生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第八十二話 ・ 最終回> (1120)
日時:2013年05月19日 (日) 08時31分
名前:信徒連合





生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第八十二話(通算第408話)


 
神癒と時間・空間の問題(5)

(『神癒への道』P.248−252)




 この実例でもわかる様に、メタフィジカル・ヒーリングに於いては直接治療と遠隔思念との区別はないのであります。離れているとか遠いとかの距離の問題は存在しないのであります。

人体の磁気的流動体を相手に伝えるという治療法に於いては、幾分物質的な或る成分を相手に流し入れるのであるから、クインビー博士がエディー夫人の髪の毛を、水で濡らした手で激しくこすり廻したように触れるとか触れないとかの問題がおこるのである。そこにエディ夫人とクインビー博士の治療原理との間に或る隔たりがあったのであり、後年その正統争いに問題をおこしたのであります。


 純粋なるメタフィジカル・ヒーリングに於いては、人間は唯想念を起こすだけで好いのであるから、そしてそれを具象化するのは大生命のはたらきであるから、それが治ると治らぬとは、想念者の責任ではないのであります。


吾々は吾々の力で病人を治すのではない。「病気はない」という念を人間におこす、すると神がその無限の創造力をもってその通りの姿を現象界に顕現して下さるのであります。


 メタフィジカル・ヒーリングの想念者は、相手に対して催眠術をかけるのでも、人体磁気を送るのでもなく、暗示を与えるものもなく又、病者にたいして「健康」の想念をつぎこむことでもないのであります。病者をみとめないのであります。

唯彼が神の子であり、すでに完全であるという實相を「観る」だけであります。

そしてその観をじっと持続するのであります。

現象にあらわすためには「持続」は問題となります。

丁度、それは写真を影すときにカメラのピント硝子に、像を映してじっと持続するように、心の世界にその相手の完全なる姿をじっと描いて或る時間その観を持続するのであります。

するとその観の模型通りに神なる宇宙の創価作用がそこにその形を実現してくるということになるのであります。

かくて「時間」はあらわすための手続きとしては必要であるが現象以前に於いては、念じた瞬間に既に念じた通りになるというのが本当であります。

だからメタフィジカル・ヒーリングは「治療法」などという名称は適当しないのであります。

それはただ「観」であって、「方法」ではないのである。

もし「方法」という文字を使い得るならば、それは「観」は如何なる方法によってなすべきかという「観」のやり方にすぎないのであります。



 次には人の問題に入る。メタフィジカル・ヒーリングをなし得る人は別に特別の霊能者でなければ出来ないというものではないのであります。

ピアノのキイを押せば、法則が空気を振動させて必ず押したキイ相応の音が出る。しかもキイを押すのは一瞬の間に誰でも出来るというようなものであります。誰でも、神の造りたまえるこの世界を完全と観、神のつくりたまえる人間を完全と観ることのできる人なら誰でも出来るのが、このメタフィジカル・ヒーリングであります。

もしそれに修行というようなものが要るとするならば、それは「実在の世界は完全のほかはない」ということを書いた真理の書を度々読んで、その道理を心の底深く知り、毎日五官の世界に目を閉じて、實相の世界に目を開き、完全なる實相の世界を観、完全なる實相の人間を観る練習をして、心が散乱して完全不完全交々(こもごも)の姿を心の中で交代に観る様なイライラした精神不統一状態から脱却しさえすればいいのであります。

そのために諸君に勧めたいのはフェンウィック・ホルムス博士のメンタル・サイエンスを噛みくだいて書いた『人生は心で支配せよ』という本であります。博士のブラザー、アーネスト・ホルムス博士の教うるメタフィジカル・ヒーリングの想念者が、そのヒーリング治療に使う所の順序は次の如きものであって、大体、フェンウィック・ホルムス博士の思念の順序と大差なきものであります。――


(1) まず自分自身が霊的存在であることを思念して自覚する。


(2) 次には、患者も又霊的存在にして完全なる健康を有することを心に描いて自覚する。


(3)次に、「病気あり」という観念のまちがいであるということを弁駁(べんばく)する思念をおこなって、ただ人間は完全なる神の子であるという真理を思念で強調する。


(4)やがて、すでにその人が斯く自分が彼を観たる通りの完全さになってしまっていることを実際的に深き感銘をもって感ずる。


(5)そして感謝する。


 以上でそのヒーリングの思念は終るのであります。吾々が思念に先立って、招神歌(かみよびうた)を言葉にだして、又は心の中で念じて神に祈りをささげるということは、「吾が業は吾がなすに非ず」という信念を自分自身に喚起して自分の「我」の力で想念するのではない。吾に宿る神が想念したまうのであるという深き信念に到達せしめ、その想念の力をゆるぎなき強力なるものとするに効果があるのであります。

神は祈りによって左右されるようなそんな偏頗(へんぱ)な感情的存在ではないのであります。だから祈りは神に哀願泣訴するために必要なのではありません。

祈りが必要なのは、自分自身の心の波を神の心の波に一致したる所の心境にならしめるために必要なんであります。即ち祈りは自分自身の信念を動かして尚一そう強固たらしむるものであり、その信念の通りに与えられるのであります。  (「理性篇」・完)




<理性篇> あとがき


合掌、ありがとうございます。
「今昔物語」の本編は、この<理性篇>で以って終了いたします。

開祖・谷口雅春先生も言われておりました如く、「生長の家」の信仰と云うものは、普通の単なる一人の教祖が始めた新興宗教の一つと云うレベルのものではないのであります。また、社会評論家・大宅壮一氏の評にあるような“宗教の百貨店”といった類のものでもないのであります。

 唯物論が極点に達して最後には一大自壊作用が起こり、地球上から人類の霊魂の霊界への総引き揚げ(地球上からの人類の滅亡)の前に、サムシング・グレートの大愛と経綸によって、住吉大神さまが肉体人間として化身せられて地球人類の霊魂進化(實相顕現)のために、個人及び国家の實相顕現の為の最高の絶対的真理を説かれた。それが開祖・谷口雅春先生でありました。

随って、その説かれた真理は、身近な日常生活の病・悩・苦の問題解決から、家庭・企業・国家経営、そして学問的にも物質科学・精神科学のあらゆる分野にわたり、哲学分野に於いても先人の全ての哲学者を遥かに凌駕した最高レベルの「唯神實相・生命の實相哲学」を説かれたのであります。

 併し、自称・三代目を継いだ雅宣総裁は、開祖・谷口雅春先生の偉大なる<全貌>がどうしても理解できずに、真理は時代によって変化する部分もあるとか、奇跡的神癒(体験談)は非科学的であるとか、霊界のことなど科学的に証明出来ないとか言って、“理性だ!理性的考察が大切だ!理性的な信仰をすべし!宗教の聖典・教典は理性を持って読むべし!理性を持たねば狂信的信仰となる!”と盛んに「理性!・理性!・理性!」と叫んでいるのであります。

 雅宣総裁のいう「理性」という言葉の意味は、「科学的合理性」、「現象の合理的知識」、「現象の冷静判断力」の事をいっているのであります。

今だに彼は、霊的価値観については無知であって、霊的に深く掘り下げて考える思考力・思索力が開発されていない霊魂レベルなのであります。

だから彼には、<本当の「理性」とは、「神の叡智」そのもの>である事が判っていないのであります。だから、開祖・谷口雅春先生の説かれた『御教え』は理性的ではないと思っているのであります。

 
 しかし、<本当の「理性」とは、「神の叡智」そのもの>と言う事が解れば、開祖・谷口雅春先生の「唯神實相・生命の實相哲学」と云う『御教え』が、人類史上最高に「理性ある叡智」そのものであるかが解ってくるのであります。

そのことの証明として、宗教界の大学院の教えの証明として、敢えてこの「理性篇」なる独立した“篇”を最後に設けたのであります。理論的にも論理的にもこの『御教え』が針で突く一分の“隙”もないほどの完全な完璧さを持つものであるかをご理解いただいたと思います。

これに比し、三代目・雅宣君の「今の教え」が全く“隙”だらけで、精神的唯物論としての狭い殻に閉じ篭ったものであるかもご理解いただけたと思います。そのために、「マルクス哲学の唯物弁証法」、「西田哲学」、「ダーウィンの進化論」、「自間空間論」などを「唯神實相・生命の實相哲学」との対比として採りあげざるを得なかったのであります。

「今昔物語」の読者の一部の方々からは“難しすぎて面白くない!”とのコメントを頂きましたが、世の多くの人々に開祖・谷口雅春先生の「唯神實相・生命の實相哲学」のレベルの高さを知っていただくためには止むを得なかったのであります。再合掌






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