生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第七十話> (954) |
- 日時:2013年05月03日 (金) 11時06分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第七十話(通算第396話)
Visualization(想念造形法)に就いて(3)
(『神癒への道』P.205−211)
この実例の中に、吾々が注意しなければならない所の重大なる問題がひそんでおるのであります。心理学的暗示の法則とメタフィジカル・ヒーリングの、宇宙の叡智を通して、大生命の自(おの)づからなる働きによって、物事が調和して実現するのとは、全然相異するのであります。
暗示の法則によるものは、精神力の強いものが、精神力の弱いものの観念を圧倒して、自分の欲する観念を相手にもたせるように強制するのであります。
或いは真理を知らない者に対して、真理を知れるものが、相手が欲すると欲せざるとに関わらず、強制的に真理を注入するようなやり方であります。
嘗てアメリカで百貨店の売り子を訓練するのに、こういうやり方が用いられたことがあるそうです。それはお客さまが来ると、その顔を一心にみつめながら「貴方はこれを買う、これを必ず買う、買わずにはいられない」と云う風に強く思念するのであります。それが効果を奏したか奏しないかは別として、之はあいての人格に対する侵害なのであります。
また心理学的実験で往来を歩いている人の後ろからその人の背を一心に見つめながら、「必ずふりむく、必ずふりむく」と繰り返しつつ念ずるのであります。そうすると思念者の思念が強力であれば、必ずふりむくといわれています。
又電車汽車等に乗っている向こう側の座席に掛けている誰かをこちらへふりむかせようとする場合にも、「必ずふりむく、必ず私の方へふりむく」と強く念ずると、不思議にその思念者の方をふりむくものでありますが、これらのことは、メタフィジカル・ヒーリングの範囲内のことではないのであります。
クリスチャン・サイエンスの始祖エディ夫人は、上記のような思念暗示を用いるのを「有害なる動物磁気を行使する」といって排斥しております。
これは思念者が、その念力が強力でさえあれば、その思念内容が相手を害することであってさえも、それが実現するということになるのであります。もっとも相手が応受的な状態にあるところの深い催眠状態の場合に於いては、晴天に傘をさして歩かせたり、本人が噴飯に堪えない事さえも、その暗示の力によって行はしめることができるのであります。
メタフィジカル・ヒーリングはそのような催眠術とは異なるのでありますが、それでも、自分が真理をよく知っている、その真理を相手につぎ込むのは善きことであるという考えから、そこに微妙な誘惑が現われてくるのであります。
しかし、相手に注入するところの観念が真理であろうと真理でなかろうと、本人の同意なしにそれを強制注入することは、人格の自由の侵害なのであります。
ホルムス博士は「羊を盗むのも、人間の人格の独立を盗むのも等しく盗罪である」といっているのであります。 >>
<<テリル・マン女史も又、自分の小説原稿を或る雑誌社の編集長が雑誌にのせてやろうという気持になるように祈ってくれと頼まれた場合に、「それは編集長の人格の自由への侵害である。人間の運命は自分自身の心の影であるから、編集長の心が変わるように祈る必要はないのである。君が自分自身の心を変えれば、自分自身の運命は自ずから変わるのである」と答えているのであります。
又或る夫人が、自分の富豪の叔母が自分に対して財産を譲る気持になるように祈ってくれといわれた場合にも、テリル・マン女史は、やはりそれを人格の侵害であるとして拒絶しているのであります。
人間は神から完全な自由を与えられているのですから、病気の念を持とうと思えば、病気の念を持つことができ、病気を身に現すことができるのであります。又貧乏の念をもとうと思えば貧乏の念を起こして、具体的に貧乏になることもできるのであります。
本人がそれを求めている限りに於いて、こちらから強制的に「健康」や「富裕」の念を注入する事はやはり人格の侵害になるのであります。而もそれは必ずしも効果を現すには決まっていないのであります。
相手が「病気」があると信じている信念が、思念者の念力よりも強い場合には、概ね効果を現すことができないのであります。そこで「あの人に思念してもらったが無効であった」などという非難をうけるようになるのであります。
病人でも貧乏人でも、非常に病気又は貧乏が実在していると、信じている信念は強いのでありますから、生半可な相対的思念力でそれを圧倒しようとしても効果を上げ得ないことが多いのであります。
私は暗示を相対的思念力といいましたが、暗示は人と人との間に相対的に行なわれるのでありまして、それは弱い方が敗け、強い方が勝つか、或いは互いに作用せずに行き過ぎてしまうのであります。
だから、それは相対的といい得るのであります。だから吾々が絶対的な効果をあげるためには、相対的に人間に対してはならないのであります。吾々は<絶対>に呼びかける。<絶対>に対して、自己の欲するものを印象し、法則の絶対性によって、その実現を期すべきなのであります。
さて、自動車営業の婦人の話に帰りますが、ホルムス博士は以上のような原理を説明して、「今その店の老舗(しにせ)を買いに来ている、その人を目ざして買ってくれるように思念しなければならないことはないのである。
どの人と一個人を目ざして、その人に念を送ることは、其れは人格の侵害である。その人でなくとも、どの人でも自ら進んで買いたくなる人がでてきたらそれでいいのでしょう。だから神は必ず一人の買い手を送り給うのであるとこう念じてそれを信じて待っておればいいのです」と教えました。
所がパサデナから来たこの人のお客は、ロングビーチにある他の人の経営しているガレージへ行って、その老舗を設備全部買いたいといいだしました。
その経営者は条件がよいのでその店を売りたくて仕方がないのでありますが、さてそれを売ったら引っ越す先がないのであります。そこで二人の客は、「この町の、あそこのガレージを売りたいといっていたのを今みてきたんだがね、あれを君買ってあそこへ立ち退けばいいじゃないか」と言ってくれました。
なる程、それは都合がよいということになり、その婦人の店も、高価に売れて家賃の滞りも支払うことができ、買い手も、売り手も、家主も全部都合がよくいったのであります。
こういうように行くのが、メタフィジカル・ヒーリングでありまして、宇宙のどこにも満ちてすべての人に連がりをもち、すべての人の要求を知っておられる神の叡智をそこに導き出してくることによってこのように万事がよく解決するのであります。
ホルムス博士はこういう場合に思念する言葉として、次の如き文章をその著書に書いておられます。
「吾は宇宙の調和と秩序の源泉として、一切の所に普(あま)ねく満ちてまします所の、唯一つの智慧の中に住んでいるのである。この唯一の心の中には完全な調和のみが実現するのである。そこには如何なる種類の摩擦も存在しないのである。誰の何ものを奪わなくとも、すべてのものは満ちたりているのである。吾が願い求むるものは、他の人の願い求むるものと、完全に調和した姿に於いて成就するのである。心の世界に於いては、空間は存在しないのである。距離は唯(ただ)相対心の中にのみある、心は時間空間を超越してどこへでも自由に伝わるのである。今私は私の想念をわが問題の解決のために、神を通してあらゆる事物に、あらゆる人々に送るのである。そしてその達成に必要なる所のあらゆる出来事は、何ら他の強制なしに、調和ある秩序に於いて現われてくるのである。わが問題は吾よりも大いなる所の叡智に委ねられて尚一層完全なる智慧と、強力なる力を通して実現するのである。神は正しく人生を歩む所の人より、如何なる善きものをも奪い給うということはないのである。」>>
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