生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その20>  =二重生活はいつまで= (989)
日時:2013年05月06日 (月) 14時52分
名前:信徒連合



開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その20> 




             =二重生活はいつまで=


    『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.140〜142)




野田:

それでは先生は永久に会社員の生活と雑誌の方をいつまでも二重におやりになるつもりなんですか。




谷口:

「生命」は生きる!それだけは定っていますが、どういう形で生きねばならぬと形をきめてしまったとき、「生命」はその自由さをうしなってしまうのです。「生命」は境遇にしたがい、相手に従い。観世音菩薩のように千変万化しながらもなお人々を救いうるところが尊いのです。

「生長の家」の生活が我の生活ならわたしの定めたように進んでも行きますが、聖意(みこころ)を行なわんがために出現した生活であるこの生活は神のみこころに従って千変万化するほかはありません。

我で貫きとおす自信と、大生命にバックされて大生命の流るるままに動く自信とがあります。ナポレオンの自信が前者ならば、「生長の家」の自信は後者です。時が来ればわたしは会社員生活を止すことにもなるでしょう。また止さないかもしれません。いずれにせよ、それは雑誌を大きくするという野心のためにするのでは普通の雑誌業者になってしまいます。

わたしが今会社員であるのは、人類全体が今はまだわたしに普通の会社員生活をししながらでも、自分も生き、人をも助け、万人に光を与える生活ができるという範例を示してくれと望んでいるからです。もうそんな範例は十分見せてもらったから、今度は会社員でない生活もみせて欲しいという人類の声がより多くなってくれば自然に神催(かみもよお)しでわたしの生活は変わって来るのです。<それは自然に神催しにです>。

「我」で変えるのではないのです。「生命」はどういう形で生きねばならぬということはない。大生命に押し流されて生きる時最も自由なのです。形の方は「執して執せず」です。形というものは影であるから執する必要はないのです。「生命」が主です。「生命」さえわれかくのごとくして生きるという筋道が立っているなら、形は千変万化してもよいのです。

その反対に形は一つを貫いていても、形を維持することに「生命」の方が支配されていてはその人の生活は生きたものではありません。そうかといって形の方をむりやりにやり方を始終かえてゆくのかというとそうでもないのです。しっかりと自分の魂の底に死んでも死なない生きとおしの生命が自覚されてきますと、<自然に>時に応じた最も適当な生き方ができてくるのです。

「我」の力で焦る生活、力む生活、こうでなければならぬと形を極めすぎた生活は、ある時期は大いに生長してもやがては行き詰まるのです。幸いにして、その人が死ぬ瞬間までは行き詰まらないにしても、そのいよいよの瞬間には行き詰まる。ナポレオンも行き詰まり、豊臣秀吉も行き詰まったのです。死ぬ時には世界統一の夢も朝鮮征伐の夢も捨てなければならぬ。いわんや雑誌経営などの夢は捨てなければならないでしょう。

われわれは死ぬ時になってさえも行き詰まらない生活をしなければならないのです。形には執して執せず、ただわれわれの「本当の生命」が影を映して進む生活なら、死んでさえも行き詰まらないのです。


「生命」は円い鏡には円い影を、四角な鏡には四角な影を、一滴の露の珠にはそれに相応しい小さな影を映して進みます。それを一定のかたちの影しか映すまいと力むとき、その人は我に捉われたのです。形を定めておかないでも生命が環境を通り過ぎるとき必ずそこに「生命」の影たるに相応しい美しい像(かたち)を宿すのです。

どの影も善い、どの影も美しい!それはちょうど寒風が霧の中を通り過ぎるとき、どう工(たく)まないでも六稜形のさまざまな美しい雪の結晶を造るようなものです。人生とは「生命」がそれぞれの環境の鏡に生命の影を映して進むことなんです。ただわれわれは「生命」それみずからの“本物の影”さえ投げかけて進めばよいのです。すると美しい生活の結晶は自然にできる。そのためには自己の生命そのものの完全な本性を自覚するのが第一です。

形を生命だと見ちがえないことが肝腎です。形を生命だと見ちがえるとき、それは迷いです。形は影であるから必ず消える。形が生命だと思って執着しきっているとき、形が消えたときその人は躓(つまず)くのです。だが、雪の六稜形の結晶は消えてもその結晶を六角ならしめた生命は滅びないのです。これが肝腎です。

「生長の家」の生き方には大乗も小乗も説いてありますが、今日は大分「生長の家」の大乗的方面を説きました。あなたになら解(わか)ってもらえると思ったからです。






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