生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「初心者=雅宣(自称)総裁」はかくのごとく生長の家の『御教え』を否定した! <その36> (1142)
日時:2013年05月21日 (火) 09時26分
名前:四万十分析官



「初心者」という人物は、「トキ掲示板」において下記の如く生長の家の『御教え』を否定しているのである。「トキ掲示版」規約には「基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためのサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。」と書いてあるが、一連の「初心者」と名乗る人物は、この投稿規約に反する投稿を続け、管理人氏も未だに一回も注意を与えていない。「初心者」と「トキ掲示板」との関係は主従の関係にあり、この様なところから「初心者=雅宣(自称)総裁」と言われているのである。そして、彼、雅宣(自称)総裁としては、決して公の“総裁”としての立場では言いたくても言えない開祖・谷口雅春先生への反逆の「本音の思想」を「初心者」なる名前を使い、思う存分吐露し続けているとも考えられるのである。この意味からでも、彼のやり口は宗教家として非常に卑怯そのものであり、“総裁更迭”に十分に値するのであり、信徒はもっと声を大きくしなければならないのである。

以下、生長の家の『御教え』を否定する「初心者」なる人物の投稿を転載させていただき読者のみなさんの判断に供するものである。



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「トキ掲示板」より


2129 :初心者:2013/01/27(日) 16:08:08

捨てたのは「形ある実相世界がある」とされる教えの部分です。・・・ただしこれも、捨てたとはいえ、一時的な保留であるともいえます。・・・教えの再構築のためのよき考えを聞かせていただきたいとの思いがあることをお忘れなきように。


853 :初心者:2012/07/02(月) 16:38:48 ID:TfQ0e6RA

わたしは『生命の実相』では真理を知ることはできないと考え、教えを手放したのであります。


2113 :初心者:2013/01/27(日) 12:10:53

あたしの本物の宇宙は、ごく大雑把ではあっても、世界の成り立ちを理論的に説明できるんだけど、弱点は、具体的なことは説明できないということなのですね。たとえば国家の理念についても、その作用の仕方は説明できるんだけど、それが具体的にどういう作用なのかというと、まったく説明できないのです(たとえばリビアの理念はこうです、といった説明はできないということです)。



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<問題点>


@ 上記三つの投稿文で解ることは、「初心者」なる人物は、霊的真理の分野については完全に理解する能力に欠けているということである。その反面、小理屈や大理屈にだけは長けているといえるのである。この点に関しては雅宣(自称)総裁と全く同じであり、だから「初心者=雅宣(自称)総裁」と言われても仕方がないことであるし、実際にそうなのである。



A 「初心者」は言う。< わたしは『生命の実相』では真理を知ることはできないと考え、教えを手放したのであります。>と。『生命の實相』の教えを手放したのであれば、なぜこの様な掲示板にわざわざ出てきて難解な言葉を使って、開祖・谷口雅春先生が説かれた『御教え』を批判する必要がどこにあるのであろうか? 「初心者」=「雅宣(自称)総裁」なればこそ故である。



B 「初心者=雅宣(自称)総裁」は、< 形ある實相世界はない >と主張する。この主張は彼の立場に立てば当然であろう。なぜなれば、「初心者=雅宣(自称)総裁」は、五官の世界といわれる現象世界・肉体と物質の世界から一躍超入して(「無の関門」を透過して)實相世界(実在世界)に入り、實相覚で以ってそのありさまを実際に見た霊的体験がないからなのである。体験のないものにとっては、実際の体験を持つ人の語ることを信ずることは大変難しいことである。開祖・谷口雅春先生は御自身のこの霊的体験にもとずいて實相世界(実在世界)のありさまを説かれているのである。



C 生長の家の信徒の大部分の人も開祖・谷口雅春先生のような霊的体験は持たない。私もその一人である。しかし、開祖・谷口雅春先生の『御教え』は間違いないと、こころの奥底から直感的に信じることが出来るのである。一方において「初心者=雅宣(自称)総裁」は信じることが出来ないで反発抵抗を示すのみならず、自己の霊的無能さを棚に上げて『御教え』を否定さえもする。この差は、“個生命としての霊的進化レベル”の差であるといえる。ハッキリいえば、直感的に『御教え』の霊的真理をそのまま信じることが出来る信徒の人たちの霊的レベルよりも、「初心者=雅宣(自称)総裁」の霊的レベルの方が劣っているということなのである。この様なことを言えば、現総裁という目上の人に対して大変失礼な言い方であると云う人もいるが、現状においては敢えて言わざるを得ないのである。われわれ以上に、雅宣(自称)総裁自身が開祖・谷口雅春先生に対して非礼なことをなしているではないか?



D われわれ生長の家信徒たる者は、開祖・谷口雅春先生がお悟りになられた實相世界の様相についてシッカリと理解していなければならないのである。“具体的形相のある實相世界”なのである。

『生命の實相』第39巻・第三章「寂光を更に超えて」に於いて――

<< 私の直感し得た「実相の世界」は無色・無聴・無味・無臭・無触の世界には非ずして、無限の妙色・無限の妙香・無限の妙音・無限の妙味・無限の妙触を備えたる無限次元の世界なのであります。・・・おおよそ実在世界の風光は、いままで大抵概念的に「空」とか「寂光土」とか表現してありますので、静寂なる超越的光のみがボンヤリと満ちている空々漠々のエーテル的世界であろうと、直感なき文字だけで解釈する仏教学者は考えているかも知れませんが、実相世界(実在世界)の風光はそんなものではなく、法華経の自我偈の中にその片鱗が示されている通り、現象世界が劫尽きて大火に焼かるると見ゆる時も「わがこの土(実相世界)は安穏にして天人常に充満せり。園林諸々の堂閣、種々の宝もて荘厳せり。宝樹華果多くして衆生の遊楽する所なり、諸天天鼓をうちて常に衆の伎楽を作し、曼荼羅華を雨降らして仏および大衆に散ず」とある通り、真に具体的な浄土こそ金剛不壊の実在世界であり、この実在世界の幸福祥益は永劫に破壊しないのでありますが、「念のレンズ」を透過して現象せる世界は、刻々に無常破壊するが故に自我偈は続いて日っているのです。「我が浄土は毀れざるに而も衆は焼き尽きて,憂怖諸々の苦悩是の如く悉く充満せりと見る」と・・・生長の家の「光明一元の世界観」が多くの人々に理解され難いのは、多くの人々が「現象宇宙」と「実在宇宙」とを混淆し,「現象人間」と「実在人間」とを混同し、釈迦が「久遠常住の霊鷲山」(実在界)を説いているのに衆生は「久遠常住の霊鷲山」を見ることを得ずして「焼き尽きて憂怖諸々の苦悩悉く充満せる現象世界」を見、この世界は「苦悩悉く充満せり」と見ているのです。・・・貴方(注:倉田百三氏)の言われる通り、貴方の「寂光」と私の「光明」とは異なっています。「寂光」は光明<一元>の一歩手前の世界であり、現象界を投影する「無明のレンズ」を含んだ「現象世界の太源」であり、「光明一元の光明」とはもう一歩「無明のレンズ」を乗り越えた実在世界の光明の風光であります。ですから貴方の言われる通り、貴方の場合では「寂光の宇宙に帰一しても暗黒はあり得る」ことになり、私の場合では「光明一元の宇宙に帰入するとき」暗黒は無論なく、もう寂光さえもなく寂光では表現できない活気臨々乎たる一大光明の世界のみなのです。・・・』 >>


また、開祖・谷口雅春先生は、実相世界の特徴を七つ挙げておられます。(「限りなく日本を愛す」第6章)即ち――

(1)中心帰一の妙有世界 (2)陰陽の秩序整う世界 (3)無限創造の世界 (4)金剛不壊の世界 (5)遠心・求心調和の世界 (6)無限包容の世界 (7)円満完全至美至妙の世界 と、教えて頂いております。ここで注目すべきは「至美至妙」と言う言葉でありまして、実相世界とは空々漠々の限りなく静かなボンヤリと白夜の如き光漂う寂しい世界ではなくして、法華経如来寿量品にある如き極めて具体的な至美至妙なる活気臨々乎たる大光明・大歓喜の世界也と直感的に実相覚にて把握されたのである。


この実相世界の有様については「実相金剛身の神示」に於いて次の如く書かれているのである。

<< “本当の人間”即ち“實相人間”は『空』ではない。金剛身である、永遠不壊なる實相身である。形は無いと思うな。形はたしかにある。實相人間は肉体人間よりもまだまだ確かな至微至妙な形を有(も)つが、五官六感に触れる形ではないから、五官六感に触れる現象界の言葉では説明のしようがない、それは仮りに肉体人間の姿を一層精妙にしたような姿だと思えば好い。實相世界というのは神が創造せる唯一の実在世界であって、此の世界のみが実在であり、此の世界に住む人間が實相人間であり、至微至妙完全円満金剛不壊の實相身を備えているのである。實相世界は一つの神に創造(つく)られ一つの神の叡智によって支配せられているから、秩序整然たる相(すがた)である。實相世界を空無の世界、虚無の世界、茫漠の世界だと思うのは誤りである。・・・其処には山もあれば川もあり、植物もあれば、動物もある。・・・山の形や、川の形や植物の形や、乃至動物の形なども、仮りに現象界のそれに似ていると思えば好いが、一層精妙なのが實相世界の姿である。それは既に完成された世界であるが、完成したと言えば静止の世界の様に思うかも知れぬが、不断の創造を続けながら完成した世界である。>>


このように神示の中で「形はある」と書かれているのであるが、「初心者=雅宣(自称)総裁」はどうもわかっていない、否むしろこの考えはマチガイであると反逆の意志を表わしているのである。開祖・谷口雅春先生を否定し、無視そして勝利感を得たいと思っているとしか言いようがないのである。しかし、「初心者=雅宣(自称)総裁」は開祖・谷口雅春先生をどうしても否定も無視も出来ないことを告白している。< 弱点は、具体的なことは説明できない >と自ら兜を脱がざるを得ないのである。



E 「国家の理念」についても同じである。「初心者=雅宣(自称)総裁」は、ここでも彼独特の理屈を捏ねている。< 国家の理念の作用の仕方 > この理屈言葉を彼は平易に解説すべきである。しかし、彼には出来ない。アッサリと兜を脱いでしまっているのである。曰く、< 具体的にどういう作用なのか、私は全く説明できません。>と。しかし、この点に関しても「實相金剛身の神示」の中にハッキリと書かれているではないか? 即ち、 < 實相世界が現象世界に迷いなく映れば、現実世界も一君に統一せられ、悉くの国が大和合して一つの大日本国を顕現し、現実世界にも獅子と羊とが相戯れ、蚊も蚤も人を螫(さ)さず、幽界、霊界の諸霊悉く相和して調和しその処を得る。かくの如くなる事を指してキリストは『御心が天に成るが如く地にも成る』>> と。



F 『秘められたる神示』P.79には、< 「理念」というと、又しても一種の精神的抽象概念みたいな気がして象(かたち)を抽(ぬ)いた無形の“考え”みたいなものだと思われ易いのでありますけれども“理念”というのは、“純粋形相”そのものであります。・・・たとえば“三角”という理念は、物質の三角形だと一方の角がものに当たってくだけたり、色々腐蝕したりして変化する無常のものでありますが、そういう「物質としての無常の混入」を抽(ぬ)きにしてしまった純粋な“三角”の理念そのものは、無常ではなく永遠に変化しない金剛不壊の形相(かたち)なのであります。この金剛不壊の“純粋形相”が「理念」でありまして、人間の本物は、肉眼には不可視の(従って肉眼には無形の)存在であるけれども、金剛不壊の“純粋形相”たる“理念人間”であります。それは“純粋形相”であって相(すがた)があるからこそ、その相(すがた)を「實相」と謂い得るのであります。> と説明されているのである。「初心者=雅宣(自称)総裁」はこの辺のところをもう一度も二度もシッカリと読んでもらわなければならないのである。彼は、持ち前の傲岸不遜さからして、この様な大切な所をスッ飛ばして呼んでいるから< 形ある實相世界はない >などと全く逆のマチガイを平気で書いているのである。



G それでは、開祖・谷口雅春先生が「無の関門」を超えて實相覚でもって悟得せられたところの「日本国家の理念」(純粋形相の日本国家)とは如何なるものであろうか?――

<< <<・・・正法眼蔵・・・悟りの光の眼で見たる法体宇宙の実相はなんであるか、涅槃妙心にならなくては分らぬ・・・宇宙の微妙本体と一つになった妙なる心――絶対実在の絶対把握の妙心――を顕した時にのみ解るのだ。・・・「正法」と言い「実在」と言い「妙法」と言い「妙心」と言い、大日本国体であることを知らねばならぬ。・・・「引き寄せて結べば柴の庵なり、解くれば元の野原なりけり」・・・大日本国家はそんな因縁仮和合の国家ではないのである。若し仏教が一切の存在を「無」と見るならば、日本国家も無なのである。私は「生命の実相」<神示を受けるまで>の最後の章に示すが如き過程に於いて、既に「無」の門関を越えて釈尊の指頭にある金波羅華が象徴する「実在」の荘厳無二組織完備の大日本国家を把握したのである。・・・>>(『無門関解釈』P.71−72)


 <<・・・私が霊感を受けて、「実相は空ならず」と知ったときの光景を次に序述する・・・<生命の実相・第20巻P.135>・・・この引用文の中で注意すべきは「無いものを無いとしたところに本当にアルモノが出て来るのだ」・「有るものは唯神のみ」というところである。即ち、「空」と「実」とのけざやかな峻別であるのである。・・・一切現象が空であって、其の空々寂々の相が実相だと言うのではなく、実相は「実」であり、「本当にあるもの」であり、無限荘厳の世界である。・・・無限次元・肉眼を超ゆる世界ではあるが、現象界の無常流転不確かな世界と異って金剛不壊の世界なのである。この世界こそ「空」とか「変化すべき仮相」とか「万物流転の原理」とか言う在来の仏教が説明に使った言葉では表現し能はざるところの厳として金剛不壊の世界なのである。この世界を華厳経で「蓮華蔵世界」と称して、空とか無常とか言はず「衆宝あまねく地に敷き、金剛の厚地にして破壊すべからず」と形容されている世界なのである。“私は此の世界を直接見たのである。直接触れたのである。”絶対実在の是体認識である。その絶対実在の世界は決して無常の「空」なる世界ではなく、金剛不壊にして、「実」なる世界なのである。吾々は、第一義諦の世界と、因縁仮和合の世界とを混同してはならない。・・・蓮華蔵世界(それが日本国家である)は因縁仮和合の世界に非ずして第一義諦の世界であり、他に依って立つ世界ではなく、それ自身にして立つ世界であり、既に中心帰一せる久遠不滅の世界である。さればその悠久なること限りがない。(見よ日本国家の天壌無窮を)それは真理国家そのものにして、大日本真理国家の天降って来る事によって、現象界の本来「空」なる国家は本来の非実在を暴露して蓮華荘厳の――スメラミコトを中心として円成せる荘厳極まりなき――国家が現象界に成就するのである。ここにキリスト教式に言えば「御心の天に成れるが如く地にも成る」のである。天に成れる実相が若し「空」であって煙の如き空しき変化無常のものであるならば、「天に成れる実相」が地上に天降って来た時に現象界は煙の如く散乱して了うであろうが「天に成れる真理国家」は実在の金剛不壊の世界であるが故に、それが現象界に成就するとき、現象界が蓮華荘厳となるのである。・・・>>( 『「驀進日本の心と力」第三章・日本学的大乗仏教の確立』P。133−134)


「初心者=雅宣(自称)総裁」という人物は、開祖・谷口雅春先生のこの御文章が理会できないが故に「私は具体的には説明できません」とまことになさけないことまで言ってしまっているのである。「総裁でございます」なんていえた義理ではないのである。速やかなる“辞去”を求める所以である。



H 「初心者=雅宣(自称)総裁」は、世界各国の“国家理念”に関しては具体的には分からないと情けないことを言っているが、これも『生命の實相』をシッカリ読んでいれば説明できるはずなのである。實相世界は至美至妙なる美しさ極まれる無限の完成(大調和)の無限進行(生長)の世界である。たとえて申せば、総天然色、全山紅葉、錦絵の如き世界である。一本一本の樹木を各民族国家とするならば、その民族国家はそれぞれの国家理念を持ちながら無限の霊的進化(實相顕現)の階梯を昇り行きつつあるのである。それぞれの民族の国家理念は如何なるものであるかは、各民族がそれぞれ悟らなければならない問題である。各民族国家の叡智ある覚者が語らなければならないのである。われわれ日本人がとやかく言うのはマチガイであり越権行為である。われわれ日本民族の日本国家理念は、開祖・谷口雅春先生によって教えられているのである。この国家理念を全日本国民に知らしめて行くのが「生長の家」の重要な使命の一つなのである。



I この重要な「生長の家」の使命を果たすことの出来ぬ者は、「生長の家」総裁たる資格はないのである。雅宣(自称)総裁にはこの資格が無いことを、彼自身が「初心者」なる名前で告白しているのである。速やかなる総裁交代を求めるものである。「初心者=雅宣氏」は生長の家信徒の皆さんから此処に於いて追放されたのである。莫大な金額の個人預金もスイス銀行?に持っているであろうから生活には困らないはずである。「生長の家」から出て行って自由に生きられよ! そのことについてはわれわれ信徒は何もとやかく言うものではないのである。






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