生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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<特集> 世界に冠たる「生命の實相哲学」――マサノブ(自称)総裁はこれを捨てた!(第二回) (1279) |
- 日時:2013年06月06日 (木) 07時47分
名前:信徒連合
合掌、ありがとうございます。 開祖・谷口雅春先生のお悟りになられた「生命の實相哲学」は世界に冠たる最高峰に位置するものであります。よって、世界中の叡智ある識者が挙って称揚し、大聖師の御昇天に際しては各界の一流の人々から御遺徳を絶賛する言葉が寄せられたのであります。
開祖・谷口雅春先生の「生命の實相哲学」は「谷口哲学」とも呼ばれ、単なる象牙の塔に籠もって思索された哲学ではなく、真剣な求道の究極の一点において「無の関門」を超えられた“お悟り”によるものであり、この「生命の實相哲学」が実に多くの世界の人たちの病悩苦を救済し、国家を救う現実的効果(實相顕現)を発揮し、人類社会の進むべき道を照射し続けたた点において世界に冠たる実践哲学として絶賛されたのであります。
しかし、肝腎の「生長の家」信徒として、この「生命の實相哲学」の内容を正確に把握している信徒の人たちはまだまだ少ないのが現状であります。その最たる人は、三代目のマサノブ(自称)総裁でありまして、彼は学者・評論家的な難解な思索に耽るだけで、開祖・谷口雅春先生のこの「生命の實相哲学」の真価がわからないのみか、捨て去ってしまったのであります。
そこで、「生長の家」の信徒として、社会の各方面での識者と対等に交わる力を養成して置くためにも開祖・谷口雅春先生の「生命の實相哲学」(「谷口哲学」)を深く深く研鑽しておく必要があります。現代の三代目の「生長の家」に於いては、肝腎のマサノブ(自称)総裁は詳細な講義なんて出来ない人ですから、私たち信徒は自主的に進んで自主研鑽する必要性があるのであります。特に、現教団のニュー講師の方々、ニュー信徒の方々はこれを機会に「生命の實相哲学」の奥殿へと是非進んで頂きたく宜しくお願い申し上げます。
この意味において、「生長の家・今昔物語」において、掲載いたしました < 第二篇・真髄中の神髄 > の部分を数回にわけて再掲載させて頂きます。 最合掌
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生長の家 「今昔物語」 第二篇 真髄中の神髄
開祖・谷口雅春先生「大悟徹底」
「生命の実相」第20巻(P.134−P.137)より開祖・谷口雅春先生の「大悟徹底」の瞬間を記録された御文章を抜粋させて頂きます。
<< ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。私はそのとき偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空」という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。
「物質はない!」とその声は言った。で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念の所現にして本来無。本来無なるが故に無より一切を生ず。
有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、「無」より百千億万を引き出してなお余る。
現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象なし。汝の肉体も無し。」
では、心は<ある>であろうかと思うと、その瞬間「心もない!」とその声は言うのだった。
今までわたしは「心」という得体の知れない悍馬があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によってわたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。
「心もなければ何も無いのか」とわたしは再び声の主にたずねた。
「実相がある!」とその声はハッキリ答えた。
「無のスガタが実相であるか、皆空が実相であるか」とわたしは尋ねた。「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五蘊が皆空であるのだ。色想受行識ことごとく空である!」。
「空と無とは異なるのではないか」とわたしはたずねた。「空と無とは異なるとは思うな。五蘊皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓く。空を無とは異なると思い「無ではない」と思うからまた「五蘊は<無いではない>」と引っかかるのだ。
「五蘊は無い」とハッキリ断ち切ったところに実相が出てくるのだ。<無い>ものを<無い>としたところに本当にアルものが出てくるのだ。」
「では実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。
「実相とは神である。<ある>ものはただ<神のみ>である。神の心と神の心の顕現のみである。これが実相だ。」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。
「心も<無い>のが本当ではないか。」「<無い心>は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心仏衆生三無差別と説く場合には心も無い、仏も無い、衆生を抹殺し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに実相の神、久遠実成の仏が出てくるのだ。」
「それがキリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」「そうだ、肉体イエスを抹殺したとき、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。
イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きてくるという象徴である!今ここに久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ!久遠の今だ!今が復活だ!今をいきよ。」
わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛と満ち漲った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたがそれはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼を開くと合掌したまま座っている自分をそこに見出したのであった。
それ以来、心仏衆生三無差別の心というものが本来無いものであるということがわたしにハッキリ分かった。迷う心も無いから悟って仏になる心も無い。迷う心が進化して悟って仏になるとおもっていたのが間違いであったのである。
ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである。
浄飯王の王宮を出て伽耶城を去ること遠からず、菩提樹下に六年静思して初めて悟りをひらいて仏となったという現象の釈迦牟尼佛は本来無かったのである。
「法華経」の中で釈迦自身が「我実に成仏してよりこのかた無量無辺百千万億那由他劫である」といったその久遠の仏のみが実在であったのである。その久遠の仏が今ここに生きているのだ!
十字架上に磔けられて「神よ、神よ、なんぞ我れを捨て給や」と哀号したイエスは本来無かったのだ。永遠の神性(キリスト)――「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストのみが実在であったのだ。
自分もまた明治26年11月22日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。このままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。・・・・・>> (「生命の実相」第20巻P.134−P.137より)
<注釈コメント>
昭和時代の哲人の一人であった<紫雲荘>の橋本徹馬先生は、「奇蹟と霊感の話」という著書の中で「谷口雅春氏の体験せる霊感」と題して次の如く書かれています。
<< 生長の家の谷口雅春氏ほど、むつかしい真理――悟りの道――を分かりやすく説く人は古人にも類例を見ない。これは確りと悟りの道が分かっていて、そのうえに文筆の達人でなければ、出来ることではない。その意味において谷口氏は古今独歩の人物である。特に私が読んで感じたのは、谷口氏の「大道無門」という禅宗無門関四十八則を講義した書物である。この頃の禅僧の中にも、よく無門関の講義をする人があるが、その人々のどの講義も、禅僧ならざる谷口氏の講義に及ぶものはない。全く段違いである。さて谷口氏の数々の霊感のうち、最も御自身に印象深いのは、生命の実相第十巻「神示を受けるまで」にある左の場合だといわれるから、それをここに掲げたい。・・・・・>>
この様に、生長の家の信徒ではないが求道の道を真剣に究められた哲人と言われる人も谷口雅春先生のお悟りと講義内容を極めて高く賞賛されているのであります。
禅宗では<公案>というものが与えられ、師より「他の人のいった言葉・他の人の悟った内容・書かれている書物の文章などから、この与えられた公案の答えを出してはいけない。全くの自己生命の本然の奥底から自分自身で導き出した生命の響きを含む独自の答えを持ってきなさい。」といわれると聞いております。
谷口雅春先生は、出生以来の自己人生の幾多の辛酸を体験され、人生の深遠なる根本的問題について思索に思索を重ねられまさに百尺竿頭進一歩、毎朝参詣を続けて<日本国の隆昌と御皇室の安泰と弥栄>を祈り続けておられた兵庫県住吉村の元住吉神社の住吉大神のお導きによって機熟して大悟徹底されたのであります。
この大悟徹底の瞬間において谷口雅春先生は、正に<久遠を流るるいのち>(「生命の実相」第27巻・久遠仏性篇上巻・第7章)に自己生命で以って直接触れて一体となられ、絶対実在を絶対認識されたのであります。
この部分の御文章は生長の家の御教えの正に<真骨頂>そのものであり、何度読み返しても霊的感動・感激措く能わず、正に「生命の実相」全40巻中の最高クライマックスともいえるところであります。このところを除いて<生長の家>を語ることは出来ません。
人類史上における偉大なる宗教の開祖(教祖)の人たちは、すべてこの様な大悟徹底をされ自己生命で直接に<久遠を流るるいのち>に触れ、その時代・その時代に相応しい表現の教えを説かれて来たのであります。
逆を言えば<久遠を流るるいのち>に自己生命で以って直接触れる霊的生命的体験なき宗教指導者達が説かれる教えの内容は、すべて自分の肉体頭脳知による思索から考え出された三次元現象世界の唯物論的傾向の強い教えであるか、あるいは、低級霊界の自己顕示欲の強い多少の神通力を身につけたそれほど高くないレベルの霊魂の指導・憑依によってもたらされた半道徳的・半神秘的・半予言的内容の教えであるのであります。
開祖・谷口雅春先生の大悟徹底されたお悟りの内容は、端的に表現すれば「唯神実相」・「実相独在」・「現象は無にして唯心所現」であります。このお悟りを<鍵>としてこれまでの人類史上の善き宗教といわれている諸宗教を霊感に導かれながら紐解いて行かれ、その時代の夾雑物や教祖の個人的夾雑物を除いた各宗教の教えの真髄はすべて人類共通の真理を説いたものであるとして「万教帰一」を説かれたのであります。
「人間は神の最高の自己実現(人間神の子・神の子人間)」・「唯神実相・実相独在・現象は無にして唯心所現」この真理は誰がなんと言おうとも世界最高・人類史上・宇宙最高の御教えであり、生長の家信徒はすべて皆、開祖・谷口雅春先生の神啓の御教えをそのまま誤り無くその全相をこれから将来の信徒の皆様にお伝えして行かねばならないのであります。
また、私たち信徒も開祖・谷口雅春先生のごとき大悟徹底までは及ばずとも、それを目指して「生命の実相」の拝読と、神想観の毎日の継続を生長の家信仰の基礎として厳修して行かねばならないのであります。
この意味で開祖・谷口雅春先生の御教えは<久遠を流るるいのち>をその源流とする「久遠の今の教え」であります。
これに対して第三代目・谷口雅宣先生が説かれている原理主義批判に基づく「今の教え」なるものの実体は<久遠を流るるいのち>に直接触れた霊的生命的体験を持たない人の肉体頭脳知の三次元的思索によって考え出された「現象の今の教え」であることが明確に分かるのであります。「生命の実相」全40巻中の最高クライマックスのこの御文章を私たち信徒は皆、何回も何回も読み返してまいりましょう!!
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