生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
トップページへ戻る
↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓
開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その4> =生長の家は“絶対力”= (138) |
- 日時:2013年02月23日 (土) 08時57分
名前:信徒連合
開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その4>
=生長の家は“絶対力”=
『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.77〜79)
大村:
わたしの家では正月からズッと子供が二人とも病気で寝ついて未だに快くならないのです。
谷口:
大変お悪いのですか。
大村:
昨日も四十度の熱があったし、今日も三十九度からの熱があります。わたしが精神統一をしてその子供が嬉々として健康に遊んでいる光景をアリアリと思い浮かべて、その想念に精神を統一しても治らないのです。
谷口:
それで精神統一は完全にできますか。
大村:
大分慣れましたから精神はかなり統一するようです。
野田:
精神が統一しても治す力がないのは「表面の心」が統一するだけで、佛教でいう阿頼耶識――谷口先生のいわれる「習慣の心」が健康の方を向かないからでしょう。
大村:
その「阿頼耶識」「習慣の心」を健康の方へ向かせるにはどうしたらよいでしょうか。
野田:
そいつは一所懸命に練習のほかはないでしょう。一心になって精神統一の練習をする・・・。
谷口:
自分の力で一心に「集積の心」から不健康の観念を取り去ってしまおうと思っても、誰でもそうやすやすとできるものではない。できる人はいいが、できない人が多い。
できない人はやはりいっそう偉大な者の力――阿弥陀如来とかキリストとかの力で今までの「習慣の心」の中に集積している悪い観念を破壊してもらう方がよい。
じっと祈って、この病的観念を取り去り給えと念じて、“頼む自分”と“頼まれる無限力”とが一体になって精神統一をする。今まで自力で遮二無二(しゃにむに)精神統一したのが、無限の力を祈り出して、その無限力と一体(ひとつ)になって病的観念を取り去るようにせられると効果が多いと思いますね。
大村:
野田さんのは徹底自力主義で、谷口先生のは自力もあれば他力もあるんですね。
篠原:
自力と他力とはどうしても両方揃わなくてはならないでしょう。
谷口:
そうです。生長の家では、自力とか他力とか別けて言わない。自分というものが本来ないのだから、自と他と渾然合して絶対力ということになっているのです。
野田さんの言われるのも、自力を徹底してゆくことによって他力を喚(よ)び起こすと言われるのでしょう。あるいはまた自己と仏性とは一体であるから、自己の念力は無限力の仏性と一体であるという自覚によって、その自力の精神統一も他力に一致し、ここに無限の創造力を発揮すると言われるのでありましょう。
もし言葉に捉われて自力と他力とを別けるならば、他力に縋(すが)って祈るということも自力ということが全然ないのではない。南無阿弥陀仏と名号を唱えさえすればよいと言っても、名号をとなえる口を動かす力は自力である。自分につかまっておればあとは自分が泳いで彼岸にわたしてあげると言っても、その泳いで渡してくれる人に“つかまっている力”は自力である。
自力と他力とは相伴なうもので鐘と撞木(しゅもく)のようなものである。撞木で打つので鐘がなる。鐘一人でも鳴らず、撞木一人でも鳴らぬ。二つ合して自他がなくなり絶対力が出てくる。それで自分で精神統一をしても撞木の一人ダンスで、「全体の力」を打ち鳴らすことができぬような感じのする人――自力の感が起こって宇宙無限の力と一つになって精神統一ができるような強い自覚が起こらないような人は、やはり何か神仏を対象に置いて祈ることによって、宇宙無限の力を自分の欲する方向へ誘導するようにする方が適当でしょう。
「生長の家」では“すでに”われらは全てを与えられているという。それだのに招神歌(かみよびうた)に「幸(さきは)えたまえ」とか「護り給え」という詞(ことば)があるのを変だという人がある。これは自力の感じが強くして絶対力の自覚を換(よ)び起こしにくい人に、絶対者に護られている感じを導き出すためです。
-
|
|