の集積の反映であります。< 唯心所現 > であります。
B この“迷いの心”というのは“神性隠蔽”ということであります。神の子の實相の想念を包み隠している想念のことであります。自然災害による被害を防ぎその難から逃れる唯一確実な道は、自然災害という現象は自身の心の状態の反映であると自覚して、“神性隠蔽”という包みをほどいて「神の子の想念」に立ち返ること、< 天地一切のものに和解(感謝)する > 常なる想念を保持する努力を続けることであります。
地球環境問題解決の手段方法の第一は、< 唯心諸現> として捉えて人類の神性隠蔽の迷いを摧破することが第一順位であります。これが < 彼らに生命の實相を教えよ。> ということであり、宗教界の役目は此処にあるのであります。(政府・行政の役目は物的方面からの改善が役目であります。)
C では、なぜ彼・雅宣氏は < 唯心所現 >や< 神性隠蔽 > に言及しないで避けているのか? その理由は、なんと云っても現在の彼・雅宣氏は教団内では最高の「神性隠蔽」状態の人間であるからであります。< 唯心所現 > を認めて「神性隠蔽」を言ってしまえば、最終的には自分自身に戻って来て、彼・雅宣氏こそが「神性隠蔽」の第一人者である事が判り、その実像が衆目の前に晒されることになるからであります。率先垂範の第一人者であらねばならぬのに、言行不一致の第一人者の実像が衆目の前に晒されて結果的には辞去しなければならない事態に追い込まれるからであります。IQ指数だけは抜群の彼・雅宣氏のことですから、ここまでの狡知をめぐらせているのかもしれないのであります。
D とにもかくにも、彼・雅宣氏の基本姿勢は、現象の側から不完全な現象を指摘し、物的手段で以て対処する価値観の持ち主であります。「森のオフィス」の発想もこの思考であります。
このように開祖・谷口雅春先生の『御教え』を正しく理解できないのですから(自称)にしろ「総裁」には相応しくなく、適格性に欠けた人物であるといえるのであります。
神性隠蔽が極端に部厚いこの性格は、既に還暦を越えている初老の老人には自らが変えれる余地はほとんどありません。なぜなれば彼・雅宣氏には、本当の求道心がないからであります。
真理の水際まで馬(雅宣氏)を引っ張って行く(諌言する)事はできてもその馬が自ら水を飲もうとする意思(求道する心)がないかぎり真理という水を飲ませること(廻心)はできないのであります。心ある信徒の力を結集しての「総裁の更迭」・「辞去独立」せしめることの在るのみです。 再合掌
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