生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第六十三話> (940)
日時:2013年05月01日 (水) 14時03分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第六十三話 



先祖供養、および個別霊の供養(その6)




祖先供養及び霊魂祭祀の祭式及び儀礼

(『人生を支配する先祖供養』P.60)


<< 生長の家は万教(迷信教以外の)にはいづれも真理ありとみとめるので、それぞれの宗教の儀式の伝統を尊んで他宗の祭祀の仕方を批判するつもりも、改式を勧めるつもりもない。霊魂祭祀の問題は形式や儀式作法よりも、霊的理解を得ることをもって中枢的な事項であると思うからである。(供養の順序方法等はP.61以降に説明されています)>>


(註・コメント)
上記引用の<<霊魂祭祀の問題は形式や儀式作法よりも、霊的理解を得ることをもって中枢的な事項である>>は、極めて重要な事であります。よく聞くことでありますが、お坊さんに毎月お詣(まい)りに来てもらっているから先祖供養は十分だ、毎月お墓詣りをしているから先祖供養は十分だ。と、考えている人が大勢いますがそうではありません。先祖供養の基本的心構えは、(1)御先祖への感謝、(2)日常語で書かれた「真理の言葉」を捧げる、(3)他人任せにせず自分自身で供養することであります。

一つにまとめると、毎日の日課として、仏前(神前)に座ってご先祖の諸霊に感謝を捧げ、自分自身でご先祖の御霊を招霊して、日常語で書かれてあってその意味が理解できる「真理の言葉(その宗教の聖典・経典)」を読誦することであります。最高の「真理の言葉」は『聖経・甘露の法雨』であります。




霊による現実界への影響――<憑依(ひょうい)について>

(『霊供養入門』P.231−234)


<< 聖経『甘露の法雨』に次にような一説があります。「霊姿に甲乙あり、病める霊あり、苦しめる霊あり、胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、」霊眼でみると「霊姿に甲乙あり」――

即ち、霊の姿にも色々の状態がある。病んでいる霊がある。苦しんでいる霊がある。「胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊」もあるというのである。日本では死骸(しがい)を焼いてしまう。だから肉体の胃袋も一緒にやけてしまって、灰になっているから、胃袋は無い。それでも、胃病になって苦しんでいる霊がある。

「心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊」もある。死骸は焼場へ行って焼いてしまったから、その肉体の心臓は無くなってしまっているのに、霊魂だけが、心臓病の続きをして苦しんでいるということがある。

「これすべて迷いなり。斯(か)くの如き霊、人に憑(よ)れば憑られたる人あるいは胃病を顕わし、或いは心臓病を顕わす。」

そこで、このように霊界において迷っていたり、あるいは病気で苦しんでいる霊がいると、「なんとか救われたい」と思って、その霊が“頼みの心”を起す。この“頼みの心”は、親子とか孫とか親類の人とか、そういう親しい人や、感じやすい人に感ずることになる。つまり霊界を“放送局”とすると、現実界の人間が“受信機”になって感応するわけである。そして、胃病でくるしんでいる霊が「たすけてほしーい」という念波を孫娘にでも送ると、その孫娘が胃病になる。

あるいは心臓病で苦しんでいる霊魂が「救われたーい」と思って、その念波を送ると、それを受けた人が心臓病のような状態になるということになるのである。

 続いて『甘露の法雨』は、次のように説いている。「されど霊覚に映ずるさまざまの苦しめる霊は、第一義的実在にあらず、彼らは誤れる信念によりて流転せる迷いの影なり。」

そのように霊眼によると、苦しんでいる霊があることが見えるけれども、その「霊覚」に見える苦しんでいる状態の霊魂は「第一義的実在にあらず」――つまり、本当は病気ではないけれども、迷いによって病気の状態を顕わしているだけである。

従って、そういう霊魂に『甘露の法雨』を読んであげたら、その霊魂が救われて悟りを開き、病気の念波を送らなくなるから、それによって現実界の人間も救われるということになるのである。>>(P.231−234)






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