生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「かごめの唄」の秘義 (其の一)・(其の二) (1549)
日時:2013年07月17日 (水) 15時26分
名前:信徒連合


「かごめの唄」の秘義(其の一)



“かごめ、かごめ、カゴの中のトリは いついつ出やる。夜明けの晩に、ツルとカメが すべった。うしろの正面だーれ”


 日本人なら子供のときから唄った誰でも知っているこの童謡、いつ誰が作り、いつ頃から日本全国に普及していったか、その不思議なナゾ言葉の連続!!これも神界、霊界から霊感にすぐれた日本民族に降ろされた啓示であります。開祖・谷口雅春先生はこの不思議な童謡についてキットどこかで御解釈去れている筈と先輩古参の信徒の人達にお尋ねしましたが、どなたも御存知ありません。この「掲示板」の閲覧者の方々の中でもしもご存知の方があればコメントにてお知らせくださる様お願い申し上げます。




『言霊(ことだま)』――ひつく神示のなぞことば――桑田二郎著・平成5年(株)潮文社・刊

第一巻P.186−190および第二巻P.166−186(著者の霊感による解釈を引用します)



<< 神世界からの導きのことばは童謡や、子供の遊び唄ともなって、昔から今に伝えられている。

桃太郎に、浦島太郎、一寸法師に、かぐや姫。その他いろいろ.---------


「かごめの唄」は、その中でも特に、意味深いものだ。その意味は、今までの人々には理解されなかった。しかし、今!理解されねばならぬ時がきた!!(この「かごめの唄」も物質頭で考えてもダメなんだよ!“いのち”の感性を「八」の次元へと通せば自然に意味も見えてくる-------)



* 「かーごめ、かごめー」・・・この世の“いのち”は、「かごめ(籠の目)」の如くにおりなされた宿命の肉体生命のオリの中、


* 「かーごの中のトリは」・・・「トリ」は、内なる“魂”の意識。“魂”は、肉体生命の宿命(かご)を通して、霊的な進化の実現へと進んでゆかねばならないのだが--------


* 「いついつ出やーるー」・・・その“魂”の意識は今だに、肉体生命の内奥の次元で、目覚められず、眠ったままの状態でいる。その“魂”の意識を、いつ目覚めさせる事ができるのか?


* 「夜明けのー 晩にー」・・・今がその魂が“霊性の進化”という夜明けのとき、目覚めねばならぬ時が来ているのにまだ、精神の無明の闇(夜・晩)の中にいる。人々は進化への意識を見失っており、その岩戸は閉じられたままで、まだ暗い-------- 

 
* 「鶴とカメがすべったー」・・・はるかな過去から、千万の進化の時を経て、今ここに来て、進化の方向からすべり落ちつつある。ここには、更に深い意味が秘められている。

しかも、その意味が「神一厘」の仕組みに、深くつながっているのだ。

すなわち、「鶴」は――太陽を頭頂に頂き(丹頂鶴のイメージ)、日であり、進化の方向へとはばたく霊(上)であり、精神。火の仕組みであり、二二(フジ)は晴れたり、に繋がる。

「カメ」は――「カゴ」の「メ」(籠目)であり、逆進化の霊力と繋がり、肉体生命(身・ミ)をあらわし、その心であり、水の仕組みであり、ナルトの渦に繋がる。天の御柱の左まわり=鶴、天の御柱の右まわり=カメ、その進化がズッコケつつある。


    進化の区切りとしての、世の建てかえ、建てなおしの時、新たなる進化へと進める者と、そこで、進化の道筋から切り離されてしまう者とにわかれるのだが-------「ツルとカメがすべった」という唄の文句も二つの意味にわかれる-------

つまり、「滑る」と「統べる」だ。進化から脱線してゆくのが「滑る」ツル、カメ。進化へと進みゆくのが「統べる」ツル、カメ。すなわち、進化の実現とは、“魂”が“いのち”を正しく「統理(トリ)」すること!「十(と)の理(り)」に目覚めることだ。


    何がどうあれ、「滑って」はならないのだ!!

死んで、すべてが終わるのなら、滑ろうが転ぼうがこの一生だけの問題だが、しかし、死はすべての終わりではない!!

そこから始まるのだ。!!霊としての意識は、不生不滅なるもの!無限に続く「苦」の世界と無限に続く進化への次元!!死を境にして、我々の“いのち”は、そのどちらかに分かれてゆく!

要は、意識のありようだ!心の持ちようだ!精神の方向性だ!魂の自覚だ!それを進化の方向へと、しっかりと定める!!それをツルとカメが「統(す)べった!」という。「ツルと、カメ」は、“いのち”の仕組みを「たとえ」の言葉にしたものだ。>>(つづく)






「かごめの唄」の秘義 (其の二) (1552)
日時:2013年07月18日 (木) 11時01分
名前:信徒連合



「かごめの唄」の秘義(其の二)




<< *「うしろの正面、だーれ?」・・・何よりもまず、精神の本質意識(魂)を目覚めさせなければならない!“魂”の意識の目を覚ませ!という呼びかけだ。この、うしろの正面というのも、言葉通りの背中の真うしろ、という事ではない。そもそも、「夜明けの晩」だとか、「うしろの正面」だとかいう不思議なことばの言いまわしをするには、するなりの意味がある!不思議な言いまわしは、つまり、不可思議次元を指し示しているのだ。


   つまり、うしろの正面の「<うしろ>」というなは、この物質世界の<うしろ>という事ではなく、“いのち”の内奥にむけられた意識のことだ!自らの“魂”へと向けられた意識のことだ!うしろの正面だからとて、そのままに降りかえっても、後ろはうしろ、やっぱりそこも物質世界!振り返らねばならぬのは、うしろの正面!すなわち、「うしろの正面、だーれ」とは、自らの#いのち“の内奥を振り返って、自らの“魂”と対面せよ!!という、神次元からの呼びかけだ!それが自らの意識の本体である!!と教えてくれているのだ!!


   そのように、うしろの正面を見失ってしまっている意識の状態が、進化から外れた方向に意識を働かせてしまっている状態だ。そのままであっては、ならない!!その意識の働きの中から進化の法則に逆らったところの苦悩や、災いや、不幸の数々が、今、現在も、数限りなく生まれつつあるのだから!!


   要するに、そのさかさま意識が、カゴメ、カゴメの状態なのだ。その中から“魂”の意識が、羽ばたき出なくちゃならない!今、人間の精神の進化段階がその時期に来たのだ!今までのような、「無明」のコテカン(固定観念)であっては、ならない時がきたのだ!いつまでも、意識を、カゴメのオリの中に閉じ込め続けていては、「ノアの箱舟」に乗り遅れてしまう!!「世の建てかえ」の大峠が超えられない!!かごの中のトリが目覚めるか、どうかが、ツルとカメが“滑るか”、“総べる”かの分かれ道!


カゴの中のトリを目覚めさせるには、まず、自らの“いのち”の内奥の次元に意識をむけよ!うしろの正面の目を開け!


   そうしたことを、「ひつく(日月)神示」も「かごめの唄」も、言霊の声をも枯らさんばかりにして、人間世界へと呼びかけている!私達は、今や真剣に、その、神次元からの呼びかけに、耳を傾けねばならない時だ!!


それにしても、本当に不思議なことだ。昔の子供の、口から出まかせのような唄の文句の中に、このような深い意味が秘められていたなんて--------一体、いつ、誰が唄いはじめたのだろうか-------?たとえ、誰が作り、誰が唄い始めたにせよ、それは「ひつく神示」と同様、この世を超えた神次元より、人間世界に向けたメッセージのあらわれだ。したがって、「カゴメ唄」も「ひつく神示」もまったく同じ目的を持った、神次元からの言葉として、その意味あいが、言霊の次元で、繋がっている!


   かごめの唄は、その年代さえ分からぬ遠い昔から、今につたえられ、一方「ひつく神示」の方は、ほんの数十年ほど前に、岡本天明師の自動書記によって、この世にあらわれてきた。両者には、長い年月の隔たりがある!にも拘わらず、この二つは同じ目的をもって、手をつなぎあい、見えない次元からこの世にあらわれてきたのだ。


つまり、その出所は一つ!!見えない次元から、常にわれわれの意識へと働きかけている!「ひつく神示」の自動書記というのも、不思議な事。かごめの唄と、ひつく神示のつながりの意味も不思議な事。かごめの唄に秘められた、深い意味もふしぎなこと-----


さらには、「かごめの唄」の存在そのものが、考えるほどに不可思議そのもの------!!


  長い年月の、それぞれの時代には、色々のはやり唄もあったはずだ、たまに地方のジジ、ババさまがそうした唄を知っていたりするが、そのほとんどは、世の中から忘れ去られてしまっている。しかるに!誰が聞いても、その意味の理解のつかぬ何だか訳の分からん「かごめ唄」が日本のすみずみの人が、みな、知っている!という、この不思議--------!!


   実は、不可思議だという、その不可思議の中に「かごめの唄」が、神次元に繋がっている!という事の答えがすでに用意されているから、これがまた、不可思議---------!壱、拾、百、千、万、億、兆、京(けい)、垓(がい)、秭(し)、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(こうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)――一 


一、二、三、から始まって、百、千、万、と単位が上がってゆき、億、兆あたり迄が、我々日常に使う数の言葉だが、さらに、上がっていくと京(けい)、垓(がい)、秭(し)から、無量大数へ到達する。その一歩手前が「不可思議」という数だ。


   つまり、我々の「数」というものに対する感覚をもっては、とうてい、計り知れない数、ということだ。「十(とう)」ぐらいなら数えられる子供に、億や兆の単位が分からないのと同じだ。神次元から見れば、人間の精神は、まだ幼児以下のレベルだが、人間から見れば、神次元というのは「不可思議」そのもの!


要するに、ひつく神示も、かごめ唄も、それが確かに神次元から降ってきたものなれば、そこには人間から見て、理解のつかない不可思議な事柄がついてまわるのも当然なことで、その不可思議さが、神次元であるわけだ。


   「かごめの唄」が、そうした不可思議とともに、今の世まで唄い伝えられてきたというのも、そこに不可思議の神秘の力が、延々と働き続けてきたからに違いない。その神秘の力と云うのが、読んで字のごとく、秘められた「神の霊力」と、いうことだ。このように、かごめの唄というのは、子供唄の姿をとった「神のことば」であり、神次元から、人間の“魂”への、呼びかけの声なのだ。しかし、その唄の意味あいとなると-------長い年月を振り返ってみても、今まで誰もが分からないままであったようだ。まさに、岩戸の中に閉ざされたままであったわけだ。


しかし、いま、人間のこころの岩戸が開かれねばならぬ時がきた!!その時ゆえに、かごめの唄の意味も、自然に解かれた。・・・つまり、ツルとカメが“いのち”を正しく統べルところに、夜明けの晩に光がさす!「無明」の晩の、岩戸がひらかれる!!以上が「かごめの唄」に秘められた神示のことばの意味あいなのだ。>>


『言霊(ことだま)』――ひつく神示のなぞことば――桑田二郎著・平成5年(株)潮文社・刊 第一巻P.186−190および第二巻P.166−186(著者の霊感による解釈を引用)

(完)









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