生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
トップページへ戻る
↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓
「大自然崇拝教」マサノブ教祖は、「久遠天上理想国実現の神示」に反逆した! (1566) |
- 日時:2013年07月20日 (土) 14時15分
名前:画龍点睛
合掌、ありがとうございます。 7月16日−17日、「森のオフィス」で開かれた「国際教修会」について、次のようなブラジル信徒の参加者の方の投稿文が掲載されていました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
愛国心 I さんは、生長の家でない人です。 (668) 日時:2013年07月18日 (木) 21時26分 名前:サンパウロ・ミウラ
愛国心 I さんは、生長の家でない人です。法灯継承した先生がいわれているから真理です。宣言された言葉、「都会は欲望の象徴」です。都会で正しい信仰は行じる事ができないのです。これを信じるのが中心帰一です。神の言葉です。純子先生が宣言され、雅宣先生が結論を言いました。多くの先生方。それぞれ、素晴らしい講師先生でした。私は、神様の栄光を見ました。神社も天皇陛下も、日本のもの。世界のものでない。国家と国旗、国際本部式典に入りません。二拍手もいらない。クロス切ると、不自然ですか。同じことです。自分流で見るのはみな「が(字がわかりません)」です。他の分派のひと、やかましいのやめなさい。雅宣先生万歳です。純子先生素晴らしい。せっかく報告したのに、お説教もういいです。先生のお説教以外耳の入りません。それでいいです。ありだとうございます。 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=208
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
このブラジルの信徒さんの投稿文で特に注目すべき点は、< 神社も天皇陛下も、日本のもの。世界のものでない。国家と国旗、国際本部式典に入(註・“要”)りません。二拍手もいらない。> の部分であります。この投稿文の言葉によって、7月7日の「森のオフィス」落慶式において、「マサノブ教」の実体が「大自然崇拝教」である事が明白となった事に加えて、なぜ国旗・国歌・聖旗・万歳三唱・使命行進曲等が姿を消し、「国際平和信仰運動」のシンボルマーク(地球に葉っぱを加えた鳩マーク)の旗のみが一本あったか、についてのマサノブ(自称)総裁の考え方がわかったのであります。
マサノブ君が、「森のオフィス」落慶式において、国旗・国歌・聖旗・万歳三唱・使命行進曲等の日本中心的な印象を与えるものを全て締め出してしまったその理由は、「森のオフィス」自体が“世界本部”であるから特定国の印象だけを強調したくない、と考えたからであります。あまつさえ、「實相」額までも途中で引き上げたのも彼の心の隅には『實相』額も一種の“偶像崇拝”との観を与えかねない、それよりも世界万国のどこにもある「森の木々」にしたほうが“神・自然・人間”の大調和一体関係を容易に実感でき抵抗感も少ないと考えたのだと思うのであります。勿論、彼の潜在意思の状態は、国家・民族は悪玉、左翼的世界市民思想は最高の善であるということに深い共鳴を抱いていたことは言うまでもないことであります。
然し「生長の家」の創始者は開祖・谷口雅春先生である事は事実であり、「大調和の神示」に従えば、開祖に感謝しその『御教え』の中心を外さないことは教えの継承者としては当たり前のことであります。開祖・谷口雅春先生は大乗仏教完成の地である日本國に生れられて、住吉大神のお導きによって「生長の家」を立教されたのでありますから、その式典において“日本方式”を採用して進めることにたとえ外国人といえども違和感を感じる人は居ないと思うのであります。それを「国際本部」である事を理由にして、左翼的世界市民意識を全面に打ち出し、国旗・国歌・聖旗・万歳三唱・使命行進曲等を排除する事は、開祖・谷口雅春先生への尊敬心、感謝の気持など必要でなく、時代は既に変化しているのだから、むしろ開祖・谷口雅春先生から訣別して、時代即応型の「新・生長の家」をスタートすべきとのマサノブ君の考え方は、“教え親・疎外と教え親・抹殺”で「大調和の神示」の“感謝の教え”に反しているのであります。むしろ、壇上には参加者の国旗を全部掲げるのがより優れた方法であり、“国旗なし”としたのは雅宣君の“国家・民族概念への憎悪心”の現れ以外の何物でもないのであります。
マサノブ君は「大調和の神示」以外の神示はほとんど語らない、むしろ自己の信念たる左翼思想の価値観に合わないから「神示」が大嫌いなのであります。放棄したのであります。「生長の家」の『御教え』は、開祖・谷口雅春先生が「生長の家大神=住吉大神」様からの啓示として受けられた「神示」が基礎であるのに、雅宣君はこれは日本が戦争をしていた時代のものだからとして見向きもせず、現代に於ける時代即応の「神示」の啓示は、「生長の家大神 → マサノブ → 時代即応の教え」として示されるのだと、全講師を通じて信徒を洗脳しているのであります。何と云う傲岸不遜な思いあがりでありましょうか!
マサノブ君は後継者と自称しながら、開祖・谷口雅春先生の啓示された「神示」について詳細講義しないから上記引用のブラジルの信徒のような曲解が大手を振って歩くのであります。そこで、 < 神社も天皇陛下も、日本のもの。世界のものでない。国家と国旗、国際本部式典に入(要)りません。二拍手もいらない。> このような考えは、完全な間違いである事を「久遠天上理想国実現の神示」によって今一度学びなおさなければと思う次第であります。そこで、『秘められた神示』P.149−190 より、重要点を開祖・谷口雅春先生の御講義の文章から抜粋させて頂きます。“世界平和”を語るには、この上もなく重要な「神示」であります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「久遠天上理想国実現の神示」抜粋――
<< 縦に無限に生(の)びることを『生』と言い、横に無限に長(の)びることを『長』と言い、縦と横とが十字に交叉した中心を息叉(いへ・家)と言う、縦の生命と横の生命とが交叉した中心が『家』である。・・・家のことを巣と言い、住むと言う。住むと言うのは中心に集ることである。いっさいのものは中心に集り、中心に統一せられることによって澄む即ち浄められるのである。中心のないものは統一がないので、雑然として言噪(ことさわ)ぐのである。・・・論争(ことあげ)したすべての国が一つの中心にあつまりて、統一せられねば全世界は一つの『家』にならぬのである。久遠天上の『生長の家』(たかあまはら)が地上に顕現して全世界が『生長の家』にならねば永遠理想世界は地上に来ぬ。久遠天上とは地に対する天ではない、實相世界のことである。・・・實相世界では既にひとつの極身(きみ)に統一せられて、常楽の浄土となっているのである。・・・全世界が一つの『生長の家』となり、實相の世界の『生長の家』が地上に顕(うつ)って来る時には是非ともこの世界も一つの中心に統一せられねばならぬ。・・・その中心を『光の本(ひのもと)』と言うのである。日本(ひのもと)は光(ひ)の中心(もと)である。・・・久遠皇統連綿と云うことは偶然になる事ではない、形の世界が心の世界の影である事が解り、實相世界が久遠常住の世界であると云うことが判れば久遠皇統連綿と云うことは實相世界の久遠常住性が最も迷いの念なしに形に顕れたのが日本國だと云うことが解るのである。・・・消滅常なき現実世界が変じて久遠實相世界の常住性を顕現するには、常住性ある国がひろがりて常住性なき国を包みて、十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界としなければならぬのである。・・・今の国々は皆形がクミ合っているだけで、中心の生命(息・いき)が一つに統一していぬから、国即家の実が挙っていぬのである。一つの中心にすべてが統一せられて、萬民その天分に応じて其の堵(と)に安んじ、需給の関係でも一つの人体の血液が栄養を運ぶように、全体の細胞への各々(おのおの)適当な資料を、適当な分量だけ過不及なく与えるようになったとき、国は即ち家となり、始めて本当の国家となるのである。かくの如き国家には凡(すべ)てのものが瑞々しく穂(ひい)で、その国家は『瑞穂の国』であると同時に『生長の家』であり、久遠實相の生長の家(たかあまはら)の地上的顕現であるから、高天原(たかあまはら)と、瑞穂の国と、生長の家とは三位にして一体であると言うのである。・・・天津日嗣(あまつひつぎ)の御子と言うのはその完全円満さが何の迷いにも隠される事なく明らかであるから生命の實相の久遠常住性が形に其のまま顕(うつ)し出されて連綿と無窮につづいているのである。・・・>>
開祖・谷口雅春先生の神示御講義の抜粋
@ ここには、“久遠天上の『生長の家』(たかあまはら)”という語(ことば)が使ってあって、・・・この「久遠天上の生長の家」というのは、キリストの“主の祈り”にあるところの「みこころの天になるが如く地にもならせ給へ」の“天”上の生長の家であり、その“天”とはプラトンが“イデアの理想国”と言ったような「理念の世界」なのであります。その、“イデア”でできている“實相の世界”(天)に既にある世界秩序の通りに、地上現象世界をあらしめることが、キリストの祈りであったのであります。(P.157−158)
A この神示には「下照姫というのは地鉱の下で光っている金のこと」。金というのは金本位の貨幣制度の象徴でもありますし、それで売買し支配できるところのあらゆる利権や鉱物資源、石油資源等のある領土の一切を象徴しているのであります。こういう物質的な利害関係に人類の心が支配されているものですから、地上に實相世界に既に存する構図のように「一つの極身(きみ)に統一せられた、常楽の浄土」とは中々成らないのであります。・・・主権国家が沢山あり、そのそれぞれが軍備をもっていて、既得権を主張する限りに於いては、永久平和の世界・常楽の浄土などは地上に実現する事は望み薄であります。どうしても、世界の「数多くの国家」(これを大国主命をもって『古事記』は象徴しています)がその主権の一部を放棄して大国主命(おおくにぬしのみこと)の“国譲り”のように、「一つの連邦国家」(世界連邦)に対して、主権の一部を譲り渡して、その世界連邦の中央政府のみが統一主権をもっていて、その主権行使の保障のため警察軍をもっていて、他の国は全然軍備を持たぬようにし、各国はそれぞれ主権をもちながら、世界連邦政府の統一主権を尊重し、中心帰一の世界が実現するまではどうも永久平和の世界は出来上がる見込みは薄いのであります。
B 「全世界が一つの『生長の家』となり」とあるのは、「全世界が大調和の連邦国家となり」という意味であり、「實相の世界の『生長の家』(たかあまはら)が地上に顕(うつ)って来る時には是非とも此の世界も一つの中心に統一せられねばならぬ」と神示にあるのは「實相世界にある高天原――天国――浄土が地上に顕って来るときには、天上の中心帰一が地上に反映して、世界連邦中央主権に中心帰一する世界が実現しなければならぬ」という意味だと拝察せられるのであります。(P.161)
C “日の本”は“光(ひ)の本”であり、それは實相世界にある・・實相世界の“光(ひ)の本”が現象世界に反映して、それが現象世界にも具体化して来なければならない筈であります。「世界の中心」というのは、地理的又は距離的に中心だと言うのではなく、「實相が最も鮮(あざ)やかに顕はれているところが現象世界に於ける中心だ」と言う意味・・・實相世界の中心帰一世界(御心の天に成る世界は、神なる永久に変わらざる一つの中心に帰一している)が現象にもっとも鮮やかにあらわれている国家を地上に求むれば、久遠皇統連綿なる変わらざる中心を保ちつづけている国は日本国しかないのでありますから、日本国が「實相世界の久遠常住性が最も迷いの念なしに形に顕れた」ところの国であるということができるのであります。だから日本国は實相世界の秩序なる“永久変わらざる中心に帰一されたる状態”が最も完全にあらわれているところの国であり、その實相世界の「光(ひかり)の本」が最も完全にあらわれている国であるから、實相界の「光(ひ)の本」が現象化して「日の本」となり「日本(ひのもと)」となっているのであります。そこで此の神示は実に微妙な書き方がされているのでありまして・・・「日本(ひのもと)」と書いたり「日(ひ)の本(もと)」と書いたり、「光(ひかり)の本(もと)」と書いて「光(ひ)の本(もと)」と振り仮名をつけさせたりして、超現実世界の距離でも場所でもないところの「實相世界」の“久遠の秩序”の“光(ひかり)”がもっともよく現象界にあらわれた世界を「ひのもと」と言うことを表わしているのであります。(P.162−163)
D この神示に現われている所の『 』で包んでいない生長の家と書かれているのは、教団の名称でもなければ、雑誌の名前でもないのであります。それは「生」と「長」と「時間」と「空間」とが縦横交叉した一点の、その一点もない「中」(みなか)の世界「未発の中」(みはつのちゅう)の世界をあらわす抽象名詞なのであります。それは現象世界以前の世界――住吉世界であり極楽浄土であり、時間以前の世界なのでありますから年齢(とし)をとらない長生(ながいき)の家、無量寿の家――浦島太郎がそこに住(い)っていた間はいつまでも若かった世界――即ち“實相の世界”であります。雑誌の名前や教団の名称に『生長の家』とつけられているのは、その“實相世界”なる生長の家を説くところの雑誌であり、団体であるからで、現象界の雑誌や団体そのものが無量寿の家そのものではないのであります。・・・そのことがわかりまして、「高天原――瑞穂国――生長の家――この三つは三位にして一体である」という聖句を解釈すると本当の意味が分かるのであります。(P.164−165)
E 日本国は、實相世界の神なる一つの中心に統一せられている其の中心帰一秩序が最も完全にあらわれている国なのであります。神は「善人にも悪人にも平等に太陽の光熱や雨の霑(うるお)いを与え給う」筈であるのに何故、日本国を特に御守護せられるかと申しますと、それは決して依怙贔屓(えこひいき)ではなく、神の宇宙創造の根本構図であるところの、一切のものには、極微の原子から極大の太陽系統に至るまで、変わることなき中心があるということであります。・・・このように一切の存在には変わらざる中心がありますのに、“国家”なるものだけは、日本国のみがその帰一の中心として皇統連綿不変なる天皇を持続しているのであって、他の諸国の中心は常に弱肉強食禅譲放伐、纂奪交替をほしいままにしており、変化常なき状態であります。このような諸外国の、常に“帰一の中心”の交替する状態は、實相世界の久遠常住の秩序があらわれているとは言えないのであります。このように世界に中心があり、その主権を互いに利己主義的に主張する限りに於いては、世界に戦争が絶えないのは当然のことであります。だから、現象世界に實相世界の調和ある秩序が影を映して、永久平和の全世界が実現するためには、「消滅常なき現実世界が変じて久遠實相世界の常住性を顕現するには、常住性ある国がひろがりて常住性なき国を包みて、十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界としなければならぬ」と神示は教えているのであります。(P.167−168)
F 「常住性ある国」とは、神武建国以来一度も天皇なる中心が廃(すた)れたことのない国のことであると私は考えます。・・・「常住性ある国がひろがりて常住性なき国を包みて」とありますから、何だか「常住性ある日本国が、世界各国を併合したり征服したりする」かの如く誤解を受けるおそれがありなすが、そのように誤解してはならないと私は考えます。それは「武力で包む」のでも征服するのでもなく、「光が十六方位にひろがりて」とありますから、「武力がひろがる」のではなく、自然と天皇の御徳(おんとく)の光がひろがりて、全世界の国々が自由意志で会議の上、永久平和の世界をつくるには世界連邦をつくるより仕方がないと考えるとき、そうすれば、世界連邦も唯、連邦になったままで、各国、自分の好き候(そうろ)を主張しているのでは世界連邦以前と同じだから、連邦をつくる以上、連邦政府の中央主権を象徴する神聖な何かがなければならない。しかし世界各国を見渡してもどこの国にもそのような神聖なる連邦政府の主権を象徴するような方はいない。どうしてもそのような「神聖な中心」を求むれば、日本天皇にそれを求めなければならないのであります。・・・「世界連邦の中心主権の象徴としては、どうしても日本天皇になって戴くより外は仕方がございません」と世界各国から推戴して来る時期が来ることが此処に暗示されているのでありますまいか。・・・世界最高の知性・・・アインシュタイン博士も私の解釈に似たような意見を述べているのであります。(P.169−170)
G このように世界最高の知性も十六菊の家が世界連邦の中央に輝かねばならないことを説いているのであります。その十六の数は一六でありその数字を合すると七つと成り、『創世記』にあらわれたる世界完成の数なのであります。だからその十六菊によって世界はその調和ある結合を完成しなければならぬと私は考えます。ここにある“七つの燈台”とは世界完成の“世を照らす光”であると考えます。アインシュタインをして言はしむればその「完成(ななつ)の光」が中央にあって、世界盟主として立つところの現象世界があらわれれば、それは久遠實相の世界の高天原――瑞穂の国――陰陽和合して中心ある家――生長の家が地上に涌出(ようしゅつ)したということになるのであります。この理想世界は地上に創造されたり、人為によって創作されたりするのではなく、涌出するのであります。「涌出」というのは、既に埋蔵され秘されてあるものが見える世界に湧き出ることであります。・・・實相世界に既にあるものが現象世界に影を映すのであります。しかしまだ現象界にクッキリと影をうつすほどに太陽は高く昇っていない。日本の国威も信用もそんなに高く昇っていない。「太陽はまだ昇り始めたばかりである」と神は仰せられているのであります。(P.171)
H 連綿として不滅に続く、家系の存続によってのみ、実在世界の不滅の実在価値を実現することができるのであります。・・・:過渡時代の個人的及び国際的闘争時代が終末を告げ、所謂(いわゆ)るミロクの世ともなれば全ての「家」は家系連綿として不滅に続き、實相世界の不滅価値を現象化することになるのであります。この家系連綿の価値を国家に於いて実現しているのは萬世一系の聖天皇を戴いている日本国のみであります。だからこの神示には「日本に於いては国と家とは一体である」と示されており、現在に於いて、国が単なる人民のクミ合わせではなく、「国」即ち「家」であるところの「国家」という名称にふさはしい国は世界のうちで唯一つ日本国のみなのであります。仏説の“ミロクの世”ともなれば、全世界の家々が家系連綿によって実在の永遠価値を現象世界に実現し、その全世界そのものがまた一つの家族となるのであります。(P.173)
I 国家にもそれが生命ある有機体であるためには中心がなければならない。すべて生きたものには“変わらない中心”がなければならない。・・・その「中心の生命が全体を一つに統一している」ところに生きた「生命体」と成り得るのであります。だからこの神示には、国というものも、「一つの中心にすべてが統一せられて、萬民その天分に応じてその堵(と)に安んじ、需給の関係でも一つの人体の血液が栄養を運ぶように、全体の細胞への各々(おのおの)適当な資料を、適当な分量だけ過不及なく与えるようになったとき、国は即ち家となり、始めて本当の国家となる」のだと示されているのであります。個人の利益のみを追求したり、一会社の利潤追求のみに専念して、互いに物質的利益を理由に相争うが如きことがあったら、それは「国」の形をしていても、決して「国家」ではない、即ち、“中心生命”に統一せられていない烏合の衆の集団にすぎないということになるのであります。・・・寧(むし)ろ此の“神示の理想世界”の構図は“社会主義国家”の理想構図にちかいともいえるのであります。併し、神様の示されたる“社会主義国家”は決して現実のソ連のような社会主義国家ではないのであります。・・・やっぱり、萬世一系の天皇の如き、<永遠不変の一つの中心> が渝(かわ)ることなく永続しながら、それが君主専制などになることなく、天皇の御心に、萬民の心が反映し、天皇がそれをあきらかに「知ろしめし」て、中心と周辺とが啐啄同時(そったくどうじ)に相合するというように、相互にピッタリ瞬刻限を同じくして、呼べば応えるような国とならなければならない。その時にこそ、「国」は単なる「組」(くみ)ではなく、生命ある「家」となり、「国家」となり、「国そのまま家庭」となるのであります。(P.177−179)
J 大正十二年九月関東大震災のあった時、・・・詔勅を拝しますと、萬民の心を知ろしめして、萬民の味方になって詔勅を発しておられるのでありまして、まことにも正しい調和した社会主義制度のバックボーンとなるのが天皇制だと言わなければならないのであります。名称は社会主義国家だとか、共産主義国家だとか称し、その共産党新綱領には、「プロレタリア独裁の国」だといくら麗々しく書きましても、日本天皇の如き至慈至愛無私の中心者の御心に統一せられて政治が行われない限り、ただの個人が中心者である限り、普通の個人というものはどうしても利欲や権勢欲や色々の私的欲望に左右せられて、本当に萬民の悦ぶ公平なる社会制度はでき上がらないのであります。・・・ソ連の社会主義国家は、名称ばかり社会主義であって、実は官僚独裁の軍国主義国家だと評するほかはないのであります。(P.179−183)
K 萬民幸福富裕の天国浄土的社会を地上に打ち建てんとする高邁な理想も、このようにして、極少数の有力幹部や軍国主義者の贅沢なる生活実現に利用されて、その理想が汚されるのは何故であろうかと考えて見ますと、それは、天皇のような無私無我の神聖存在が国家権力の中心に無く、その抱懐する理想は「萬民至福の地上天国建設」であっても、先ず自分の権力欲や野心や贅沢をもとめる私利私欲の俗物が、国家権力の中心者となるために、看板とする理想とは程遠きところの、逆の現象を呈するに至るのであると考えられます。だから、国家制度の名称を「共産主義国家」と名付けようと「社会主義国家」と名付けようと、その制度を支配し実権を握る人物が私利私欲の俗物や奸物であれば何にもならない。(P.183−184)
L 私は嘗て、生長の家は「天皇中心社会主義」だと言ったことがありますが、「萬民至福の社会主義」の理想が悪いのではない。それには弱肉強食優勝劣敗の単なる資本主義よりもすぐれた点がある。併し、その理想が、私利私欲の、時の権力者によって汚されるために、名称は、社会主義でありながら事実がそれに伴なわなくなるのであります。善き理想を実現するには、「人間・神の子」の自覚をもって、「神の公平無私な完全円満さが何の迷いにも覆い隠される事なく明らかに発揮されたる」至高の“徳”をもち給える人を、“中心権力者”として、それを輔弼(ほひつ)するに是れまた公平無私な私欲なきブレン・トラストを以ってしなければならないのであります。私は、かくの如き“至高の徳”を備え給へる人としては、日本天皇以外に、是をもとめるのは不可能であるとかんがえるのであります。「徳」は肉眼には見えないけれども、それはどんなに肉眼に見える力よりも偉大なる力を発揮するのであります。・・・このような天皇が歴代に多かったからこそ、皇統連綿として皇室がつづき、天皇の名に於いてでなければ治まらないところの従来の日本国家が形成されたのであります。・・・天皇を中心とし首班とする日本国家は一度も滅びたことはないのであります。(P.184−186)
M このようにして天津日嗣(あまつひつぎ)の神武天皇の建国以来、天皇を中心生命とする日本国家は一度も滅びることなく続いているのである。これを此の神示には「天津日嗣(あまつひつぎ)の御子と言うのはその完全円満さが何の迷いにも隠される事なく明らかであるから生命の實相の久遠常住性が形に其のまま顕(うつ)し出されて連綿と無窮につづいているのである。」と訓(さと)されているのであります。註・「天津日嗣」(あまつひつぎ)とは「天界の霊意を嗣(つ)ぐ」と言う意味で、私的意志をさしはさまぬことであります。(P.189)
<まとめ>
■■■ このように開祖・谷口雅春先生は地球に恒久平和を実現していくことに関し、神示を基礎に解かれているのであります。今回の「森のオフィス」の「世界平和のための生長の家教修会」の総裁指導としては、この「久遠天上理想国実現の神示」を詳細に講義せねばならないのに、マサノブ(自称)総裁は、大学の「比較宗教学」の様な唯の知識をひけらかすことにのみ終始したのであります。そして、左翼的唯物論思考からの個人的考えの「世界平和」へと誘導して行くわけであります。こんな教修会は「マサノブ教」の教修会であって、「生長の家」と言う文字を冠すること自体がおこがましいのであります。
☆☆☆ この「久遠天上理想国実現の神示」を正しく理解するならば、「森のオフィス」落慶式に於いても、日本国旗・日本国歌を全面に打ち出すことは何も間違ったことでもなければ、また、「国際本部」だから相応しくないなどと理由付ける必要もないのであります。それに違和感を感じる外国人信徒さんがいれば、この「久遠天上理想国実現の神示」を総裁自らが懇切丁寧に解説講義すれば、「生長の家」真理の奥義として逆に悦ばれ、「唯神實相」真理の理解が更に深まるのであります。これを怠ったマサノブ君は、自ら「私は不適格総裁であります。頭を丸めて出直してきます。信徒の皆様、マコトニ、マコトニ申しわけありません。」と懺悔して辞職すべきであります。もとろん、イソベ君も最後までお供しなさい!
■■■ 『生長の家』は「唯神實相」といいながら、実際は「唯物的現象論」としてしか真理を説けない理屈専門家のマサノブ君の下では、「神社も天皇陛下も、日本のもの。世界のものでない。国家と国旗、国際本部式典に入(要)りません。二拍手もいらない。」というような程度の信徒さんしか育たないのであります。
この様な投稿をされたブラジルの信徒さんには、『生命の實相』の再度の熟読と開祖・谷口雅春先生の神示講義の熟読、特にこの「久遠天上理想国実現の神示」のお勉強を強く望むものであります。 再合掌
-
|
|