生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第八十話> (1076) |
- 日時:2013年05月15日 (水) 13時52分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第八十話(通算第406話)
神癒と時間・空間の問題(3)
(『神癒への道』P.240−244)
<< 正統のメタフィジカル・ヒーリング(超物質的治癒)はそういう現象的に手が触れるとか、磁気的流動体がふれるとかの問題を超えたところの、宇宙の実態は「一」であるから、触れるも触れないもない、既に一つである。そしてその既に一つなるものは完全である外はないという哲学的原理を根拠として行なわれるものであります。
だからその治療は単に病気のみならず人生の凡(あら)ゆる問題に対して行なうことができるのであります。
神なる心霊的一大本源体の大海原の中に、発信兼受信装置として吾々の個々の「生命」は存在するのであります。
そして自分の心の波によって、何でも欲する所のものを発信すれば、その通りの波が起こって、自分の目ざす所の場所に、その想念と同じ形のものが現れるのであります。
人間はただ心の発信装置のキイを押すだけでその役目を終るのでありまして、それを形に現してくれるものは、大宇宙の生命の創化作用によるのであります。
要するに治療が如何に成就するかということは、大生命の力によるのでありますから吾々はただ間違いなく、正しき「想念の鍵(キー)」を押すだけでいいのであります。
無線電信の放送が、放送室で行なわれると万事は完了するがように、吾々の心の中で吾々は「善き想念」を起こしさえすれば、「想念のキイ」を押した通りの波が「法則」によって伝えられて、それで万事は完了するようなものであります。
自分が遠方にある所の相手に対して念力を集中して送念しなければならないというような事は断じてないのである。治療は今ここにおいてこの場所で「念」のキイを押すだけで行なわれ、あとは「法則」(神力の法則化)が行なってくださるのであります。
「念」を送るなどと考えてはならないのである。「念を起こす」のが吾々の役目であって、その念を伝えたり、具象化したりするのは大生命の力であり、「法則」の力なのであります。
神は霊であり、霊は時間・空間を超越している。したがってあらゆる時間、あらゆる空間に出現することが出来るのであります。
時間・空間を超越するということは、時間空間が無いということではなく、「これを握れば一点となり、これをひらけば無窮となる」底(てい)の、「無」にして「一切」、無相にして無限相を内在せしめているのであります。
丁度、朝顔の花が種子(たね)の「何処」を探しても無い、無いけれども無いのではないから、かならず朝顔の花として現れる。種子(たね)の中の「花」は霊的存在(理念的存在といってもよろしい)でありますから、寸法が無い、即ち空間を超越しているのであります。それが環境(これも波動の蓄積であります)にしたがって、直径三寸の花になったり直径七寸の大輪になったりしてあらわれます。
それと同じように、人間の本質(人間の理念)は霊的存在であって寸法がない。空間を超越しているのであります。霊なる神の無限内容の一つとしてつくられた「人間の理念」であり、「霊なる神」を媒介として一個の人間は、あらゆる他の人間とつながっているのであります。
だから一個の人間の思うことは、他の人間に<通ずる>のであります。その<通じ方>は、@マルコニーの無電式に、こちらの精神の波が先方へ通ずる式の考え方と、A「吾は一個の霊として<霊なる神>と一体であり、したがって吾が思うことは<霊なる神>が思う事であり、霊なる神が彼(病人等)を健全であると見るときは、彼は健全に顕われるほかはない」という考え方と二種類あるのです。
@の考え方でやりますと、精神力の波動の強弱が問題であって、これには思念者の精神統一力が深く影響するのであって、自力による治療法(ヒーリング)となります。Aの考え方でやりますと、人間自身の精神力は、霊なる神(宇宙精神)の働きに火をつけるためのマッチの働きをするようなものであって、働き給うのは神御自身だということになります。
だから精神統一力も何も要らぬ。キリストが「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と被仰(おっしゃ)たらいざりがたって歩いたと同じようなことが起こるのであります。
去年夏、北海道の名寄(なよろ)で講習会がありましたときに、北海道の最北端、稚内(わっかない)から来られた鋤柄(すきがら)初造さんといわれる珍しい名前の七十八歳の老人が嘗て旭川で生長の家講習会があった時に起こった実例を話されたが、
それは一人の婦人がわたしの演壇の前でその硬直して動かない脚をのばして講義をきいていたら、聴講生の一人が、その脚をのばしている婦人を病人だと思わず「先生の前でそんな失礼な無作法に脚をのばしている奴があるか」と怒鳴ったら、その婦人は間もなく続いて行なわれた神想観中に真直ぐに座って、「座れた」と言って泣き出したという話があります。(清超君の北海道巡錫記「名寄の項」参照)
神想観中には、私はただ、各自の内に神の生命流れ入って光明燦然と輝いている人間のみを「<観る>」のであります。たまたまその婦人の「癒されたい」願い、否すでに「癒されている」という信念と私の「観」とが一致してその婦人の脚は硬直がとけて座れたのであります。
その鋤柄(すきがら)さんはまたこんなお話をされた、名寄の婦人部講師・坂本登紀子さんが稚内に来て誌友会がひらかれた。その記念写真をとろうとするとき二階堂という人が脊椎カリエスで杖をつき背中を曲げてやって来て、治して貰いたいと頼んだ。
すると、坂本登紀子さんは「あんた家内と仲が悪いね、神の子に病気はない。家内よ仲が悪いその姿があらわれているに過ぎない。さあ家内と仲好くする決心をしなさい。そうすればもう病気はない。杖もいらぬ。神の子に杖をついている者はない」とこんな意味のことを言ったら、写真屋を待っている間に、その脊椎カリエスが治って、二階堂さんは杖を捨てて歩いた。そして写真屋が来ると信徒一同と一緒に記念写真をとったというのであります。
これは精神波動を送ったのでも強力に思念したのでもない。坂本登紀子さんが、「人間は神の子であって健康であるほか仕方がない」と信じて二階堂さんの「健康の實相」を観たのであります。その信念が言葉の力によって相手の信念を喚起し、その信念の契合が<霊なる神>の創化作用を発動せしめて忽ち脊椎カリエスが治ったのであります。>>
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