生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第七十四話> (993) |
- 日時:2013年05月07日 (火) 09時15分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第七十四話(通算第400話)
物質及び暗示療法と真の超物質治療との相異(1)
(『神癒への道』P.221−226)
メタフィジカル・ヒーリングは物質を排斥するか? この問題は微妙な問題でありまして、一元論であるメタフィジカル・ムーブメントでは物質を物質と見ないで、神の表現と見るのでありますから、神の造り給えるすべてのものは癒す力をもっていると観るのであります。
土も、水も、火も、空気も、日光も、鉱物も、植物も、すべての食物もそれが神の智慧に従って適当な時に、適当な場所に、適当な人に、適当な分量を与えられると、すべて癒す力をもっているのであります。
大体物質というものは無いのであって、それはすべて法則によって或る形を現わしている霊でありますから、その霊的ヴァイブレーションを適当な智慧によって導き入れることによって、「生かす力」を発揮するのであります。
クリスチャン・サイエンスを除くその他のメタフィジカル・ムーブメントに於いては、医薬又は医療を併用することに反対しないのであります。なぜなら霊のみ実在であって、すべての物質と見えているものも悉く霊であるからであります。
しかし、日本に於いても或る野心家が、これを飲めば真理が早く悟れる薬だといって「六神末」という薬をうって金を儲けた実例もあり、吾々はそんな詐欺にかかってはならないのであります。
自然なる形に於ける食物は、人間の人工的知恵によって歪められずに神の智慧がそのままに現れているのですから、最も栄養となるのであります。誤れる人間知恵によって、人工的に或る成分を除いたものは、時としてその食物は不調和な成分の配合になっており、栄養的価値を減じているのであります。
時としてそれはビタミン欠乏食の如き形に於いて、人体に対して毒作用を呈するか、或いは栄養の偏(かたよ)りを生ずるのであります。「毒」というものは本来神の造りたる世界にはないのでありますが、その配合が適当でなく、適量でない場合には、毒として作用するのであり、神の創造に過ちがあるのではなく人間が法則を過ったのであります。
すべて食物は腹八分目というところが適量でありまして、適量を過ると、どんな栄養価値のあるものも、栄養は変じて毒素を発生するのであります。
物質が適量又は処を得ない場合に、其れは毒素に変じると同じように、精神も適当に使用しなければ害を人体に及ぼすのであります。すべて調和の問題であります。
<神そのまま>の心は、すべて驚くべき癒す力をもっているのであります。神<そのまま>の心とは、愛と、親切と、やさしさと、喜びと、平和と善意と、落ち着きと、何事にも極端に走らないところの中庸(ちゅうよう)の心であります。
生理学的心理学者や応用心理の治療家によって用いられている所の暗示的心理療法と、メタフィジカル・ムーヴメントの信奉者によって用いられている光明思念の方法との間には、非常な相異があるのであります。
心理学者は、すべてを暗示感応の現象であると解釈し、その学説に従って治療を施すのでありますが、メタフィジカル・ヒーリングに於いては、「祈り」と「光明思念とを用いるのであります。
メタフィジカル・ヒーリングに於いては或る想念を宇宙大生命の「実在の波」の上に印象するのであります。すると宇宙大生命の創化作用が、その印せられた想念の形の通りに事物を作り出してくれるという原理から成り立っております。
簡単にこうひっくるめてしまえば、それに違いないのでありますが、さて宇宙大生命はそれでは病気をも創造するのであるかという問題になると大変複雑な問題になってくるのであります。
仏教でも迷いはどこから出て来たか、という問題は、非常に論争されたる問題であり、高僧達が或る理論づけをして一見問題は解決しているかの如く見えますが、その説明に到っては、その境地に到るひとでないと、成る程と納得がゆくことができない。所謂る言詮不朽(ごんせんふきゅう)の真理であります。
即ち迷いは宇宙の本体であるところの真如から起こるという説(真如縁起)と、迷いは真如から出て来るのではない、ひょっこりと夏の雲が何処から起こるか解らないように出て来る(大乗起信論に於ける忽念念起の如き)という説があります。
その忽念出て来た所の迷い即ち「悪しき想念」即ち無明がすべてを具象化して悪しきものが現れて来る説(無明縁起)とがあるのであります。
生長の家では「真如即ち神からは悪しきものは出て来ない。従って悪しきものや迷いは神が造らないから有るように見えても本来ないのである。ない迷いが具象化したところの病気も不幸も本来<ない>のである。――こういうように「現象空無」を説くのでありまして、この見える世界を一旦夢の如く、幻の如き世界と否定してしまうのであります。
しかし否定のままでは、「無い世界」に生活することができない。そこで大否定の後に大肯定が出て来るのであります。それが即ち『甘露の法雨』にあるところの「肉体の奥に、物質の奥に、霊妙極まりなき存在あり。これこそ神に造られたる存在及び人間である」と書いてあるのでありまして、その実在の世界に、その実在の人間が生きているのであります。
現象の空無我がここで“くらり”と一転して、はかなき生命を生きていながら、永遠不滅の金剛不壊の実在生命を生きているのが自分だという事になるのであります。
肉体を現して、生活していながら、肉体が此処に生きているのではなく、「霊妙な存在」が生きているのである、「実在」が生きているのである、“I am”が生きているのである、神が生きているのであると自覚するのであります。
「吾の置き換え」であります。この自覚の置き換わりがヨハネ伝三章にあるところの「新たに生まれる」であります。「もはや吾生くるにあらず、キリスト吾にあって生くるなり」のパウロの自覚もそれであります。かかる自覚に於いてはキリストは如何なる病気と雖もいやされないものはなかったのであります。
そのキリストが自分の中(うち)にあって生きているという自覚が、体験としてはっきりつかめますと、もはや病気は<ない>のであります。キリストのふれた所の人間にして癒されないものは一人もありませんでした。キリストは彼にいやされようとして来た所のすべての人を癒したのであります。
彼は弟子に教えて、癒されない所の思い病気があるとは決していいませんでした。弟子が病人を治すことに失敗して帰って来た時には、「汝の信仰淡(うす)き故なり」と“のみ”いわれました。もし現代に於いて、人間が「もはや我れ生くるにあらず、キリスト吾にあって生くるなり」という自覚が得られるならば、キリストが此処にいるのであるから、キリストの生命に現に触れているのであるから、癒されないという筈はないのであります。
キリストは必ずしも医者を排斥したとは聖書に書かれていないのであります。イエスは病人が医者にかかっていても治したし、医者にかかっていなくても治したのであります。>>
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