生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家 「今昔物語」・理性篇の再掲示<第三話> (99) |
- 日時:2013年02月21日 (木) 09時27分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第三話(通算第329話)
光明思想家とマルキストとの対話(2)
弁証法と観念論<その二>
(『解放への二つの道』P.121−125)
客:
その「無限に完全なる實相」というのは「神」とでもいうものにあたるのですか。
主:
そうです。「神」と言っても、「真如」と言っても、法性と言っても實相といっても好い。ヘーゲルにいわせれば「絶対精神」というような超越的な存在です。
客:
そういうそれ自身「物質」でなくて、永遠に完全なるものが存在するというのが、それが観念論である。この観念論を打ち破ったのがフォイエルバッハである。
主:
打ち破ったと思ったのがフォイエルバッハであって、本当は打ち破られてやしない。
客:
兎も角、フォイエルバッハは千八百四十一年『キリスト教本質論』というのを発表して、神というものは結局人間の反映である。人間が自分が要求するものを自分を土台として造り出したものであって、人間から超越した神というものが存在するのではない。だから神は人間の反映である。神は人間以上のものではなくて、人間が造ったものが即ち神であるということを主張して、ヘーゲルの説いた「絶対精神」を否定しようとしたのです。
マルキシズムはこのフォイエルバッハの「絶対精神の否定」を採用したのです。マルクスの協力者であったエンゲルスは、このフォイエルバッハの論文を読んで狂喜した。そしてこう言っているのです。
「総ての哲学、特に近代哲学の根本的大問題は思惟(しい)と実在との関係如何の問題である。即ち精神と自然と何れが根本的な問題か、それに対する答弁が色々あるに従って哲学者達は二、三の陣営に分裂した。
精神と自然の中(うち)、精神こそ根源的であると主張した人々、それらが観念論の陣営を形成した。他方、自然を以って根元的だと考えた哲学者達は唯物論の諸派に属する--------」
まあ、こんな風に説いているのですから、観念論と唯物論とは両立しない。神というものは、一つの「精神」的存在であるが、そんな「精神」というものが先ず初めにあったのではなく、人間という自然界の物質的存在が先ず初めにあって、その人間が神というものを脳髄のはたらきで考え出したのである。脳髄という自然的存在、物質的存在が先ずあって、それから精神が生じ、その精神が神をつくり出したのだと説くのです。
主:
そう、そう。そのマルキシズムによると大体、精神というようなものは、それ自身では存在しない。精神というものは脳髄という物質から出て来たものである。こういうものの考え方をするのですね。大体、生長の家と逆であります。
それで精神というものは、大体脳髄から出て来るのじゃないか。その「精神」が<もと>になって、自然が生まれるという筈がない。脳髄というものを叩き壊したら、えらそうに「精神」だなんて言っていても、もう精神は出なくなる、想念の力だなんて言ったって、麻酔剤を注射したら心の思いが出て来なくなるじゃないか。だから脳髄という物質がもとであって、そしてこういう想念というものが出て来るのである、とこういうように説明して、我々の説く非唯物論――唯物論でない所の哲学体系を攻撃しようとするのであります。
私が非唯物論というのは、必ずしも観念論でも唯心論でもない、それらを包括しているところの唯物論でないところの哲学をひっくるめて謂うのですが、マルクス主義者はそういう唯心的傾向の哲学を攻撃しようとする。
ここに彼らが大いなる誤謬をしているのは、唯心論とか観念論とかいう場合の「心」とか「観念」とかいうものを脳髄の所産としての精神として誤解していることです。彼らは脳髄所産の心が物質を創造することは出来ないと言うのです。
吾々が唯心論を説くのは、そんな脳髄から出て来る心で自然界の万物がつくられるというのではない。そんな馬鹿なことは、反駁する必要もない自明の理である。
唯心論という場合の「心」は脳髄から出て来る心ではなくて、脳髄をも造った「心」です。脳髄は「つくられたもの」であり、道具に過ぎない。
脳髄そのものは考えない。脳髄が考えるんだったら脳髄の呼称が原因でなく他の病気で死んだのは、例えば心臓マヒで死んだ人は、脳髄はちゃんと健康で残っているからそれが何か考えたり、言ったりしなくちゃならないのでありますが、脳髄に故障がなくとも、霊魂がその人間から去ったら、もうその脳髄は考えないのである。
そうすると脳髄自身が考えるということは、間違いである。脳髄は一個のラジオ・セットである。と生長の家で説いている。
そして、吾々の霊魂というものが、その背後に居るアナウンサーであって、そのラジオ・セットに吹き込む、或いは放送すると、そこから、そのエネルギーの震動が無数の配線を伝わって、身体の各所にいろいろの働きというものとなって、現れて来るのである。
実に微妙な化学作用を起す電気的装置になっているものが肉体である。しかしその電気装置は誰がつくったかというと、物質が自然にかたまってこのような複雑な装置が出来るということはとてもあり得ない。
それを設計しつくる何者かがなければならない。物質それ自身にはそんな知性はないとすると、脳髄その他の肉体組織に先立って、それを作った「心」と云うものがなければならない。そこに唯心論の根拠がある。(つづく)
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