生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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落慶式典で何を学ぶか  (中村晃生) (1508)
日時:2013年07月12日 (金) 20時39分
名前:サーチャー


<光明掲示板>
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落慶式典で何を学ぶか@ (9791)
日時:2013年07月12日 (金) 11時25分
名前:中村晃生

<ますますカルト化?するマサノブ教団>

私は、マサノブ教の自然主義の誤謬を論じようと思ったのですが、その前提として、「森のオフィス」の落慶式典が挙行されました。ここに問題の本質が明示されていますので、先ずはこの点の批判から始めたいと思います。

今回の「森のオフィス落慶式典」で、いくつかのマサノブ教の重要なポイントが明らかになりました。それは、マサノブ教が谷口雅春先生創設の「生長の家」とは、全く別の異質な教団を創設し、それに向かって突っ走っていると言うことであります。


それは式典を見れば一目瞭然です。先ず、式典には国旗が掲げられていません。国歌も歌われていません。つまり、この教団には日本国という関わりが全く無いのです。当然のことながら「光輪卍十字架」の本来の「生長の家旗」もありません。つまり、谷口先生創設の「生長の家」を象徴するいかなるシンボルも存在しないのです。


そして、最後の極め付きが――実相の御軸が最初に掲げて有ったのが、途中から引っ込められその代わりに「雑木林」の姿がガラス戸の向こう側に姿を現す――という演出です。つまり、「実相」の姿ではなく雑木林に象徴される「自然」を拝めということなのでしょう。これは「靖国見真会」参加者さんも指摘している通りまさに「現象」そのものです。どうやらその現象の姿の中に、相克している(とマサノブ氏は幻想しているだけなのだが)「人間」と「自然」の「大調和」を祈れというころのようです??


私は、鼻からマサノブ氏の「自然崇拝」に何か引っかかるものを感じていました。何か不自然なものを感じていたのです。だってそうでしょう。世界広しといえど、「森」を崇拝するという宗教団体など、聞いたことがありません。他にそのような宗教が存在しないということは、世界的に見て「一般性が無い」という事です。つまり、人類はそうした雑然とした「雑木林」の中に一般的に神様はいないと認識しているということです。やはり、神様は居られるとすれば、キチンとした社にお祭りされるべきで、むきだしの自然界の中、それも雑木林の中には居られないだろうと思いますが・・・何か、マサノブ教のやること、為すことがチグハグで宗教団体の体を成していない気がします。


そもそもマサノブ氏が「ヒキコ森に行く」と言い出したことが、彼の「人間至上主義」の論理が発展して出てきた結論であり、「森に行く」ことが、宗教の現代的方向で、マサノブ教は、そうした「文明史的な転換」の先駆者であるという訳です。


まあ、「その意気たるや壮」と言ってもいいのですが、問題はその問題意識と方向性です。これについてはこの後の論述で詳述します。


でも、それにしては「森」という概念そのものが、薄暗いイメージを持っていますよね。外国の映画を見てもそれは良く分かります。暗い森の中にいるのは、お化けや狼ぐらいのもの。そういえば狼男も森と切り離せませんよね。


いずれにせよ、マサノブ教の「自然崇拝」、別言すれば「森林崇拝」は、「生長の家」の光明思想の明るさとは、マッチしそうにありません。このまま進んで行けば、マサノブ教はますます人類光明化運動の「生長の家」の信仰から大きく離れて、カルト化し、暗黒化して行くのではと心配しています。


カルト教団で有名なのが、あのオウム真理教です。カルト教団の特徴として良くマインドコントロールが挙げられます。およそ一般性の無い「人間と自然の大調和」を説き、「実相」ではなく「雑木林」を拝むように仕向けるマサノブ教は、ますます信者が離れて行くでありましょう。こうしたことで残った信者の皆さんを、マインドコントロールしてお金を収奪しようとしているのかもしれません。皆さん、お気をつけあれ。

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落成式典で何を学ぶかA (1527)
日時:2013年07月15日 (月) 00時21分
名前:サーチャー


<光明掲示板>
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落成式典で何を学ぶかA (9831)      日時:2013年07月14日 (日) 12時51分
名前:中村晃生

<本格的に生長の家の「ご本尊」である住吉大神外しを実行したマサノブ教>


今回の落慶式典で最も私たちが注目しなければならないことは、マサノブ教では完全に「住吉大神は外された」という事実であります。 もともと谷口雅春先生がお悟りになったのが、神戸のご自宅の近くにあった元住吉神社を参拝された時の出来事であり、したがって先生をご指導されたのも住吉大神で、それゆえ谷口雅春先生は教団の設立に当たって「ご本尊」として住吉大神と明示されているのです。 つまり、「生長の家」と住吉大神は切っても切れない一体のご存在なのです。つまり、「住吉大神を外す」ということは、名実共にこのマサノブ教は、「生長の家」では無くなったことを意味する訳です。この大事な点を我々は踏まえておかなければなりません。


この日の式典には、ご本尊である「住吉大神」についての言及は全くありませんでした。それどころか、「森のオフィス」前の広場に新たに安置したご神像についてさえ「住吉大神」とは言わずに、キリスト教に出てくる「七つの燈台の点燈者」であると言い張ったのであります!!

私が本掲示板で指摘したように、谷口先生は、ご神像のことを明確に「私が出会った住吉大神である」と断言しておられます。それを否定して「七つの燈台の点燈者」であると、来賓などの公衆の面前で公言する。これは、明らかに谷口雅春先生が創設された「生長の家」の教えに対する詐害行為であり、教えへの反逆行為であると言わなければなりません。(和解派の皆さん、それでもマサノブ教を容認するのですか?)


マサノブ氏のブログや、偽経を通して、マサノブ教での「住吉大神外し」の危険性は、これまで度々私も、また本掲示板でも多くの方々が指摘してきました。しかし、落慶式典という公式の場で、しかも多数の外部からの来賓の前で公然と「住吉大神外し」を言明したことの持つ意味は大きいと私は思います。彼は、公然とそれをやってのけたのですから。もう後戻りすることや、「いや、勘違いでした」と、訂正することも出来ません。総裁職を辞任する以外には。(もっとも、それは死んでもやらないでしょうが)。


原宿本部の正面に安置されてあったご神像を、わざわざ八ヶ岳まで移転させたマサノブ教。本来の「住吉大神のご神像」のことを落慶式典の挨拶でマサノブ氏は、

>まず神像ですが、これはもともと東京・原宿の本部会館の正面玄関に設置されていたもので、「七つの燈台の点燈者」を象ったものです。七つの燈台の点燈者とは、キリスト教の聖書の『ヨハネの黙示録』第1章に出てくる霊人のことで、聖書では「七つの金の燭台」に火を点ずる者として描かれています。生長の家では、これを「七つの燈台の点燈者」と呼んできました。私たちは、この点燈者とは「世界のすべての宗教に火を点じる者」のことだと解釈しています。<

と、強引に「七つの燈台の点燈者」にしてしまいました。つまり、ご神像が住吉大神であること――もともとこのご神像は、立教当初、谷口先生御夫妻が大神のお姿を拝見し、話もされたそのお姿を、高弟であった服部二郎氏が、先生のお話に沿って彫刻されたものです――を全面的に否定してしまったのです。


したがってこの「森のオフィス」には「生長の家のご本尊」である住吉大神は、存在しないことになってしまいました。宗教団体でご本尊の存在しない団体など一体あるのであろうかと思うのですが、マサノブ氏はそんなことは百も承知で、いわば意図的に行っているのだということを我々は知らなければなりません。


おそらく今後マサノブ教の最大の問題が、「生長の家」本来のご本尊である「住吉大神外し」になるだろうと思われます。式典では、偽経の「観世音菩薩賛歌」は全員で上げていますので、訳の分からないまま参加した多くの来賓や周辺自治体の長などは、マサノブ教のご本尊は、観世音菩薩に違いないと思ったことでしょう(でも、それにしては観世音菩薩の像が一体も無いのも奇妙ですが)。


どの宗教団体でも講堂正面に礼拝の対象としての仏像ないし神像を必ず安置しています。まさかそれが本当は「雑木林」であると知ったら、腰を抜かして驚くでしょう――この宗教は「頭がいかれている人々の集団だな」ということで。


さすが、マサノブ氏もそこまではこの日の式典で話しませんでした。したがって、式典に集まった人々は、本来の「生長の家」のことを知らない人ならば、この教団がいかなる教団なのか?(ご神像と、七宝搭は「万教帰一」をキリスト教と仏教で説いたものとの説明でした)また、一体どなたをお祀りしているのか?といったことなど、サッパリ分からないで帰ったことと思われます。 むろん知っている人たちは、谷口雅春先生創出の「生長の家」は大きな変貌を遂げたな――といった驚きを抱いたことでしょう。

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落成式典で何を学ぶかB (1542)
日時:2013年07月16日 (火) 19時55分
名前:サーチャー


<光明掲示板>
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落成式典で何を学ぶかB (9881)       日時:2013年07月16日 (火) 15時16分
名前:中村晃生

<「生長の家」教団変革の最終ラウンドに入ったマサノブ教団>


問題は、何故マサノブ氏はご神像のことを――キチンと「生長の家」の「ご本尊」である「住吉大神」とは言わずに、「七つの燈台の点燈者」とわざと違うことを――言ったのかということです。


この事実は別言すれば、今後マサノブ教では「住吉大神」を「ご本尊」とは扱わないということを意味します。イエスマンしか存在しなくなったマサノブ教では、トップの意向に実に敏感であります。中には千葉教区で見られたように積極的に谷口雅春先生のお写真を取り外すところも出てきました。おそらく今後は、各地の教団内部でもそうした「脱住吉大神、脱雅春先生」の変革作業――人類光明化運動を止める、鎮護国家を止めることに続いて、住吉大神を連想させるような額軸外し、谷口雅春先生の写真外しなど――が進行して行くものと考えられます。ひょっとしたら「実相」の御軸そのものを外しにかかるかも知れません。

同志の皆さん、これは重大事態です。ご注意あれ!


問題は、こうした事態が一体何を意味するかなのです。これは明らかに「生長の家」の教団名はそのまま使用しながら、実態としては「生長の家」本来の教え、住吉大神様など、マサノブ氏に合わない部分は全て否定し、変革しようとする一種の「革命行為」なのであります。しかも、この「革命」は、一気にやるのでは無く、信徒の知らず知らずの間に年月を掛けて実施されています。もう一度言います。この変革は、谷口雅春先生の創設された「生長の家」の教えを、マサノブ流に変革しようとする「巧妙且つ狡猾な」マサノブ氏の意図的な「革命」なのです。

いわば、彼が平成に入って「生長の家」の実権を握って以降、20年間もかけて「大東亜戦争は侵略戦争だった」などと言って進めてきた彼の「生長の家変革作業」の一環なのです。しかも、今回の「森のオフィス」移転で、その作業が総仕上げの段階に入ったと言ってよいでしょう。


だからこそ彼は、昨年11月28日の「運動の変化」と題するブログの中で、「森のオフィス」への移行を「40年変革説」などを持ち出して正当化し、「生長の家の重要な変化」と「謎掛け」をして書いていたのです。


>新しい“オフィス”の建物は来年春には完成する。この変化は、生長の家の歴史の中では、創始者・谷口雅春先生が神戸から東京へ移住された時(1934年)、そして東京から長崎へ移転された時(1975年)にも匹敵する重要度をもつだろう。これらの重要な“節目”の周期を調べてみると、約40年であることに気がつく。もちろん、40年たったら、どんな運動でも大きく変化しなければならないという理由はない。しかし宗教運動は、周囲の世界の状況の変化に正しく対応していくべき使命があるから、変化を恐れていてはならず、必要となれば社会に先駆けて新たな道へと進まねばならないことも事実である<


要するに「重要な変化」とは、「生長の家」を谷口雅春先生の教えから変革して、マサノブ教に変えてしまう――ことを意味していたということです!!


でも考えてみれば、マサノブ氏が一定の意図(悪意?)を持ってこうした20年以上にも及ぶ長期的な「生長の家の変革作業」を、たった一人で行っているとはとても思えません。必ずそこには背後に数人の意図が存在し、彼を指示ないし操っていると私には思えるのです。彼は当然のことながらその実態は明らかにしないでありましょう。


でも、実態はどうであれ、心霊的に見ればそうした人たちの背後には別の存在が見えてきます。つまり、こうした一連の変更作業を実際に操っている存在が、「森のオフィス」への移行を機に、日本の神霊に守られてきた谷口雅春先生の愛国教団としての「生長の家」を、似ても似つかない西洋の悪霊に導かれた邪教の教団に本格的に変革しようとしているのだと。マサノブ教が、自然環境主義というカルト教団化していることもこれに関連していると見て、まず間違いないでしょう。

ですからこそ私たちの戦いも、本格化する必要があるのです。「生長の家」を本来の谷口雅春先生が創設された教団の姿に戻し、人類光明化運動を再興し、鎮護国家運動を再興する――私たちの使命は重大なりと考えています。

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落成式典で何を学ぶかC (1567)
日時:2013年07月20日 (土) 16時05分
名前:サーチャー

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落成式典で何を学ぶかC (9952)     日時:2013年07月19日 (金) 19時21分
名前:中村晃生

<何故、マサノブ教は生長の家から離れてカルト化するのか>


私はマサノブ教が、いちおう看板だけは谷口雅春先生ご創出の「生長の家」を掲げてはいるものの、その内実は完全に谷口雅春先生の説かれた教えとは全く関係のない――普通の人には異様に聞こえる「自然」と「人間」の「大調和」を目標に掲げる――「自然環境主義」に貫かれたカルト教団化した教えとなってしまったことを指摘しました。でも、「生長の家」から出発しているハズの教えが、何故こんなとんでもない環境カルト教団になってしまったのでしょう?


その原因を探るべく私は、マサノブ氏が11年前に書いた「今こそ自然から学ぼう」と題する本を買い、読んでみました。この本は、マサノブ氏の自然環境主義のいわばテキストのような役割を果たしている本です。この本の中で、マサノブ氏は何故宗教が今、環境問題や遺伝子問題に関わらなければならないのかの彼の持論を展開します。


この本は、環境主義者マサノブ氏の本としては、ある程度の意味を持っているのかも知れません。また彼が、単なる環境主義論者である限り、私は異論を差し挟むものではありません。しかし、問題は、彼が同時に「生長の家」の自称法灯継承者を「演じよう」としている点です。ここに様々な問題が生じるのです。


因みに彼は、この本の中で自分のことを「当方は宗教家のつもりだ」(P3)と断定しており、少なくともご自分の意識的の上では「宗教家のつもり」でこの本を書いているようですが、この本は宗教的な深みのある本では全くありません。言うなれば「環境主義論者」マサノブ氏の目で、様々な問題を「ああでもない、こうでもない」と論じているだけです。自身の主張を一方的に述べるだけのマスターベーションのような本に終始しています。


特に最初のところに出てくるある信徒からのマサノブ氏に対する――講話の「内容が宗教的でない」――とのメールの批判は、実に痛烈なものです。


>合掌 ご講習会の期日が近づいてまいりましたが、講話の内容は「神の子人間」についての根本的な且つ判りやすいお話をお願い致します。

 以前、数人の友人を誘って参加したのですが、その後、講習会に誘っても二度と来てくれようとはしません。縁が無かったと言えばそれまでですが、多少でも宗教心がある者は子孫のこと社会のことを考えて、環境問題、遺伝子問題は言われるまでも無く、常識で判断します。

それをことさら主張する必要があるのは、一般マスコミに対してであり、信徒には敢えて云々する必要の無いことです。言われなくとも判っていると思います。また講習会に来るような人は初心者でも常識で理解しています。所詮現象世界のことです。それを専門家の受け売りで言われるより、「人間とは」「神とは」等々宗教的な根本問題の話をしていただきたいのです。信徒は真理を求めているのです。

「樹の良し悪しは、その果実を見れば判る」といわれますが、講習会でも人間神の子を自覚した円滑体験が続出する様でありたいものです。現に各地の練成会では、「生命の実相」に基づいた話を聴き、素晴らしい体験が顕れつづけています。また、心の法則る好転化現象は他の宗教でも、心理学の応用でも顕れていま

す。生長の家でなければ聴けない話をお願い致します。(P4〜5)<


このメールは、ある意味で普通の一般信徒が抱いている疑問を、実に率直に判りやすく問いただしたものです。私たちも同じ疑問を抱いていたわけですから。それだけにマサノブ氏はカチンと来たのでしょう。彼はこの本の中でムキになって反論を展開しています。

実際は、その中身で彼の頭の程度、およびその宗教家ぶりの程度が良く分かる内容になっています(笑)。その意味では、興味深いのですが、でも宗教書としては全く読む価値が無いといって良いでしょう。


実は私は、ここにマサノブ教の根本問題、さらに何故カルト化しているのか――その原因が潜んでいると考えています。つまり、マサノブ教団総裁のマサノブ氏には、環境主義論者としての自覚はあるものの、(本人の意識は別として)客観的に見た場合の――宗教家あるいは「生長の家」の法灯継承者としての――自覚が全く存在しないというか、欠落しているからなのです。

だから「講話が宗教的でない」と、当たり前の批判を受けると、反省するどころか猛烈に反発するのです。これでは宗教家としての根本の心得が出来ていないと言っていいでしょう。

宗教家の本来の仕事は、環境問題を説くことにあるのではなく、人間の心の問題、さらにはそこから派生する様々な問題を、信仰上の観点から解説し、解決することにあります。その当たり前のことに目を向けることなく(したがって彼は“人類光明化運動“を放棄してしまいます)、この本の中に書かれている形だけの環境問題に配慮した(と一応考えている)教団をムリに作り上げたのが、今回のこの「ヒキコ森」のマサノブ教団なのです。


そう考えると、なぜマサノブ教団がますますカルト化しているか判って来ると思います。つまり、この教団は、マサノブ氏が頭の中で作り上げた教団であり、そこにはいかなる意味においても「生長の家の大神」は存在されていないからなのです。神様からの正しい指導が無くして、教団がカルト化することは言わば当然の帰結であります。ここらへんが今回の式典でハッキリとしたと言って良いでしょう。つまり、カルト化の原因は、まさにマサノブ氏の「非宗教家たる姿勢そのもの」にあるのです。


では、カルト化したマサノブ教団ではいかなる活動をするのか――それは、マサノブ氏の最近のブログに顕著に現れています。皆さんもお気づきになられたと思いますが、最近の彼のブログでは、民主党を賛美したり、原発反対運動を推進するといった左翼偏向的な政治的な論策よりも、むしろ日常生活の中で目に触れるありふれた自然現象の賛美――花とか鳥などの――に溢れてます。これは純子夫人のブログでも共通しています。

それにマサノブ氏は、最近は葉書によるいつもの下手な「お絵かき」に熱心に取り組まれている様子です(これって、もらった人も捨てるわけにもいかず迷惑でしょうけど?)。つまり、「ヒキコ森」のオフィスでは、誰も「宗教家」としてのマサノブ氏を煩わす「人類」が存在しないわけですから、彼は自分の趣味に没頭できるというわけです。


しかし、いやしくも宗教団体の長たる人間が、そんな自堕落な生活を送って良いはずがないではありませんか!もし、そんな生活を送りたいのであれば、潔く「生長の家総裁」を辞任してからにして頂きたいものです。そうすれば多くの信徒たちからも大歓迎されるでしょう。ネ、皆さん。

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落成式典で何を学ぶかD (1613)
日時:2013年07月26日 (金) 23時33分
名前:サーチャー

<光明掲示板>
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落成式典で何を学ぶかD
<住吉大神の「ご神像」をお粗末に扱うマサノブ教団> (10128)
日時:2013年07月25日 (木) 12時14分
名前:中村晃生

私もあまり良く知りませんでしたが、最近の本掲示板で示して頂いた皆さんの写真で、原宿の教団本部に安置してあった「ご神像」に対する「森のオフィス」広場に配置したマサノブ教団の「あまりの酷い仕打ち」を見て、正直言って声も出ませんでした。最早怒りを通り越して、今にも殴り込みに行きたいと思ったほどです。


本来は「生長の家」の「ご本尊」であるべき住吉大神の「ご神像」が、同教団では建造物の中に置かれている訳ではなく、屋根もない屋外にさらされたままです。これではせっかくの「ご神像」が森の中の泥や雨風にそのまま汚されてしまうではありませんか!

しかも、地表からわずか1メートル上がっただけの台の上にポツンと置かれ、いわば人間の目線とほとんど変わらない高さに安置されているのです。これは「ご神像」を崇拝の対象ではなく、単なる鑑賞の対象にしている証拠です。しかもその周囲には何もありません。孤立して置かれているだけです。いかに粗末に扱われているかが分かります。皆さん、こんなことが許されていいのでしょうか?


しかも教団のパンフレットの解説には“statue”(彫像)と書かれているだけというではありませんか。そもそも「ご神像」に対して単なる“statue”はないのではありませんか?だって米国でも「自由の女神」は“statue of Liberty”であり、単なる“statue”ではありません。尊敬心があるならそれなりの尊称、敬称をつける必要があるでしょう。単なる“statue”とすることは、マサノブ教では「ご神像」を単なる彫刻以上の存在とは見ていない――単なる「物扱い」をしている訳で、本来の「生長の家」信徒からすれば、神聖な「ご神像」をバカにするのも甚だしいのです!


これはつまり、マサノブ氏が――谷口雅春先生並びに住吉大神に対して何らの敬意を持っていないどころか、ご神像が野山の風雨にさらされても何とも思っていない――といった「ご神像」に対する侮蔑の心情を露骨に表明しているのです。


ここに宗教のことが全く判っていない「宗教オンチ」のマサノブ教団の姿がまさに顕れており、いわば私には、「極悪の宗教家」マサノブ氏の真姿ここに極まれりといった気がします。私は、このようなマサノブ氏およびマサノブ教団に対し、必ずや天の「鉄槌」が下ると信じています。「生長の家」では「神は罰を与えない」ことになっていますが、これは実相神のことであります。現象世界は、実際には因果応報の法則で動いています。あからさまに神様に対する侮蔑的な行為を行って「何も無いから大丈夫」と考えるのは、マサノブ氏が「宗教オンチ」だからです。今に見ていろ、必ず見える形で「天罰」が下る――と私は考えています。


イエスマンだらけのマサノブ教では、自称総裁のマサノブ氏にゴマすりをする幹部ばかりです。本来の「生長の家」の信仰を持っている人間ならば、とても吐けないような言辞を平気で言うのです。「ご神像」は長らく原宿の「生長の家」教団の本部正面に飾られ、私たち住吉大神信仰者の崇拝の対象であり、「ご神像」の方も私たちを暖かく見守ってこられました。当然のことながら神様の「魂」は入っておられます。


しかるにマサノブ教団の千葉県教化部長の目等氏は、神聖なる「ご神像」をモノ扱いし、

>…「ご神像」は単なるモノなのです。ですから、これまでも「ご神像」に対して聖経読誦などしたことはありませんでした。今回も、ただモノが移転しただけなのですから、そういうモノに聖経読誦する必要はないのです。「森の中のオフィス」に移転されて、はじめて「ご神像」に魂が入ったのです。<

と言い放ったのであります。何百万人もの「生長の家」信徒が長年崇拝してきた「ご神像」に対して何という「罰当たり」なことを言うのでしょう。 目等氏の「ご神像」に対する侮蔑的な発言は、いかにマサノブ教が谷口雅春先生の「み教え」を継承しておらず、「生長の家」の精神から遠ざかっているのかの明白な証拠であります。


我々「学ぶ会」の人間は、こうしたマサノブ教の「ご神像」に対する酷い仕打ちを決して忘れてはいけません!そしていつの日にかは、大事な「ご神像」を何としても「奪還」したいと私は考えています(その日が来るのは、そんなに遠いことではないような気がします)。


次回からは、だんだん明らかになってきたカルト化したマサノブ教の教義に対する批判と、自然環境信仰に対する批判に入りたいと思います。

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