生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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原宿城凱旋・FAX作戦原稿傑作撰! (56〜57) (995) |
- 日時:2013年05月07日 (火) 09時36分
名前:FAX作戦推進本部
<雅宣(自称)総裁「今の教え」の誤り>
創世記の左脳的解釈・1
<<『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。だから、聖書研究者の間では、これらの話は、それぞれ別の作者の手になるということが、大筋で合意されているのだ>>(平成22年7月13日『小閑雑感』)
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雅宣総裁のこの様な考え方は一体『生命の實相』のどこに書かれているのでありましょうか?
開祖・谷口雅春先生は、<<あらゆる宗教的教典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。 霊感によって書かれたるものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。 いかなる博学者も、ただ語義のみ知って霊感なきものは、真に教典の生命を捉ええない。>>と説かれています。従って、雅宣(自称)総裁のこの解釈は完全な間違いであります。
平成25年○月 本当の「生長の家」真理を求道する信徒
〜〜〜〜〜(A4チラシ原稿はここまで)〜〜〜〜〜
注: 上記原稿は、A4一枚に納まるように作られています。
<補足説明>
* 雅宣総裁のこの「小閑雑感」の創世記第一章と第二章に関する捉えかたは霊感によらない“左脳的解釈”)であります。
* 雅宣(自称)総裁は、次の二つのことを主張しているのであります。
(1)創世記第一章と第二章とは矛盾したことが書かれている。 (2)創世記第一章と第二章とは作者が別である。
雅宣(自称)総裁のこの様な考え方は一体『生命の實相』のどこに書かれているのでありましょうか?
彼は全く『生命の實相』を真剣に読んでいない。“どこかに間違いはないか?”と欠陥探しの観察眼で拾い読みをしているのであります。
* 創世記第一章は神(サムシング・グレート)による完全円満、至美至妙なる「真創造の実相世界」のことが描かれているのであり、創世記第二章は人間の「迷い(迷妄)の心による偽創造の現象世界」のことが描かれているのであって、このことは『生命の實相』第11巻を読んだ人ならば誰でも知っていることでありますのに、雅宣(自称)総裁は知らないが如くであります。
* 開祖・谷口雅春先生は明確に『生命の實相』第11巻P.56の2行目に
<ここにわたしは一つの『迷い』の萌芽を発見するのであります。>と書かれているのであります。
雅宣(自称)総裁はこのような重要章句に心が止まらず、完全な左脳的批判の心で読んでいるのであります。
だから、上記の如き<『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。>という信徒以下のレベルの解釈しか出来ないのであります。
* 可愛そうなことには雅宣(自称)総裁は自分の文章が信徒以下のものであるとは決して思っていず、逆に博学多識であることを「小閑雑感」を通じて自己顕示しているのであります。
* 彼は「迷い・迷妄・無明」のことなど全然解っていないのであります。雅宣(自称)総裁は<聖書が『霊感』で書かれたこと。開祖・谷口雅春先生はそれを霊感で以ってその真意を解釈された>こととは考えず、<聖書は古き時代の人間の肉体頭脳知の創作物語であり、自分もまた優れた左脳で解釈する。それが“今の教え”である。>といっているのであります。 こんなものは、本来の正しい『生長の家』の教えではないのであります。彼に強く反省していただくために、開祖・谷口雅春先生の御文章を次に引用いたします。
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(1)『生命の実相』第11巻萬教帰一篇上巻<はしがき>
<< この書は『生命の實相』のなかでも圧巻といわるべき部分であり、諸宗教の神髄もっぱらここに集まるともいいうるのである。 ここに諸宗諸教に対する生長の家からする独特の判釈があるのである。
本書を読んで仏教の神髄が会得されたと言われる人もあれば、難解難信の『法華経』が本書を鍵としてはじめて釈然としたと言われるひともある。 今まで仏教とキリスト教とは教えの立て方が異なるので、全然教義の上で和解されないものだとされていたのが、 現象と実相とをハッキリ区別する説き方で完全に一致し和解することが出来るようになったのである。
それは『創世記』の天地創造の章に「神その創造(つく)りたるすべてのものを観給いけるにはなはだ善かりき」と書かれている一切皆善の“実在界”は、『法華経』の「自我偈」(じがげ)に「衆生劫尽きて、この世(唯心所現の現象界)の焼くると見る時も、わが浄土(実在界)は安穏にして天人常に充満せり」と書かれている場合の“実在界”なのである。
神は実在界の創造者であり、現象界は「衆生の見る世界」すなわち唯心所現の世界である。 だからキリスト教や神道の宇宙創造説と、仏教の無明縁起説とは決して衝突するものではないのである。 キリスト教のサタンは結局、仏教における「無明」(まよい)の人格的表現にすぎない。 「無明(まよい)」によって創造(縁起)されたる現象世界だけを観て、天国を説き、浄土を説こうとするから、天国は地上に出現しないのである。 イエスが「サタンよ去れ!」といったのは、汝の「無明(まよい)」の心の帳(とばり)を除け!そこに浄土実現し天国現前せることを見出すだろう、という意味である。 『法華経』の語をかりていえば「もろもろの憂怖(うふ)充満せる」現象世界の奥に、焼けつきざる金剛不壊の実在界を見出せという意味である。 まことに悟りをひらいて今ここにこの金剛の浄土を見出すときは、衆生の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の中にいるといえども、その苦悩から現実に逃れるのである。>>
<<唯心所現の世界はこのように、自覚がかわれば変わるのである。わたしはここにいたずらに奇蹟を説く必要をみとめない。本書こそ『生命の實相』の中でも、最も深い「存在の実相」が、壊せず滅せず常住久遠のものであることを自覚する悟りに導く中心の巻の一つとして、是非とも無宗教の方にもあらゆる宗教宗派の方にも読んでいただきたいのである。>>
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(2)『生命の実相』第11巻萬教帰一篇上巻P.3
<< あらゆる宗教的教典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。 霊感によって書かれたるものは、ただ、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。 いかなる博学者も、ただ語義のみ知って霊感なきものは、真に教典の生命を捉ええない。 生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き教典の神髄に透徹してこれを拝むのである。>>
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(3)『生命の実相』第11巻萬教帰一篇上巻P.118−119
<<『創世記』の価値は、宇宙創造の実際と、「無明」の偽創造と、「無明」の発展集積と、その発展集積の後、自然に土崩自壊するところのいわゆる「ノアの洪水」と、その救いの願船「ノアの方船」(生長の家)の出現が予言せられている点であります。>>
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(4)『生命の実相』第27巻久遠仏性篇上巻P.154−156(布製版)
<仏典を論ずる>と<仏教を悟る>とは異う―――
<<・・・仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にした。したがって肝心の問題であるべきその書に、本当に『久遠を流るるいのち』が生きているかどうかを忘れてしまう傾向がある。・・・ まことにも木村博士の言わるる通り『仏典を論ずる』ためには、サンスクリット語や・・・古代の方言やチベット語などさえも必要であろう。 しかし、それは『仏典を論ずる』ためであって『仏教を悟るため』ではないのである。 幾千巻の大蔵経の第何頁に如何なる語が書いてあるかと言うようなことは、仏典を論ずるためには、必要であるかも知れない。けれども吾々の<さとり>のためには何の効果もないのである。・・・ ・・・結局、語学や経典によって釈迦の教えを研究しようなどと言う企ては、暗中模索の靴を隔てて痒(かゆ)きを掻(か)くに類する努力であって、 それはいつまでも語学の世界と考証の世界に堂々巡りしていて、その教えの堂奥に飛び込むことは出来ないのである。 本当に<さとり>の世界へ飛び込もうと思うものは、語学や考証の世界を一躍して『久遠を流るる<いのち>としての釈迦』そのものの中に飛び込まなければならないのである。>>
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(5)『生命の実相』第11巻萬教帰一篇上巻P.98−99
<< よく「無明(まよい)」が<本来無>であって、人間が本来<神の子>であるということは“どうして”解るか――と言って理論で突き詰めてこられる方がありますが、 理論――すなわち物質世界を認識するためにできた人間知の理論では、「無明(まよい)の本来無」も「人間の本来<神の子>」たることも、覚(さと)れようはないのであります。 そういう物質的知恵では、実相世界の妙楽の状態、実相人間の妙楽の状態は、決してわかるものではないのであります。 これは物質的知恵を懸絶(けんぜつ)したところの実相覚(さとり)によってのみ忽然(こつぜん)さとるほかはない、
自己にやどる<神の子>そのもの、<神性>そのものが、本来自己が「実相世界に属する神の子」であるとパッと自覚するほか、肉の人間知や三段論法や、五官に見えるものが実在するとする素朴的実在論ではわからないようになっている。 なぜなら<実相のみ実相を知ることができるのであって>、 ニセ物はニセモノをしかわからない、ニセ物と実相とは“類”でないがゆえに、心の法則によって互いに反撥して、その間に<絶縁体>があるのと同じような結果になるのであります。 ニセ物を知るための知恵では、実相をつかめない。 その間にある絶縁体を象徴して「焔の剣(つるぎ)を置きて生命の樹に至る途(みち)を守り」とここには書かれているのであります。>>
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このように第三代目・雅宣総裁の創世記『今の教え』の解釈は完全に間違った教えであって、開祖・谷口雅春先生を隠蔽・放逐した内容になっているのであります。
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原宿城凱旋・FAX作戦原稿傑作撰! (57) (1013) |
- 日時:2013年05月08日 (水) 14時35分
名前:FAX作戦推進本部
<「今の教え」の誤り>
創世記の左脳的解釈・2
<<結論を先に言ってしまえば、『創世記』第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている、というのが私独自の見解である。ということは、天地創造の物語としては、どちらにも立派な存在意義があるのである。言い直せば、天地創造について古代から2つの異なった言い伝えが併存し、双方が重視されてきたのは、双方ともに人間の心の要求に沿うものだったから、ということになる>>(平成22年7月15日及び7月20日『小閑雑感』)
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▼ 雅宣(自称)総裁は、講習会では「唯神實相」と説くが、彼の信念は、抽象的に「實相世界」を認め、しかし重視すべきは眼の前にある現実の「現象世界」なりと言う不明瞭なもので、これが人間の心の要求に沿うものだと説く二元論。完全100%の「唯神實相」ではない。
▼ だから、「實相独在」を説かず、信徒の奇跡的体験談を冷ややかに聞く。そして、「地球環境」という「現象」の方を重要視するのであります。生長の家の指導者(総裁)たりうる資格はないのであります。
平成25年〇月 本当の「生長の家」真理を求道する信徒
〜〜〜〜〜〜〜〜(A4チラシ原稿はここまで)〜〜〜〜〜〜〜
注: 上記原稿は、A4一枚に納まるように作られています。
<補足説明>
平成22年7月15日及び7月20日『小閑雑感』の重要部分の文章は次の通りであります。
<<結論を先に言ってしまえば、『創世記』第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている、というのが私の見方である。ただし、これはレヴィ=ストロース氏の『神話論』の内容とはあまり関係がない私独自の見解である。>>
<< 前回、本テーマで書いたときの結論は、『創世記』の第1章と第2章以降の記述の違いを分析すると、「第1章は非対称性の原理が支配的であるのに対して、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている」ということだった。このことは何を意味しているだろうか? 以前、「対称と非対称」や「“わかる”ということ」について本欄で書いたときに強調したことの1つは、人間の心の中では、現在意識が主として「非対称性原理」によって動いているのに対し、潜在意識は「対称性原理」を特徴とするということだった。そして、人間はこの双方を本来兼ね備えている。ということは、天地創造の物語としては、どちらにも立派な存在意義があるのである。言い直せば、天地創造について古代から2つの異なった言い伝えが併存し、双方が重視されてきたのは、双方ともに人間の心の要求に沿うものだったから、ということになるのではないだろうか。>>
* 雅宣(自称)総裁は<<『創世記』第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている、というのが私の見方・独自の見解である>>と書いているが、一般信徒の中で此処に書かれている事の意味を理解できる信徒が果たしているであろうか?
* “非対称性の原理”だとか“対称性の原理”という日常聞き慣れないコトバを使って信徒を対象とした文章を書くこと自体がそもそも間違っているのであります。 この様な言葉を使ってしか「創世記」の解釈が出来ない三代目・雅宣氏とはどのような人物なのか? 果たして生長の家の指導者(総裁)たりうる力があるのだろうか? 答は断じて「否(NO)!」であります。詳しく云えば、――
(1)「宗教家」と自称して居るが、実態は理屈を好む“学者”・“評論家”である。
(2)そして、自分がいかに“博学多識”であるかを示そうとする自己顕示欲の旺盛な人間である。
(3)『聖書』のような霊的次元の高い聖典(教典)といえども所詮は人間の頭脳によって書かれた文学作品であって、霊感で書かれたとは認めない人である。
(4)完全に唯物二元論の価値観の人であって、“悟りの世界”については今生では到達不可能な霊的体質として誕生したひとである。だから、理屈の世界・左脳的思考の世界でしか生きられないひとである。
(5)“悟りの世界”に近づけない人であるから、霊的・宗教的なことを現代人に分かるような平易な言葉では解説できない。望む方が無理な人である。そこで自己満足・自己顕示の為に難解な言葉を使うことになるのである。
(6)この様な難解な、信仰の深化とは直接関係の無い文章の多い本を、講習会のテキストとして三代目・雅宣(自称)総裁は強引に信徒に買わそうとする。信徒が買い渋ると書籍中売り係は「寄付すると思って買って下さい!」と迫る。信徒は買っても読む気もしない。正に“寄付!”。喜ぶのは、販売冊数に応じたリベートを貰っている?教化部長と印税が入る三代目・雅宣(自称)総裁だけである。
* 三代目・雅宣(自称)総裁に反省を促すために、開祖・谷口雅春先生の次の御文章を引用掲載させていただきます。
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(1)『西田哲学との比較に於ける人間論』(『人間死んでも死なぬ』P.332)
<<私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったという否定すべからざる事実が続々起こったり、戦場に於いて生死を超越して奮戦し得た実例を数多(あまた)生じたる理由は、 それが「“絶対死なぬ”人間“そのもの”」なる哲学を感情的に移入する誰にでも理解され易い文章で詳解し、その哲学を実際生活上に生活し得るように誘導したからである。
生長の家に哲学が無いという人は、実はその人は、私の全集『生命の實相』を読んでいないからである。 真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、全集の『生命の實相』は私の文章芸術であるが、哲学そのものは難解なる哲学用語の外にあることを知らなければならない。
私は哲学を難解なる術語から解放したのである。 哲学“する”とは難解なる術語を使うと云う意味ではない。 真理を如実に把握して生きると云う意味である。 表現された真理をそのまま読者が生活に生きるように押し出す迫力があるのが哲学である。 哲学は哲学“せしむる”力を持たねばならぬ。 併し多少たりとも哲学的術語を持たなければ「生長の家には哲学がない」と言いたがる人のために本稿は幾分か在来よりも哲学的様相を備えて記述したのである。>>
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(2)『生命の実相』第27巻久遠仏性篇上巻P.156−157(布製版)
<< 語学や考証を超えて――― 私はここに、本当の釈迦は二千五百年前、地上に生まれて王宮を出家して迦耶城(がやじょう)を去ること遠からぬ道場に座りて阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成じた如き『肉体』でないことを宣言する。
それは私が宣言するだけではなく法華経の『如来壽量品(にょらいじゅりょうぼん)』にちゃんと宣言してあるのだけれども、法華経は大乗経典であり、大乗経典は釈迦是(これ)を説かずと言うような、<さとり>には何の関係もない考証的仏教学者があるから私が茲(ここ)に改めてそれを宣言する必要があるのである。
斯(か)く法華経に従って、本当の釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)は浄飯王(じょうばんおう)の太子(たいし)ゴータマの如き肉体人間ではないのであって『久遠を流るるいのち』であることを知るとき、 吾等は到るところに『仏教』即ち『<ほとけ>の説教』を見出すことが出来るのである。・・・何処にでも身を現じて法を説き給うのが釈迦なのである。
だから法を説くとき阿難(あなん)も釈迦であり、達磨(だるま)も釈迦であり、賢首(けんしゅ)も、空海も、道元も、最澄(さいちょう)も、親鸞(しんらん)も悉くみな釈迦なのである。親鸞などに到っては・・・ 彼の<さとり>は語学を超えて却って『久遠を流るる<いのち>』を把んだのである。・・・ 言葉や語学にこだわり過ぎて、この文字は梵語(ぼんご)では本来何を意味するのだなどと言う事を考証するほど、凡(およ)そさとりに遠いものはないのである。>>
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(3)『生命の実相』第27巻久遠仏性篇上巻P.158−159(布製版) << ほとけは何処(いずこ)—――― 現代仏教が揮(ふる)はないのは碩学(せきがく)は図書館に籠(こ)もってシミとなり、凡僧は寺院に籠もって死骸にお経を誦げるのを商売として、 直接『久遠を流るるいのち』そのものなる釈迦に触れ、釈迦の<さとり>を直接生きようとする人が少ないからでる。・・・『久遠を流るるいのち』なる釈迦は・・・ユダヤに於いても、日本に於いても、アメリカに於いても、イギリスに於いても常住久遠に説法してい給うのである。 『久遠を流るるいのち』なる釈迦は、或いはイエスと現れて法を説き、或いはマホメットと現れて法を説き、或いはエマースンと現れて法を説き、さらに黒住教、今光教、天理教、扶桑(ふそう)教、ニュー・ソート、クリスチャン・サイエンスと現れて法を説いても一向差し支えがないのである。
釈迦がその『肉口』を以って法を説かなければ、それは仏教でないというならば、地上いづこにか仏教あらんや・・・では吾等は何処に本当の仏教を探し求めたら好いであろうか。仏教とは『釈迦の肉口の教え』であると考えている限りに於いては、そんなものは地上の何処にもないのである。
しかし仏教とは『久遠を流るるいのち』と一つなるところの釈迦、『常に此処に在りて滅せず・・・余国に衆生の恭敬(くぎょう)信楽する者あらば、我復(ま)た彼の中に於いて、為に無上の法を説く』ところの釈迦――斯くの如く変貌自在、どこの国にでも恭敬以って真理を知らんと志す衆生のために出現して来て法を説く釈迦――この釈迦の教えが『仏教』であると言うならば、仏教は到るところにあるのである。>>
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結論として言えることは、
▼ 雅宣(自称)総裁は、講習会では「唯神實相」と説くが、彼の信念は、抽象的な概念としては「實相世界」を認める、しかしそれはあくまでも抽象概念としての頭脳的理解での「實相世界」にしか過ぎないのであります。したがって、彼にしてはもっとも重視すべきは眼の前にある現実の「現象世界」なりと言うことになります。このように、抽象概念としての神の眞創造の實相世界と同時に厳然として存在する目の前の現実の現象世界も重要というまことに不明瞭な二元論者が雅宣(自称)総裁であります。これが人間の心の要求に沿うものだと説くのであります。したがって、かれが幾ら講習会で生長の家は唯神實相だといっても完全100%の「唯神實相」ではないのであります。このように「唯神實相」と説いても雅宣総裁の理解している「唯神實相」と開祖・谷口雅春先生がお悟りに成られた「唯神實相」とは心内自覚上に於いては天地と同じ開きがあるのであります。
▼ だから、「實相独在」を説かないのであります。、信徒の奇跡的体験談を冷ややかに聞く。関心を示さない。それよりも彼にとっては、「地球環境」という「現象」の方が大切であり、重要視するのであります。これでは、生長の家の指導者(総裁)たりうる資格はないのであります。だから、一日も早く「地球環境の家・雅宣教」として退出して独立していただかねばなりません。図らずも、雅宣総裁の心奥の自覚意識が露呈した「小閑雑感」でありました。
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