生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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 検証: 雅宣総裁・新刊「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」<第5回(最終)> (139)
日時:2013年02月23日 (土) 09時10分
名前:信徒連合




検証: 


雅宣総裁・新刊「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」


<第5回(最終)>



 
第二部 人々の質問に答えて ――その2――(P.217〜267)



[ 1 ] <その他の質問に対する回答>

@ 「業の流転」とはどのようなものか ( 評価 △ )
A 肉食を減らす運動 ( 評価 ○ )
B 「罪なし」の教えと裁判員制度 (  評価 ○&× )
C 離婚した場合の信仰生活 ( 評価 △ )
D 凶悪事件は増加しているか ( 評価 × )
E 環境保護は實相顕現の運動( 評価 × )



[ U ] 雅宣総裁回答最大の“したたかさ”

前回指摘させて頂いた如く雅宣総裁の回答の特徴は、高座からの回答としては宗教家として大変立派な説教をするのであるが、彼の説教の特徴は“自ら実践していない”、いや寧ろ“実践”なんて独裁的権力者には無縁のもので、実践するのは下々(しもじも)の下流に位置する者である、と認識していることである。これは、神性隠蔽の極みである“驕慢”の極である。今回の総裁講習会での30個の質疑応答の中で、<怒りを表現するのは正しいことか?>と<「カルト的信仰」の危険>の二大言行不一致のことに加えて、この<「罪なし」の教え>に関する雅宣総裁の“言行不一致”はその程度において最高最大のものである。


■ 上記質疑項目 B 「罪なし」の教えと裁判員制度 ( 評価 ○&× )の中で雅宣総裁は、次の如く信徒に説教する。曰く――

<< 現象世界における行為については、現象世界において後始末をする必要がある。・・・「罪」ということばは、宗教的な意味と、刑法などの法律上の意味とは違います。・・・法則というものは結局は無視できないのです。・・・現象的に本当に罪を犯しているのであれば、すでに「原因」が作られているのですから、「因果の法則」が働くことになる。・・・「因果の法則」は個人の「生」を越えて働きますから、次の生まれ変りの人生において、結果を刈り取ることになる。その場合、罪を免れた人は、いい気になって罪を繰り返すことが多いのです。これに比べ、今生において罪を償うならば反省や更生の機会もある。来世において罪を償うよりも、よっぽど軽い場合が多い。悪因を積みかさねていったら、悪果は次第に激しいものになる。だから、罪を犯した人は、むしろ早い時期に償いをして悪果を刈り取ってしまった方がいいのです。・・・現象的に間違ったことをした人には、「あなたは間違った」ということをはっきり認めさせて、償いをさせるほうがいいと思います。・・・>>(新刊P.242〜244)

然らば雅宣総裁に問う!

貴殿は、上記回答において5つのことをハッキリと認めているのである。すなわち、

@ 「罪」ということばは、宗教的な意味と、刑法などの法律上の意味とは違います。つまり、「罪」にも「法律上の罪」と法律的には罰せられない「宗教上の罪」があるのだと云うこと。

A 現象世界における行為については、現象世界において後始末をする必要がある。

B 今世で「因果の法則」の結果を刈り取らない時は、次の生まれ変りの人生において、結果を刈り取ることになる。

C 悪因を積みかさねていったら、悪果は次第に激しいものになる。だから、罪を犯した人は、むしろ早い時期に償いをして悪果を刈り取ってしまった方がいいのです。

D 現象的に間違ったことをした人には、「あなたは間違った」ということをはっきり認めさせて、償いをさせるほうがいい。


次に、その一つ一つについて検討を加えることにする。

@について

法律的には罰せられない「宗教上の罪」、これを以下“法罪”と簡単に呼ぶことにする。雅宣総裁!貴殿は次のような各種の「法罪」を現在犯しているのである。


イ. 「教祖反逆罪」――雅宣総裁は、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹部分を自己の左翼唯物論という戦後教育の価値観で解釈し、愛国心を戦争に繋がるものとして放棄し、日本国家・日本民族という国家・民族意識は戦争や領土紛争の原因だとして、開祖・谷口雅春先生の生命的国家論、憲法論、古事記解釈を否定して絶版とした、更に、生長の家は戦争の時代とともに大きくなったとしてすべての「教団史」(「明窓浄机」全6巻と「三十年史」・「四十年史」・「五十年史」)をこれまた絶版として、信徒に読ませないようにしたのである。

そして、開祖・谷口雅春先生の肝いりでつくられた「新教育者連盟」への資金援助を一方的に断ち切ったのである。また、立教の精神である、人類の病悩苦からの解放という「人類光明化運動」を、たとえ解決されたとしても、肝心の地球環境が悪化して人間の住めない星にならないように、「温暖化防止運動」を生長の家活動の最大方針に転換した。

そして「日本國實相顕現運動」を 「国家と民族を超えた世界平和運動」へ、総本山の「鎮護国家・住吉本宮」を「世界平和・住吉本宮」とすべて開祖・谷口雅春先生の御遺志を否定して、正反対の左翼団体と同じ方向へと信徒を引っ張って行っている。これは「教祖反逆」そのもの以外の何ものでもないのである。


ロ. 「不正看板使用罪」――普通、常識的には開祖の立教の主旨に“異”を唱える後継者は、別の独立した宗派を起ちあげて、出て行くのが当たり前の常識である。雅宣総裁の場合は、開祖の立教の主旨を否定して「雅宣教」と云う中身に入れ替えているに拘わらず、看板だけは依然として「生長の家」の看板を堂々と使い続けているのである。これはなぜか? もしも「雅宣教」とか「地球環境の家」という名前に変えれば、ついてくる信徒は多くなく、忽ち運営資金に不足を来たし、新教団が破綻してしまうことは誰が見ても明白であるから、“金の成る樹、打出の小槌”としての「生長の家」と云う看板は死んでも離さずと必死になって抱きかかえているのである。この様な、悪知恵そのものの狡猾な宗教家は聞いたことはないのである。


ハ. 「信徒欺瞞罪」―― 一般信徒の皆さんの中でも根本聖典『生命の實相』全巻読破している人はそんなに多くはない。増してや、精読・熟読を繰り返している信徒さんは非常に少ないのではないか? 昔は、講師試験の受験資格の第一は、『生命の實相』の全巻読破が必須条件であったが、雅宣総裁の時代になってからは『生命の實相』を全巻読破していない講師が多くなっていると聞いている。そして、最近では、総裁講習会や練成会でも『生命の實相』はテキストから外され、雅宣総裁の著書と「大自然讃歌」や「観世音菩薩讃歌」がメインとなってしまった。

従って、雅宣総裁の個人的思想が『生長の家』開祖・谷口雅春先生の『御教え』と誤解する信徒さんが次第に多くなって行く。『生長の家』という包装紙でくるんであるが、中身は全く違う「雅宣教」というべき偽物が売られているのである。大勢の信徒さんや本部講師・地方講師も「雅宣教」の正体を見抜く力がないのである。講師の中には「雅宣教」は偽物と見抜いている人がいてもそれを言うと講師資格を剥奪されるので「全くの貝」(イエスマン・茶坊主)に成り下がってしまっているのである。今の教団に残っている講師の中には度胸の据わった本当の勇気ある人物は一人もいない! 雅宣総裁は、実に巧妙に純真な信徒たちを騙しているのである。


ニ. 「宗教的横領罪」――開祖・谷口雅春先生が戦後いち早く「生長の家社会事業団」を創られて戦後日本の救済を目指され、その維持運営の基礎財産として『生命の實相』の著作権を譲渡されたことは文書として残っているのである。従って、『生命の實相』の印税は「生長の家社会事業団」に渡すべきであるのに、雅宣総裁は故意にその支払いを長期に亘りストップした。その額は3000万円近くになっており、その大部分は時効になった。得をしたのは雅宣総裁。しかし、宗教的考えれば、支払うべきものは支払わねばならぬ。宗教的には“時効”はないからである。雅宣総裁が、法律上の時効を盾にとって支払わないならば、最初からの悪辣な“時効”を狙っての「宗教的横領罪」である。雅宣総裁はまた、自己の著作は「日本教文社」ではなく「生長の家」から直接発行するようにしてきている。このようにすれば、著者としての印税収入を多く出来るのである。雅宣総裁は、この様な事情を知る人たちの間では“お金大好き人間”と噂されて久しいのである。自宅を教団に買い取らせ現金化し、家賃払いに切り替えているとも聞く。莫大な年収のある雅宣総裁にしてみれば、少し高い目の家賃支払い等は軽いもの。実に巧妙に緻密に考えて老後の資産作りに抜け目が無いといえるのである。すべて合法的で法律上の罪にはならないが、「宗教的横領罪」であるのではないのか?


このように、雅宣総裁は数々の「宗教的罪」を犯しているわけであるが、かれの説教にあるところの


<< A 現象世界における行為については、現象世界において後始末をする必要がある。

B 今世で「因果の法則」の結果を刈り取らない時は、次の生まれ変りの人生において、結果を刈り取ることになる。C 悪因を積みかさねていったら、悪果は次第に激しいものになる。だから、罪を犯した人は、むしろ早い時期に償いをして悪果を刈り取ってしまった方がいいのです。>>


この説教内容から考えると、雅宣総裁自身は自分自身の「法罪」をどのように考えているのであるか? 彼は、自分の犯している「法罪」は罪にあらずと考えているのである。しかし、彼の<法罪は「罪に非ず」>と云う考えは常識的に考えてもおかしいのである。なぜならば、彼は「因果の法則」の存在を明確にみとめているからである。雅宣総裁自身が、いくら<「法罪」は罪に非ず>と主張すれども、逆立ちしても雅宣総裁は「因果の法則」の圏外に出ることは出来ないのである。彼の犯す「法罪」は法律上の罪ではないけれども、法律上の罪と同じく、今世でその罪を償わなければ、来世でその結果を刈り取らねばならないのである。だから、今スグにでも雅宣総裁は、彼の数々の現に犯しつつある重き「法罪」を認めた姿を見せなければならないのである。そして「悪果」の刈り取りを自ら進んでスグにでも実行しなければ、このままで行けば、Cで彼自身が認めているように<悪因を積みかさねていったら、悪果は次第に激しいものになる>のである。




[ V ] 見当違いの回答


■ 上記質疑項目 D 凶悪事件は増加しているか ( 評価 × ) の中で雅宣総裁は、次の如く信徒に説教する。曰く――

<< 警察庁がまとめている『犯罪白書』という出版物があります。・・・犯罪はこのところ毎年、減っているのです。実際には、平成十四年をピークに毎年減り続けているのです。私は一時、その話をしつこいほどこの生長の家講習会でやっていたので、最近はもうやらないことにしたんです。・・・マスメディアの「異常なものに注目し大きく報道する」性向が、私たちの判断をゆがめ、ひいては社会のイメージを歪めている・・・社会全体が“悪いもの探し”に熱心・・・社会の悪いクセがずっと続いて治らない状態を「悪業」と言いますね。その一種だと思います。・・・生長の家は「光明思想」であり・・・マイナスの方には注目しないのです・・・>>


然らば、雅宣総裁に問う!


@ 貴殿は、この三十七歳の男性信徒の質問に対して、見当違いの回答をなしているのである。

どこが検討違いかといえば、この質問者が問うている主眼点は<子供が親を殺す、親が子を殺すなど今までの常識では考えられない事件の原因はどこにあるのか?>を質問しているのである。雅宣総裁はこの主眼点には注意を向けないで<オカシナ事件が多過ぎる>という“多過ぎる”だけに集中して、「警察庁の犯罪統計によれば、凶悪事件は毎年減少している。ただ、マスコミ報道によって皆が錯覚に陥っているに過ぎない」、このことを以て回答とし、質問者の答えて欲しい事には触れていないのである。

雅宣総裁は、基本的には左翼唯物論者であるから、<子供が親を殺す、親が子を殺すなど今までの常識では考えられない事件の根因>が、「教育勅語」を廃し、「核家族の増加に伴なって先祖→両親→子供と続く家系の霊的系譜の重要性を忘れ、従って先祖供養の重要性を認識しない家庭が増大した事」、この様な精神的霊的原因まで掘り下げての理解が雅宣総裁自身に欠けているのではないのか? 生長の家総裁と名乗るからには、」常に霊的な根因に触れた回答をしなければならないのではないのか? 「因果の法則」を説教しながら、それは言葉だけの知識としてだけであり、本当のところは雅宣総裁は霊的なことは理解できていないのである。


A 雅宣総裁の<社会全体が“悪いもの探し”に熱心・・・社会の悪いクセがずっと続いて治らない状態を「悪業」と言いますね。・・・生長の家は「光明思想」であり・・・マイナスの方には注目しないのです・・・>、と説教するが、開祖・谷口雅春先生の御著書の悪いところ探しに熱心なのは雅宣総裁であり、此の雅宣総裁の悪いクセがずっと続いて治らない状態が続き、「悪業」を積み重ねて行っているのが雅宣総裁自身ではないのか! “時代即応”、“宗教も時代とともに自己変革を遂げていかなければ時代から取り残される(『生命の實相』第33巻』)のところを狡猾に利用して「日時計主義」といいながら実際はマイナスの方を注目しているのは雅宣総裁、御貴殿自身ではないのか? 信徒の皆さんは段々とこのことに気付きだし、脱退者が増えてきているのではないのか?


B 古今の聖者は、「この世に悪いことが起るのは、すべて自分の責任である」と自覚した。雅宣総裁にはこの自覚がないのではないのか? 自ら“宗教家”と名乗るのであれば、「この世に一件でも凶悪事件があるのは、みな私自身の責任である」というべきで、警察庁の統計を持ち出して説明すること自体が宗教家として根本から間違っているのである。開祖・谷口雅春先生は常にそのような自覚で『御教え』の普及に努めておられたのではないのか? 雅宣総裁よ!御貴殿は生長の家総裁を自負するのであれば、国家百年の大計は教育にありと認識し、「日本精神」の復活、「教育勅語」の復活を掲げて左翼唯物論の戦後日教組教育からの脱却という教育改革を推進すべく行動すべきではないのか?


C < マスメディアの「異常なものに注目し大きく報道する」性向 >を取り上げるのであれば、マスメディアが常に言う表現、「なぜ、あの人たちだけが事件の犠牲者にならなければならなかったのか?」をも正していかなければならないのではないのか? “人間の運命の別れ道(決定岐路)”に関して、及び、“悪運を避ける方法”を、「三界唯心所現・因縁果の法則・同類親和の法則」から説明するべきである。一般評論家と同じ回答などしていては宗教家とはいえないのではないのか?




[ W ] 雅宣総裁の「脱・原発論」に関して


@ < 原子力発電は,原子炉でウランが核分裂する熱を利用し,水を沸かして蒸気に変え、その蒸気の力でタービンを回して同軸でつながっている発電機を回して発電する >のであるが、この発電方式自体を“真理”の面から見るとどうなるか? 雅宣総裁はこれについては説明が無い。一般評論家なら説明しなくても良いかもしれない。しかし、宗教家を自称している以上は説明責任があるのである。

私見ではあるが述べさせて頂くと、“ウランの核分裂”と云う事はウランと云う元素の中心である「原子核」の破壊である。“中心破壊思想”である。この中心破壊と云う考え方は真理から見ると間違った考え方であり、その報いは当然受けなければならない。人体にとって非常に危険な放射線被曝であり、放射能の高い燃料棒の廃棄処理の問題である。だから、核分裂方式による原子力発電は「真理」から見ると好ましい方式ではない、理由は“中心破壊思想”に基づくものだからである。

雅宣総裁はこの様な説明をせず「放射能災害をもたらす原発は人類社会にとっては危険極まりない代物(しろもの)だから、これを使用し続けることは「悪業を積んでいる」と云っているだけである。「“中心破壊思想”に基づくもの」とまでの考察がないのである。


A この度の新刊書で雅宣総裁は、P.223に於いて< 「原発は悪業なり」という事に同意できれば、すぐに止めたらいい >と即座の原発廃止を主張している。彼は即座の原発廃止を主張するがこれは無責任である。原発の即時廃止を実施した場合の電力不足(特に産業用の電力不足)をどう補うか、代替電力確保の具体的方法には言及していないのである。アメリカは日本独自の戦闘機開発を絶対に許さない。日本人の優秀性と脅威を十分承知しているからである。

それと同じく、日本人の優秀さを以ってすれば、10年もあれば原発に代わる新発電方式の開発と実用化は可能である。実に多くの優秀な技術がアメリカの圧力(実際はアメリカ政府の背後にある超国際的財閥機構の意向)によって陽の目を見ずに葬り去られているかということまでは雅宣総裁の考えは及んでいない。また、原発に代わる新発電方式開発の資金には、共産中国の言いなりになっているODA資金や遺棄化学兵器処理資金を当てるべきとの発言も彼は為さないのである。さらに、即座の原発廃止は、火力発電の増強につながり、大量の温室ガス発生と温暖化の促進の問題が生ずるのにこれの解決には触れずじまいである。


B 日本の原発が殆んど止った今年の夏の予想された電力不足は、国民の節電努力で乗り切ったのである。如何に電力使用の無駄使いがあったかが分かったのである。今までは「消費は美徳」であったが、これからは、資源を有効に使う(感謝して使う)という社会的価値観を広めることへの宗教家としての言及が彼の文中には見当たらない。いつもと代わらぬ宗教学者的な一般評論文である。




[ X ] 「地球環境保護運動」に全力を注がない雅宣総裁!

雅宣総裁は、この度の新刊書P.263に於いて、<<「實相」は完全であるけれども、われわれは目に見える不完全な「現象世界」を心によってつくるのです。その世界は、人間の心の表現としての世界です。そこでは、地球環境も自然現象も千変万化します。人間の肉体も、この「現象」において現れているから、心や環境の変化に応じて千変万化する。そういう「現象世界」を、我々は「實相」の完全円満さを表現する場としてあたえられているのです。・・・環境問題とは、人間の心の反映(表現)である現象の一つです。人類が化石燃料を燃やし続けていて、その量が多すぎるという問題です。・・・>>

雅宣総裁は、このように述べているが、我々信徒は雅宣戦略に嵌(は)められてはいけない。上記の「環境問題」の解説内容は間違ってはいないけれども、「木を見て森を見ず」という事になってはいけないのである。

@ 環境問題は確かに重要な問題ではある。だから、世界各国は現代政治の重要事項として取り入れてその対策を実施しているのである。だからといって、「生長の家」が、人々の病悩苦からの解放や天皇国日本の實相顕現を差し置いてまで第一位の運動として取り組まねばならない事であるとは、信徒の誰も思っていないのである。「地球環境改善保護運動」はあくまでも雅宣総裁個人の人生目標であり、一人では出来ないので生長の家教団の人と資金を使って進めているに過ぎないのである。


A 雅宣総裁は言う。人類社会から病悩苦を解消し、理想的な真理国家作りが出来たとしても、肝心の地球が人の住めない星になったらどうするのか? 現在の人類の課題の第一順位は「地球環境保護改善」であると言う。だが、現実問題としては地球が人の住めない星になるずっと前に、日本国家が無くなる可能性の方が先に存在するのである。現に、江沢民(元)共産中国主席が「20年後には日本という国は世界地図から消えている」といったではないか? 共産中国は真剣に日本を属領化しようとの戦略を現在進めている。その一つが尖閣諸島奪取戦略である。まさに雅宣総裁は能天気な人間なのである。


B 雅宣総裁が“自然との共生”の実践として、八ヶ岳への本部移転を150億円の信徒浄財を使って進めているが、何故、総本山の自然の中へ移転しないのか? そうすれば信徒の莫大な浄財をもっと有益な事、たとえば日本国家の将来のための人財育成を目指し、生命の實相哲学を教育方針とする「生長の家綜合学園」の建設に投資すべきである。それを為さない理由は、独裁権力者の常として、自己顕示のために大きな記念物を作りたい欲望にかられているからであり、雅宣総裁は特に彼の幼少時の開祖・谷口雅春先生に対する精神的トラウマがあるためで、開祖・谷口雅春先生の名前を消し、見返して凌駕して行きたい人一倍強い衝動に駆られているのである。


C 雅宣総裁は決して「地球環境問題」に全力を注いでいるのではないのである。本当に真剣に全力を注いでいるのであれば、CO2=ゼロを率先垂範すべきであるのに、「今日は木曜日で休日、山梨県の別荘まで自動車を運転して化石燃料を燃やして大量のCO2を撒き散らせて妻と二人で・・・」との行動はオカシイではないか? 他の「環境改善保護団体」を束ねてリーダーシップを取る訳でもなく、増してやCO2排出大国の共産中国へ出かけて行き、首脳者にCO2削減運動を要請するわけでもなく、生長の家教団の中での「井の中の蛙」的な環境問題への取り組みでしかない。全力投入の真剣さは微塵も見られないのである。


D 現教団が信徒の莫大な浄財を投入して進めている「地球環境保護運動」であるCO2=ゼロ運動は地球規模で見れば大海の一滴すらの効果もないのである。全く金持ちのボンボンの個人的趣味の活動でしかないのである。信徒たちの僅かな年金やパート収入から奉納されている浄財の使い道を雅宣総裁は完全に間違えているのであるが、セレブ育ちの総裁夫婦は、自分たちは時代の先頭に立って“善事”をなしていると思っていることであろう。「売り家と唐様で書く三代目」が現実となりつつあるのに・・・「森のオフィス」に関しての信徒の皆さんの「理性」ある判断とその表明が求められているのである。 




[ Y ] 新刊書「生長の家ってどんな教え?」から意識して削除された重要な質疑応答


雅宣総裁は、「質問は午前中の講話に関してのみ」という制限を課しているが、実は各種いろいろな質問が出されていたのである。その中から明らかに間違った回答だった重要なものを次に掲げる。


@ <迷いはどこから?>

雅宣総裁の回答 : 「迷いとは、選択や判断を決めかねることを言う。従って、迷いは自由から来るのである。さらに詳しく言えば、欲望追求のために自由を行使せんとするところから来るのです。」

『御教え』による正しい解答 : 「無明(迷い)は、あらざるものをありと想像するのが迷いである。真相を知らざるを迷いという。転倒妄想を迷いという。迷いは本来ないわけでありますから、何処からも来ないのであります。」


A < 地震は自然現象のひとつ? >

雅宣総裁の回答 : 「日本列島では地震が起こるのは、地質学上では当たり前で自然なことである。それなのに「起こらない」と考えている人間が「災い」と呼ぶ。地震は来ないと考えて耐震設計をしない事は「人災」で、地震に遭う場所へ危険を承知で行くのも「人災」を求めて行くのである。」

『御教え』による正しい解答 : 「すべての事件は、物質の世界に現れてくる以前に“念の世界”で出来上がる。 多くの人々の“念の総合的力”で強く決まってしまった事件・災難は、我々がその反対の思念をしても、その事件を起こらなくならせる事は出来ないが、その災難に引きつけられない健全な信念を持っていれば、<類でないものは、反発する>という心の法則によってその災難の渦(うず)の外へ放り出されるのです。」


B < 霊と霊界について >

雅宣総裁の回答 : 「生長の家では、霊界については、分からないことになっております。霊と霊界のことは死んでから考えてください。流産児供養は小児麻痺の一部の対策とはなっても、100%すべての場合に有効ではありません。 “憑依現象”とは、神経症の一種(統合失調症)で、自分の声が他人の声に聞こえるのです。」

『御教え』による正しい解答 : 「開祖・谷口雅春先生は、霊や霊界に関する御著書に於いて非常に詳しく説かれております。私達が、地上で生活している間に、出来るだけ正確な霊知識を知っておく事は、一人一人の人間に一層大きな生命に関する視野が開ける。旅行先について前もってよく知っておれば、旅行先で大変都合がよいのと同じこと。地上生活の意義をはっきりさせて、生活に刺激を与えて正道を歩めるのです。

人間の運命の一半は、霊界との連関に於いて定まるのであって、本人の自由意志のみで定まるのではない。霊界の秘密を知らずして人間の運命を予知することは出来ない。人類の運命は、高級霊の愛深き指導によって間断なく修正されつつある。霊界が存在するこの崇高な事実、高級霊からの通信には人間の究極の真理が述べられ、それがそのまま、現実生活の法則に生きてくる驚くべき事実があります。この事実の認識があってはじめて充実した人生と言えるのです。霊界には、悟らずに苦しんでいる「迷霊」が多数にあり、祖先の霊魂の中にもその様な悟っていない霊魂があるかも知れないのである。従って、そのような霊魂を悟らしめて霊界における祖先の霊魂の苦痛を解脱せしめてあげる事は、子孫たるものの当然行わなければならない義務であり、それによって祖先と子孫とは霊的に繋がって一体であると言う原理により、子孫が健康になったり運命が好転する。

多くの人々は、霊界と現実界との関係を知らないのである。原因があれば、必ず結果を生ずる。これが宇宙の大法である。現世に結果が出てこなくても霊界で総決算が行われる。つまり、輪廻転生(過去世・現世・未来世)を通してみると、宇宙の大法としての因果律(原因結果の法則)は厳然として働いているのであります。」




C <「国」という言葉の正しい使い方 >

雅宣総裁の回答 : 「 日常語として定着した感がある<国の責任は・・>・<国としては・・>・<国の見解は>・・・といった表現は、真の愛国心の育成を妨げ国家と国民の利害的対立意識を煽る表現であり、正しくは<政府・省庁>と表現すべきある、との質問(疑問)でありますが、今の世の中の一般の人々は、政府=国と理解しており、この考え方は広く行き渡っている一般的な考え方であります。辞書にもそのように書いてあります。従って殊更に目くじらを立てる必要はありません。」

『御教え』による正しい解答 : 「日本国家とは、単に領土の上に国民の集った集団ではない。“引き寄せて結べば柴の庵なり、解くれば元の薪なりけり”という唯物論的国家ではない。国家は生命体である。有機的生命体は必ずその単位要素を結合するのに<理念的存在>が先行優先する。生命体である国家も国家形成の単位要素たる国民(国民個人)に先行してその国それぞれの特徴ある国家理念が存在し、その国家理念によって国民が統合せられてそれぞれの特徴ある国家形態が成立する。

そして、国家の生命と国民の生命とは不可分にして一体である。この自覚から正しい愛国心が涵養される。従って、<国の責任・国家の国民に対する損害賠償責任>等の<国>という言葉の使い方は、知らず識らずに国民の無意識の意識層(潜在意識)の奥深くに、国家と国民とは利害関係においては本来、対立的関係にあるものだとの観念が蓄積されてゆき、国家の生命と国民の生命とは自他一体であるという正しい愛国心など決して育つものではない。現代常識語の「国」という言葉の使い方は慎重に使うべきで、マスコミの責任は重大である。」


以上のような質疑と回答を雅宣総裁は意識的に省いてしまっている。だから、彼の新刊書は「今の教え」という篩(ふるい)に掛けられたものであるから、本来の『御教え』から見れば非常に片寄った内容の生長の家の紹介となってしまっているのである。




[ Z ]  総括 : 雅宣総裁は如何にして自己の犯した数々の「法罪」をつぐなえばよいのか?


雅宣総裁は、「懺悔の神示」にあるごとく、自らを反省懺悔する事無く、反対に『本来罪なし』の教えを聴いて増上慢に陥っていると言わざるを得ないのである。本来『罪』なければ、懺悔も不要なりと思っているのではないのか? <罪の値は死なり、罪は懺悔と共に消ゆるなり、懺悔せざるものの罪は消えず>、この言葉を深く自覚し、今まで独裁専制教主として犯してきた数々の「法罪」、特に「教祖反逆罪」を大懺悔して、潔く総裁の椅子を降りて、外部で「環境の家・雅宣教」(仮称)として独立する事である。雅宣総裁の信徒に対する回答、< 悪因を積みかさねていったら、悪果は次第に激しいものになる。だから、罪を犯した人は、むしろ早い時期に償いをして悪果を刈り取ってしまった方がいいのです >。これは御貴殿自身のことですぞ! この論理、分かりますか? 雅宣殿!!


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


* なお、本稿はニュー信徒・ニュー講師の皆さんにとって大変重要な内容ですので、繰り返しお読みいただき「正しい『御教え』とはどんなものか?」を知っていただくために、今後とも、毎月中旬に再掲示させていただきます。







重要投稿再読を・・・ (547)
日時:2013年03月20日 (水) 14時40分
名前:信徒連合




特に、ニュー信徒のみなさま・ニュー講師のみなさまは再読されんことを・・・



重要記事に付き、今月も再掲示いたします。 (853)
日時:2013年04月20日 (土) 17時40分
名前:信徒連合




<非・生長の家>である雅宣教団では、最近の講習会のテキストとして『生長の家ってどんな教え?』を必死になって信徒さんに売っているようであります。<雅宣著>のこの本は『生長の家ってどんな教え?』ではなくて、『雅宣教ってどんな教え?』が正しい書名であります。「聖使命新聞」の講習会場での販売実績数は、開祖・谷口雅春先生の御著書以上に“中売り”で強制?購入が促進されているものと見えます。「聖使命新聞」発表の数字(講習会場での販売数)は、――


* 1月20日、長崎北部教区 
「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」 43冊、 「新版 光明法語」 41冊


* 1月27日、東京第一教区
「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」 207冊、 「新版 光明法語」 169冊


* 2月3日、静岡教区
「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」 496冊、 「新版 光明法語」 122冊


* 2月17日、大分教区
「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」 95冊、 「新版 光明法語」 63冊


* 3月10日、山口教区
「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」 244冊、 「新版 光明法語」 125冊



なお、中村晃生氏が、この「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」の独断と偏見について懸賞されておられますので、ぜひともお読み下さい。
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我々は決して騙されない! (1157)
日時:2013年05月22日 (水) 15時25分
名前:信徒連合




          <我々は決して騙されない!>



雅宣(自称)総裁著のこの新刊「生長の家ってどんな教え?」は、開祖・谷口雅春先生の本当の『御教え』の全相を語るものではありません。

ハッキリ言えば、宗教本来の使命である人間の病悩苦の救済を放棄し、国家の存在の重要性を取り上げてはいないからであります。また、開祖・谷口雅春先生はずしを目的とする本であります。

よって、正確には「雅宣教ってどんな教え?」であります。「雅宣教」への誘導洗脳本であります。

不適切・不合格本です。信徒の皆様、反日思想家である雅宣(自称)総裁にウッカリだまされないように致しましょう。

以上の理由により再掲示を致します。




再掲示 (2116)
日時:2013年09月28日 (土) 21時10分
名前:信徒連合



久し振りに再掲示させて頂きます。再読をお進めいたします。

次の記事も重要だと思いますので併せてご覧ください。

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http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=snihonryuu&mode=res&log=927








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