生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第七十八話> (1060) |
- 日時:2013年05月13日 (月) 07時26分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第七十八話(通算第404話)
神癒と時間・空間の問題(1)
(『神癒への道』P.234−237)
<< 前述せる通り、メタフィジカル・ムーブメントの根拠となる所の哲学は、宇宙には唯一つの「心」又は「生命」があって、吾々はその中に住んでおり、それにとりまかれており、それは吾々の想念に応じて感応交流するものであり、吾々の想念の相(すがた)に一切のものを造り出してくれるものであるという世界観であります。
従ってわれわれの想念を変化することによって自分の環境を変化し、病気を治癒せしめ、自分の経済状態を変化せしめることができるという非常に楽天的な世界観であります。
この世界観によれば、現象世界の奥に「實相」又は実在の世界を認めるのであります。
病気がよくなったり、経済状態が好転したり、環境が良化したりするのは、現象界のことであって、それはわれわれの想念の反映なのであります。
その想念の奥に、完全円満なる實相の世界があり、又完全円満なる實相の人間があるのです。
「實相の人間」はたとい「現象の人間」が病んでいても、貧乏で苦しんでいても環境の不調和も、<「実在としてはない」>のであります。
実在の人間は完全である。そして実在のみ実在する。されば完全なる人間のみ実在する。実在は永遠に変わることはない。だから完全なる人間は永遠に変わることなく完全であると言うのであります。
そこで、結局、人間が不完全に現れるのは、現象の問題である。
それは<現象としての感覚>面に斯く見えるというにすぎないのであります。
それは「観」即ち「見る」結果である。それは原因ではないのであって、言いかえれば、それは主題ではないのであって、ただ主題の反映にすぎないのであります。
大体、肉体というものは、それから心の働きを引き抜いてしまえば、それは何らの想念も、感覚も、経験又は体験もないものであります。
それは、一個の大理石で造った人像の如きものにすぎないのであります。大理石で造った人間の像は、消化不良ということもない。風邪を引くということもない。全然病気にかかるなどということはないのであります。
凡(およ)そ病気にかかる所の「肉体」なるものは、単なる物質ではなくして、「物質」+(プラス)「精神」の働きであって、精神の働きのないものは病気にかかり様がないのであります。
「肉体」が単なる物理化学的法則に従って変化する以上の働きをもっており、いくら消耗(しょうこう)しても、あとからあとからと、一定の「人間模型」とでもいうべき形にまで栄養を補給して自然治癒又は新陳代謝して行く働きは、「精神的模型」(理念)ともいうべきものに、その「物理化学的変化」が支配され、指導されていることがあきらかであります。
即ちその「物理化学的変化」は従位であって、「精神的模型」が優位であってその物質的変化を指導するのであります。
その指導が誤られると、誤った方向に、肉体の物理化学的変化が導かれて行くために、肉体の病的状態を現すのであります。
大理石像や、セルロイドの「人間の形」をしたおもちゃが病気にならないのは、それは誤った方向にも、どの方向にも、物質の変化を導いて行く所の指導的精神がそれに宿っていないからであります。
だから心のないところの「人間像」は病気にならないのであります。病気になるものはすべて心的作用をもっているもののみであります。
植物に於いてさえも、それが病気になるのは、植物は単なる物質の結合ではなくして、その成長は或る一定の理念的模型(薔薇なら薔薇の形なる心的存在である)に導かれて行なわれるのであります。
その一定の理念的模型の導く力が弱められるか、ゆがめられるか、混乱した時に、その発育がゆがんだ混乱した状態となり、それが即ち或る植物が病気にかかったという状態なのであります。
野の鳥は病気に罹らないが、それを家畜として飼育する時には病気にかかるのであります。野獣も病気に罹らないが、人間の精神的雰囲気の中に置く時には病気に罹るのであります。
草も病気にかからないが、野菜として人間の精神的雰囲気の中(うち)に育てる時には病気にかかるのであります。それらの病気の姿は、人間の精神的雰囲気が植物に反映して形に現れたものと解釈することができるのであります。>>
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