生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第六十七話> (931)
日時:2013年04月30日 (火) 09時18分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第六十七話(通算第393話)


 
病気の人間は本来存在しない(3)

(『神癒への道』P.170−172)




<<(つづき)吾々は物質であるという思いから覚めて、「自分は神の理念である」「如来である」「神性である」「神のいのちの波がここに現れているのであって、自分の本性は神のいのちその儘である」そういう風に徹底的に現在意識のみならず潜在意識にまでも考えればいいのであります。

そうしてその反対のものは要するに、「ない」として完全に否定してしまうことが必要であります。

われわれの五官的感覚は現象界を処理するために、流動そのままの生命を固定化してみるために作られた作用であります。現象界を処理する上から言いますと、「本来物質ない」と言っても斯ういう形があるとして処理して行かなくてはならぬ。形というものを摑(つか)んで処理して行く上から必要なことは、「彼」と「是」とを互いに分離していかなければならぬ。そこで五官は常に自他の分離の感じによって物を取扱うことになるのです。

詰まり五官というものは、ものの本質を見るためのものではないのであります。

そこで吾々は時々(一日一回以上位)五官の世界を去って、實相においてモノを見る練習をしなければなりませぬ。

「覚(さと)る」と云うのは物の本性、物の本質を見るのです。だから見性(けんしょう)とも言います。

人間のいのちの本質は何であるかとそれを充分見定めなければならぬ。

之(これ)に反して五官というもには、モノの本質を見ないで、現れを見る。現われを見て「これはどういう恰好である。どういう寸法である。どういう色である」そういう風に見えるのが五官であります。形がわかり、寸法がわかるというのは、有限に<もの>を見、自他別々の区画、即ち分かれた感じがなければわかりません。

ところが宇宙の本質は自他分離しているのではないのであります。

人間でも全体が一つなのであります。

それを五官は細胞が集まっているとみる。脳髄と骨と皮と肉と内蔵とが集まっていると考えます。これが五官で見る考え方であります。

或る学校の先生が、「先生とは何ぞや」という問題を出したそうであります。すると一人の生徒が、「先生とは骨と皮とで出来ていて生徒を叱る一種の哺乳動物なり」と答えた生徒があったそうであります。唯物論の教育もここまで徹底したら大したものでありますが、これでは人間の實相たる完全なる神性を見ることが出来ないのであります。

即ちいのちの本質を見ないで、そして現象の形を見ているのであります。「人間」なる一つの尊き使命を有(も)ったものを見ないで、骨と皮とで出来ているという式に見るのは、分離分裂の感じであって是(これ)は迷いであります。

『甘露の法雨』には「人間は物質に非ず、肉体に非ず、脳髄細胞にあらず、神経細胞に非ず、筋肉細胞にあらず、血球にあらず、血清に非ず、・・・それらすべてを組合わせたるものにもあらず、人間は霊なり。」と書かれております。


『甘露の法雨』を読んで病気が治るというのも、此の實相の人間、神の子なる完全人間を「言葉の力」によって自覚せしめられるからであります。

 まことにも生きた人間は骨と皮と肉とで出来ているようなそんなものでないのであります。人間は「神のいのち」そのものであります。

この「神のいのち」なる「霊的人間」を「物質人間」と見、病に冒されるものと見る「迷い」は、どうして起こったかというと、五官と云う者の用途を誤って、五官に依って見るべからざるところの「いのち」をそれによって見ようとした――そこに迷いが発生したのであります。

その迷いの念が忽然(こつねん)と発生した。「忽然」すなわち「ひょっこり」というのは、何時(いつ)という一定の時がないのであって、何時(いつ)でも吾々が五官に依って<もの>の本質を見ようとした時に“ひょっこり”其の迷いが始まるのであります。

それを創世記では「アダムとイヴとが蛇の智慧に騙(だま)された」という象徴物語になっているのであります。「蛇の知恵」とは地(即ち物質)の上を這うところの五官の知恵であります。物質ありとするところの五官知に騙(だま)されて、「人間神の子」の本質、いのちの本質を見ることを忘れてしまったところに「エデンの楽園」からの追放、すなわち「病気、不幸、災難」等があらわれて来るのであります。

だから再び「楽園」を奪還して病気・不幸・災難等のない世界に出るには、一度徹底的に五官世界の否定――すなわち、どんなに病気があらわれていても「病気なし」と否定し、實相の円満完全なる世界と人間とを観なければならないのであります。>>






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