生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その六 ・ 七 ・ 八 ・ 九 ・ 十 > (1690) |
- 日時:2013年08月06日 (火) 13時26分
名前:信徒連合
<終戦の月・特集>
*大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*
「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ! 安らかに鎮まりませ・・・」
八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!
<その六>
[ W ] 護国の英霊はかく語りき(霊界通信体験記)
この霊界通信体験記は、広島県尾道市西土堂の木曽正人氏が記され遺されたものであります。氏はその後、天上界に移られたそうでありますが、氏の霊魂の許可を頂きまして、この貴重なご体験を皆さまにお伝え致したく存じます。
<< 昭和五十三年六月末頃より、私は地元の「三都新聞」編集長の小林嘉雄氏から、フィリッピン・レイテ島への戦没者遺骨拾集と慰霊を兼ねた「日比友好使節団」の団長を勤めてくれないかとの勧誘を再三うけていた。しかし、私自身、当該地に直接関係がないこと、また市議会議員としての重責等、多忙で承諾できなかったのだが、私の他に適任者がないと週に二、三回の強引なまでの勧めに、遂に渡比する決心がついたのだった。ところが私の出発直前になって熱心に説得してくれた当の小林氏が急に入院され、十月二十七日の早朝、氏の訃報を受けたのである。「木曽さんが団長を引き受けてくれてよかった、私の役目はおわった。」と彼は亡くなる前、細君に語られたとの事であった。私をフィリッピンに眠る英霊たちの慰霊に是非行かせたいとの一念に生きて下さったのであろう。小林嘉雄氏に心からなる哀悼の意を表するとともに、後で起きた大感動を想うとき、深く感謝の意を捧げるものである。
顧みれば、私が満州の関東軍に従軍していた昭和十九年当初、フィリッピン防衛と現地応援のため、機械化部隊の隊長として着任するばかりになっていた二日前、急遽、内地の学校付転任を命ぜられ、突然の事とてことのほか残念でならなかったが、私の原隊である福山四十一連隊の一部を中心に編成された炭谷部隊は、レイテ島に進出し、悲涙の下に全滅したのである。嘗ての日、転任を命じられなかったならば、今の私はなかったであろうことを思うとき、運命の神の御業か、私に英霊供養等の事をせしむべく残され給うたか、感無量、叉、私をかく導き護り下さる産土の神と、吾が御先祖様に深く感謝の意を表せざるを得ないのである。
運命のビリヤバ部落へ
昭和五十三年十月十九日午後一時四十分、私たち一行はフィリッピンに向けて成田国際空港を出発した。龍宮住吉本宮落慶の直前であった。当初四十一名の団員はコレラ騒ぎ等で逐次減少し、終には十名となり、更にルソン島で八名になった。
マニラ空港には七時着、更にセブ島を経て翌二十日レイテ島タクロバン空港に到着、当初予定した「日比平和の集い」には参加出来なかったが、マルコス大統領夫人宅のレセプションに出席し、翌二十一日朝より、ジープにて炭谷部隊及び他の部隊の戦跡慰霊に出発したのである。
タクロバン市西方約四十キロのトンガ河、更に西南方二十キロの通称五一七高地、リモン峠激戦地跡に到る。此処で炭谷部隊は多くの戦死者を出し、且つ、弾薬、食糧の欠乏、マラリヤ等の病魔に冒され、ついに「天皇陛下万歳」を絶叫して全員壮烈な自決を遂げたという。
次々に遺骨の拾集と慰霊祭を行い、私たち一行は十時十五分、リモン峠から西方九十キロのビリヤバ部落に入った。ここは日本軍各部隊が大集結、激烈な戦闘の末に多数の部隊が全滅し、実に七千名にも及ぶ戦死者を出した運命の地である。山麓に位置するこの地には既に二基の慰霊碑、五十近い卒塔婆が立ち並び過去の慰霊の跡が偲ばれた。私たち一行も持参の品々を供え慟哭の祭典を挙行したのである。
雲集する英霊たち
雲一つない上天気、慰霊祭は、土肥政男「三都新聞」写真部長の般若心経の読誦に始まり、私の弔辞へと移った。その直後である。快晴の天空の彼方から“ドドド-----ン”という雷鳴が轟き渡り、一行を驚嘆させた。更に弔辞を終える頃、再び雷の大音響が轟いたのである。一同、度重なる現象の不可思議に驚き入るばかりであった。過去に二十七回も慰霊及び遺骨拾集に参加された土肥氏は「実に不思議だ。今まで一度もこんなことに出会ったことはない」とこの時の模様を『三都新聞』に記事にされている。引き続き、各自瞑目合掌の内に祈りを捧げていたそのとき、私は驚天動地の如き体験を得ることになるのである。
私は心の奥底で、祖国のために奮戦し武運つたなく護国の神と化された多くの英霊を呼び、感謝の誠を捧げるべく一心に聖経『甘露の法雨』を暗誦しながら精神統一していた。いつしか幽明の境を越えたのであろうか、暫くする内に何とも形容出来ぬ柔らかい、ほのかな光が私の全身に投げかけられているような雰囲気にふと眼を開けた。(肉眼をあけたか、心眼で観たものか、今もって不明だが)
眺めると小高い山頂付近に、柔らかい黄金色に包まれた神か仏か観世音菩薩か、定かには分からない御方が、尽十方に燦々(さんさん)と霊光を投げかけておられる。その両側に何時の間にか入道雲のように(最初は本当に雲だと思った。)横に整然と兵隊姿の英霊が正に雲集して浮かんでいる。その数何千、何万とも知らず、皆ボロボロに破れた軍服に穴のあいた帽子と、見る影も無いほど無残なものでありながら、そのお顔だけは皆二十歳前後の若々しい喜びを満面にたたえて私の方を見ているのである。すると叉、遠方で“ドドド-------“という雷鳴(私には、英霊が口を揃えて歓声を挙げたかに聞こえた)と同時に、中央に居られる神々しいお方の口が動いたと思うや、私の耳元に柔らかい、まるで澄み切った金の鈴を振るような声が聞こえてきたのである。 「よくお出で下さいました。お待ちいたして居りました」と。私は全身にピリピリと電流が流れるような身震いを感じた。信じられない事が眼前に展開されている。!
そのお方は続けられた。――――
「この日を長いことお待ちしておりました。今日まで多くの遺族の方々、立派なお寺の住職、政府派遣の方達が慰霊のために幾度となくお出で下さいました。それは嬉しいことであります。しかし、これまで誰一人として私たちとの話し合いの出来る方と会うことがありませんでした。誰かそのような方をと、数年前より想念を送り続けてまいりました。が、ついに本日こうして貴方に来ていただき話し合いが出来る事は誠に有難いことです。」
私は身に余る感激に唯々合掌し、一心にこの言葉を聴いていた。(もっともこれは帰国後気付いたことではあるが、英霊との交流はフィリッピンへ出発する約二年ほど前より続けられていたのかも知れない。と言うのは、夜半の午前三時から三時半頃になると、私は必ず誰かに起こされていたのである。起きた時は全身に汗をかき、胸の方がびっしょり濡れていたのだ。最初の半年くらいは身体をふき、再度床についていたが、次第に朝六時頃まで眠ることが出来ない状態にまでなってくると、その辛(つら)さは筆舌につくし難いほどで、「生命の実相」を貪り読んだ事もあった。また聖経『甘露の法雨』を仏前で読誦し、一ヶ月ほどは水風呂に入り神想観をし、亀の子たわしで血の滲むほど摩擦もしたが全ては徒労だった。身体は四キロもやせ、気は焦るばかりだった。ところが慰霊祭の旅から帰ると不思議にもいつしかその症状がすっかり消え、ぐっすりと眠れるのである。)
このビリヤバの地で、英霊の「数年前から霊念を送り続けた」と言はれる事と私の身体の現象とを思い合わせるとき不思議な感慨にとらわれるのである。
祖国の再建を約す
中央座のお方は、さらに続けられた。「私たちは、過去三十有余年前、祖国のため第一線に参じ、唯々一死奉公、残念ながら武運つたなく、この地に於いて戦死しましたが、今日に至るも、私たちは魂の安住の地を得ることが出来ませんでした。悲しみの中に、今尚戦い、且つさまよっている霊魂の戦友が沢山おられるのです。私たちは今も“此処”に生き続け、祖国日本を護らんと祈念し続けて来ました。何卒、一日も早く、私たちに安住の地を--------貴方を通じて多くの人にお伝え下さい」!!
そう語られると、周囲に雲集せる英霊が一斉に頭を下げられた。私も自然に深く礼拝したと思う。滂沱(ぼうだ)と流れる涙に胸つまり、恐らくは一切無の心境から、ふっと我に返り、自問自答していた私である。―――有史以来、初めての敗戦によって大きな痛手を受けた日本国民が、占領憲法、日教組教育、マスコミの扇動等で民族の誇る精神文化は喪失され、靖国神社への天皇陛下の公式参拝は言うに及ばず、その国家護持さえもままならぬ今日である。英霊の申されることは痛いほど心にしみる。しかし、急ぐべき憲法復元改正も靖国神社法案成立も、果たしてこの私一人が動いたとて出来る事であろうか、否、否、不可能だ--------。
そう思うや、眼前の黄金色の霊光が急に暗くなり、中央座の御方の御姿は薄らぎ、同時に喜色満面だった英霊の顔が落ち窪んでそれは悲しい骸骨に一変したのである。私は驚嘆し、一心に懺悔し落涙していた。“私は間違っていました。祖国再建に全力を尽くします”と絶叫した。その瞬間、周囲は再び元の霊光燦然たる世界にもどり、神々しき御方の御言葉が再び聴こえるようになった。しかし、それからの内容は、生長の家の信徒の私にとり、誠に衝撃的なものであったのである。
尊師は神であらせられる
「霊界では、これまで祖国の現状を見るにつけ、私たちの死が無駄であったとか、そうではないとか様々な意見があって混乱しておりましたが、この数年間に漸く平定され、今後は現象界が浄化されて来るでしょう。
そのために世界は非常に危機的な様相を呈して来ます。(この内容も具体的に表現されたが本稿では割愛する)日本もその渦中に包含されるが、祖国の上空は私達、念の力で必ず護ります。」
私は思わず反論した。「念の力で、その様な事が可能でしょうか?」
間髪を入れずに厳しい叱責の声。
「念の力がどんなに強いかは、貴方が一番良く識っているではありませんか。」
心に飛び込んで来た響きに、私は素直に謝意を表した。
「しかし、現象の日本国は何と言っても現象界の貴方たちの努力で護るより他に方法はない。私達も勿論応援はします。ところで今、長崎に素晴らしいものが完成しつつありますね。」
「-------はい、鎮護国家出龍宮住吉本宮という住吉大神の御出御を仰ぐ御社が出来ています。」
「私たちは以前から承知しております。誠に慶びに堪えません。その完成の日を待ちこがれていたのです。さて貴方は谷口雅春(呼びすてにされた)を識っていますね。」
「はい、私達、生長の家の総裁先生であります。」
「そうです。しかし、ご存知ですか、あの方は人間の姿をして居るが、実は住吉大神の化身でありますよ。」
その強い響きの言葉に触れた時の私の驚きたるや、言語を絶したものであり、永年の信仰生活の中でこれほどの感動はなかった。
嗚呼、尊師は神そのものであらせられる。
「今後の日本国を護る、その中心になって活動するのは、実に谷口雅春導きになる生長の家の信徒の皆様意外にはありません。確かに自衛隊も必要ですが、まだまだ不十分です。国と国との戦いよりも内部の革命分子の蜂起を未然に防止することに起ち上がって下さるのが信徒の皆様なのです。
しかし、何と言っても、現在の誌友が二百五十万や三百万では不十分です。少なくとも、一千万人の方々が信徒・誌友にならなければ-------この儘ではこの日本国は名のみ残り、真の日本国は永久に顕われないかも知れません。
幸いに住吉大神の御顕斎をする御社が建立され、今後は此処が日本国の真の姿を顕す中心となるでしょう。且つ亦、同時に世界浄化の中心の起点となるでしょう。
以上の事をよく御考慮下さいまして、お帰りになりましたら直ちに是非とも多くの方々にお伝え下さることをお願いします。」
その言葉が終わるや眼前の霊光はすうっと消えていったのである。
天皇国・日本の実相顕現に向けて
その直後、私はドキッと心臓が高鳴るような衝撃を受けて我に返った。誰かが私の肩を叩いたらしい。一気に現象界に目覚めたものの、暫くは自分が何処にいるのか混沌としている有様だった。
霊的対話の時間は定かではない。遺族の方の申されるのもまちまちで、三十分と言う人、五十五分という人も居た。ただ一様に私が立って祈って居たのが、いつしか座して不動になった事を不思議に思っていたとのことである。
あの時の英霊との対話は夢ではなかったと私は信じている。しかし、現象的にはどうしても納得がゆかず、あれこれ悩み乍ら、いつしか歳月が流れ、英霊達との約束もはたされないままであった。心中、申し訳なさで一杯の日々であったが、今や内外の情勢は、刻々緊迫の度を深めつつある。日本を護るため今、ここで起ち上がって尊師の御心を体し、日本国の実相顕現、鎮護国家、人類光明化運動の実を挙げる時は来たと思う。
皆様のご批判を仰ぎ、賛意を表していただけるならば、急遽(きゅうきょ)この体験を知って頂きたい。そう念じつつ筆を執った次第である。
広島県尾道市西土堂町3−13 木曽正人 >>
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<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その七 > (1702) |
- 日時:2013年08月07日 (水) 15時32分
名前:信徒連合
<終戦の月・特集>
*大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*
「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ! 安らかに鎮まりませ・・・」
八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!
<その七>
[X] 天皇陛下の真実を知る
(終戦時の貴重な体験)
私が終戦を迎えましたのは、北京郊外の豊台貨物廠でありました。貨物廠(かもつしょう)といっても、二里四方もある厖大(ぼうだい)な貨物廠であり、北支の軍需物資を賄う貨物廠で、終戦時まだ二年や三年は充分あると云われていたその在庫物資を、蒋介石軍へ引き渡すその受け渡し業務が軍属だけでは手が足りないので、兵隊の中から適材を五名選ばれたその中の一人に私も入っていました。業務と言っても、大体書類作りでありましたが、警備任務は一般の兵隊と変わりなく余分の任務を与えられた訳です。書類作りも大体順調に進み、翌年三月末に完了いたしました。三月三十一日に部隊長から、君達には本当に済まぬ。他の者が休んでいる時に余分の仕事をやってくれたお蔭で本日受け渡しが完了したので、そのお礼として、今日は炊事にご馳走を作ってもらっているから、酒やビールも飲み放題で歌っても踊ってもよろしい、無礼講で思う存分やってくれと部隊長のお許しが出たので軍属さんが三十名、兵隊が五名計三十五名が料理の並んでいる畳敷きの特別室に入って行きました。
ところが、オカシイことに、席が十二、三余っています。軍属さんに「これは、誰が来るんですか?」と尋ねますと、「急に予定が変わって支那人が十二、三人加わるそうだ。」との事でした。しかし、それでは部隊長があんなに言ってくれたのに慰労会にも何にもならないんではないかと皆んなでブツブツ言っているところへ、入口のドアが開いて支那の将校が六名、下士官兵が七名、計十三名が入って来てその空いた席へ着いたのですが、
折悪しく私が一番端っこに座っていましたので、一番先の大佐だったと思いますが一番偉い将校が、私の隣の席にすわるのです。“万事休す、これは困ったなあ”と私が思っている矢先にその将校が膝をかがめて座りながら日本語で、
大佐 「日本人は良いなあ--------日本人はいいなあ-------- 日本人は良いなあ--------日本人は本当に良いなあ-------- 」
と、如何にも羨(うらや)ましそうに言いながら座ったので、私は、これが支那語で言われたのではチンプンカンプン分からなかったのですが、正確な日本語で「日本人は良いなあ------」と言ったものですから、私は“へんだなあ”と感じて遂い口が滑って
私 「只今、日本人はいいなあ----と仰いましたが、負けた日本人が何でそんなに良いんですか?」
大佐 「それは、日本は一つだもの」
私 「日本は一つだとは、何のことですか?」
大佐 「日本は天皇だもの」
私「一寸待って下さい。日本にまだ天皇は居られるんですか?私が習った外国歴史の範囲では、西欧に於いてこんな大戦争に負けた国の帝王(元首)が、そのままの地位を維持していた事を聞いたことがない。処刑されるか自殺するか国民に暗殺されるか、よく行って島流し(亡命)となっているのですが、何故、日本の天皇はまだそのままの地位にいられるのですか?」
大佐 「それは、日本の天皇は“力”でなって居られないからだよ」
私 「その“力”とは、軍力、権力、金力、物の力でなって居られぬと言う事ですか?日本の天皇は愛とか徳とか仁徳でその地位に居られたという訳なんですか?」
大佐 「そうだ、今の天皇だけではない。大昔から日本の天皇は代々そうなっているのだ。しかし日本でも天皇が居られなかったら、その日から二つの世界(分断国家)になるよ。日本には天皇が居られるから二つにならずに済んでいるのだ。二つの世界くらい哀(あわ)れな世界はない。今の支那を見よ。日本との戦争は終わったが、政府軍(蒋介石)とパーロ軍(共産軍)と、二つに別れて戦争している。二つの世界になったらどんなに哀れな惨(みじ)めな事になるか日本人にはとても分からないだろう。」
先程からこの将校と話をしているうちに、チョット私の頭に不審な点が浮かんで来ました。その大佐が日本語は標準語でペラペラだし、日本歴史も仲々詳しいし、顔を見ていれば日本人ソックリなので、この将校は支那人ではなく本当は日本人だな、これは一つブッケに聞いて見てやれと、
私 「失礼な事をお尋ね致しますが、あなたのお話をさっきから聞いていますと、日本語はペラペラだし、日本歴史にも詳しいし、お顔を拝見すれば日本人そっくりなので、若しや貴方は日本人と違いますか?」
大佐 「イヤー違う。自分はポンポコの支那人だよ。」
私 「それでは、どうしてそんなに日本語がうまいんですか?」
大佐 「それは、僕は十五年も日本に居たのだ。日本の士官学校も出ているし、日本の“中尉”の資格も貰っているのだ。長い間、日本に居たので特に日本歴史に興味を持って研究しているし、お前よりも詳しいかもしれんぞ。だから蒋介石も私をこんなに重く用いてくれているのだ。蒋介石も日本の士官学校を出ているし“中佐(?)”の資格もあるのだ。特に蒋介石は大の日本天皇贔屓(びいき)であって、実際は天皇政治を支那でやりたいと思っていられるのだが仲々難しいのだ。だが、日本は一つでいいなあ--------」
私 「それでは、二つの世界になったらどんな処が哀れな処なんですか?惨めな事と言われるそれを私に話して貰えないんでしょうか?」
大佐 「それをこれから話すから良く聞いてくれ。実は、私は今日で二週間、一睡もしていないんだ。二つの世界になったら、こんな事になるんだ。私だけではない。こんな人が何百何千何万と出来てくるんだ。」
私 「そんな馬鹿なことがあるもんですか。人間は一ヶ月断食しても死なないが、一週間一睡もさせなかったら死んでしまうと言われているのに、二週間なんてそれはウソですよ、何ぼうか眠って居られるんですよ。」
大佐 「馬鹿を言うな、ホントだよ。本当に二週間一睡もしてないんだ。私が抱かえている問題が今日中に解決出来なかったら、私は今晩自殺するか気が狂うか、二つに一つどっちかだ。こんなに悩んでいる支那人は何百何万と居るんだ。日本人には一寸判らないだろうなあ------ああ------日本人はいいなあ-------」
私「それはまた、どう言う訳なんですか?」
大佐 「それは、二つの世界になったら、戒厳令(かいげんれい)が発令されるし、密告制と言うものが施かれるのだ。この密告制が曲者なんだ。もし自分に或る悩みがある時にこの悩みを密告制があるばっかりに、この悩みを誰にも打ち明けて相談することが出来ないのだ。親にも子供にも兄弟にも、自分の最愛の妻にさえ打ち明けて相談する事が出来ないのだ。勿論、友達や先輩でもダメ、一度その事を打ち明けたらスグその筋へ密告せられるのだ。相談を受けた方がその事を密告しなかったら、それが後からばれたら不密告罪と言う刑罰に処せられるんだ。だから、相談を受けたものは密告してもせなくても、相手か自分かどちらかが罰せられるので、うっかり相談が持ちかけられないんだ。
人間と云うものは心に悩みのあるとき、その事件そのものは解決されなくても、悩みを打ち明ける人があって、その事を聞いてくれさえすれば、その人の悩みは半減するものなんだ。その反対に、悩みを打ち明ける人が居ないときは、その悩みが嵩(こう)じて一週間も二週間も眠れないような事になるんだ。こんな事は日本人には本当の事が判らんだろうなあ--------。
今日、実は自分たちがこんな日本人の慰労会の席へ出る予定は無かったんだが、部隊長に許可を貰って日本人だけの席へ出させて貰って日本人なら密告の問題も起きないから適当な日本人を見付けたら、自分の悩みを一応聴いて貰う心算でこの席へ出さして貰ったのでこの件は部隊長にも話してなく秘密なんだ。
それでこの部屋へ入って、さっきから見ると、どうやらあんたが一番年長の様だし(私はその時40才、他の兵隊や軍属は十才以上、下だった)一番頼りになれる人の様に見受けられるから、気の毒でも私の悩みを聴いて貰えないか、そう云う訳だから是非よろしく頼む。」
私 「困ったなあ、そんな難問題を持ちかけられても私が貴方の良い相談相手になれれば宜しいが、一応あなたの悩みとはどんなものか聴く事に致しましょうか?」 大佐 「それでは聴いてくれますか。有難う、有難う。実は、私が日本の軍隊教育を受けており、日本の中尉の資格もあり、蒋介石軍の重職に居るというので、若し今パーロ軍(共産軍、今の中国軍)の方へ来てくれればパーロ軍の最高の地位にしてやると云っているのだ。(その時のパーロ軍の将校の中には、日本の軍隊教育を受けた者がいなかった)それで自分としてパーロへ行くべきか、蒋介石軍に残るべきか思案に暮れているのだ。密告制があるので支那人には肉親の者さえ、誰一人も相談する者が居ないので、今日は幸い日本人の貴方に会うことが出来たので相談するのです。良い判断をして下さい。」
私 「難問題を持ち掛けられましたなあ-----、それではお尋ね致しますが、今、支那は二つに分かれて内戦を起こしていますが、支那の将来は蒋介石が天下をとるのか、パーロ(共産)が天下を取るのか、予測はついているのですか?それから聴きましょう。どちらなんです?」
大佐 「それなんです。私の予測ではパーロが支那の天下を取るのは確実なんです。それで私も悩んで居るのです。」
私 「そんなにはっきり予測がついているんだったら、この問題は案ずる事はないではないですか。パーロへ行く事に決めたらそれが一番良いとおもいますが、」
大佐 「あんたは他人事の様に言いますが、そんな簡単に行くものですか。私がこの北京に接収官として来ていると云うても、家族の者も親戚の者も皆んな南京の近くに居り、人質ですよ。私がパーロへ走ったと知れたら家族の者も親戚の者も皆んなチョンです。(大佐は右の手で自分の首を打つマネをする)自分一人でパーロへ行くなら、今からでも連絡すれば直ぐ迎えの者が来るのです。自分一人で行く事は楽なんです。しかし、一人でパーロへ行って最高の役に就いても何の楽しみ幸福がありましょうか?」
私 「そんな事では、何にもなりませんなあ-----、家族の者を何人かでも連れて行くような事ぐらいは、貴方のような偉い人なら何とかうまい工夫を講じて行く事が出来るのではないのですか?」
大佐 「それが出来ないから困っているのです。第一、私のその計画を家族の誰にも知らせる事が出来ないのです。密告制がある為にです。だから貴方に頼んでいるのです。今日中に解決しなかったら、私は今晩自殺するか気が狂うかどちらかなんです。さっきの様に蒋介石が負けるに決まっているならパーロへ行けば良いと他人事の様に考えて貰っては困ります。もっと真剣に、自分の行き先を如何に決めるべきか、今晩死ぬか生きるかの瀬戸際に立っている私の身になって、もっともっと真剣になって考えて下さい。頼みます、頼みます。」
もう、その時の将校の真剣さと言ったら、私の膝と膝を突き合わせて、私の膝の上に手を当てて、“頼む、頼む”と急かれては、私の解決策がヘタをしたらこの将校を今晩殺してしまう。エライ事になった。遂に私も、私の考えだけでは解決にならぬと初めて神様にお願いする気になった。
私 「それでは一寸待って下さい。私も真剣に考えます。私が若し貴方であったらこれをどうするか、私が貴方の身になったとして、此処をどうするか、今しばらく考えさして下さい。」
大佐 「そうだ、そうだ、それでなくては。どうか頼みますよ。」
そう言って二人は、膝と膝を突き合わせたまま、瞑目沈思、時間は何分経ったか覚えません。真剣に神に祈りました。何処からか神の声と云うのでしょうか、私の心の中に決然とした指針が浮かび上がって来ました。私は、決然とした言葉で口を開きました。
私 「判りました。これから云いますよ。よく聴きなさい。私が貴方であったら、私はこう致します。日本には、古来より“二君に仕えず”という格言があります。如何に蒋介石が負けて、天下はパーロのものになりましょうとも、私の一生は蒋介石に捧げ、蒋介石が如何様になられましょうとも蒋介石と運命を共にする事に決めます。これが蒋介石への今までの御恩に報いる途でもあります。もし私が貴方であったら、こうハッキリ決めさして頂きます。そこから先は貴方のお考えにして下さい。」
と、きっぱり申しますと、大佐はジイ-----とひととき瞑目沈思していましたが、大きな声で決然と、
大佐 「よーし、私もそうする!! 決めた!!決めた!! 有りがとう!! 有難う!! ありがとう!! 有りがとう!! 有りがとう!!」
眼の前の私を三拝九拝、声の続く限り、“ありがとう”と私を神様のように拝むんです。人から神様の様に拝まれたのは、私にはこれが生まれて初めての仕舞です。それが一段落して、また三拝九拝して、今度は、
大佐 「有りがとう、有りがとう。今晩はぐっすり眠れる、今晩はぐっすり眠れる。有りがとう、有りがとう。」
と、また三拝九拝です。
ココまでは良かったのですが、ハタと私は気が付きました。コレは大変な事になった。これは大事(おおごと)だ。これは大事(おおごと)だ。私は大佐の膝を叩いて、彼の耳に口をつけて、小声で、
私 「あんた、何んちゅう事、仕出かしたのです。あれ程に密告制、密告制と云うとったのに、貴方と私とのあの会話を列席の支那の将校、兵隊達が皆んな聞いているではありませんか?これをどうするんですか?
大佐 「ア――心配なし、心配なし。今日はこういう事になると思って、日本語の判る将校も兵隊も一人も連れて来ていないんだ。実は、日本語の判る将校が四、五人居たのだが、今日は連れて来なかったんだ。その心配無用だ。二人の話は彼らにはチンプンカンプンだ。」
私は、これを聞いて一安心しましたが、待てよ、席には日本語の良く判る日本兵や軍属が三十数名もいるではないか、若しその中の一人でもこの事を支那人に話したらどうなるのですか?心配いらんのですか?と私が言いますと、
「それも心配無用」、
「それは、どうしてですか?」と言うと、
「あんたらは、もう支那には用はないんだ。五日以内に北京を出発して日本に帰るんだ。日本に帰ったらこの話をシッカリ日本人にしてやれ。日本がどんなにスバラシイ国であるかという事を知ることだ。
天皇陛下がどんなに貴い御存在であるかという事が判るだろうから、私が話した事を日本に帰ったら日本人の皆んなに話してやれ。二つの世界がどんなに哀れなか、密告制がどんなに酷(むご)い事、哀れな事であるかを話しにする事だ。
日本も天皇が居られる間は、二つの世界になる事はない。密告制なんか出来ようがない。しかし、若し天皇が居なくなったら日本だって其の日から二つ(分断国家)になるよ。二つになったら、今の支那と同じだよ。哀れな惨めなものよ。
日本人はもっと大昔からの歴史を調べねば駄目だよ。天皇制が、如何にスバラシイか、日本の宝であるだけではない。世界の秘宝だよ。これが判っている日本人が何人いるかなあ、あんただけでも天皇を大切にせねばいけんよ。と懇々と尊王道を私の魂にぶち込んでくれました。
私 「今の御言葉の中に、部隊全員五日以内に北京出発復員と云われましたが、それはホントですか?」
それは、終戦後、何時帰国出来るのか将校に聞いても分からなかった事が、足元から鳥が立つと云うか、大佐の口から案外に耳に入ったもので半信半疑で質問した訳です。
大佐 「間違い無し。北京貨物廠の全物資は全部接収済だ。私方に皆貰ったんだ。あんたらの用事はもう何にも無くなっている。蒋介石は「恨みに報いるに、恩を以ってする」と日本兵は一人残らず帰国さすと宣言している。北京支廠の兵隊軍属の出発の日時に就いては私が命令を出すのだから絶対間違いなし」
これを聞いて、一座の連中、兵隊も軍属も飛び上がって大喜び、支那の連中は御馳走にも手をつけず引き上げて帰りました。
大佐さんと私とは“有りがとう、有りがとう”と、どちらも感謝一杯の手を固く固く握り合って、最後の別れを告げました。
私達も慰労会はそこそこで、すぐに隊舎に飛んで帰り『五日以内に北京出発、全員帰国だ』の報に隊中涌き返り大歓声、何年先になる事やら大体帰国する事が出来るのか、それさえ判明していなかった矢先の事ゆえ、皆んな大喜び、班長連中も飛んで来て「野宗ホンマか?間違いないか?」と、半信半疑で問いかけます。
ざっと簡単に今のイキサツを話して絶対間違いなしと云う事が判り、早速中隊中、復員準備。ホントに五日以内に北京出発、天津から佐世保上陸、三年振りに本土の土を踏み故郷(新市)に着いたのが四月十日でした。あの大佐さんが云うた通りでした。
それから四十五年間、天皇陛下の御地位がどうなるのかと静かに観察しておりましたが、当座は、“天皇陛下”という人は稀で、共産党、社会党なんか、天チャン天チャンはまだ良い方で、天コウ天コウ、税金ドロボー、有りっ丈の悪口ばかりで天皇陛下の真価の発揚は仲々でしたが、年が経つに従って天皇の真価は発揚されまして、天皇国日本の実相は顕現し、遂に世界第二の経済大国にまで発展して来ました。
“この功績の第一番の方が天皇陛下である”とマッカーサー元帥が自分の回顧録にハッキリ書いているではありませんか。
此のスバラシイ日本に生を享けた我々は、父母に感謝し、御先祖に感謝し、天皇陛下に感謝の誠を日々捧げる事にいたしましょう。これで私の体験談を終わります。
平成二年十月二十日 広島県芦品郡新市町大字新市七九一 野宗章三(八十三歳)
(野宗氏追記)
天安門事件以来、現在でも中国(支那)には、密告制が敷かれているのですよ。
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<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その八 > (1704) |
- 日時:2013年08月08日 (木) 16時14分
名前:信徒連合
<終戦の月・特集>
*大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*
「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ! 安らかに鎮まりませ・・・」
八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!
<その八>
[ Y ] 天皇とその責任 (昭和天皇侍従次長・木下道夫氏著)
<<憲法の有無に拘わらず、或いは又、憲法が天皇の御地位について、たとえ、いかような表現文字を使用するかに拘わらず、天皇は日本国民の運命に関しては、皇祖皇宗に対し絶対の責任を自覚せらるるおん方であると私は考える。これが私一個の孤独な考えであるか、多くの人々の共鳴を得る考えであるか、私は知らないが、若干の年月、陛下の側近に奉仕した自分としては、かく思わざるを得ないのである。この御自覚は、遠い昔から永く皇統の上に存するものであって、憲法によって生ずるものでもなく、又、憲法によって消滅するものでもない。
これは今から二、三十年前のことであるが、当時私が侍従として陛下のお側にお勤めしておった或る日の夕刻、内閣書記官があわただしく一つの上奏箱を持って侍従職に馳せつけてきて、これは総理大臣の急ぎの上奏であるから至急御裁可を仰ぐように取り計らって貰いたい、との口上であったから、私はそれを受け取って直ちに御座所に赴いた。折から陛下は何か御読書中であったが、私はお机の上にある鍵箱から鍵を拝借して、この上奏箱を開いた。これは常例のことで、内閣の上奏箱は、この鍵でなければ開けることができないようになっているのである。箱の中に入っていた書類はただの一件であったが、それは政界の某巨頭を犯罪の嫌疑で逮捕起訴しようという案件であった。この事件については、既に新聞が大騒ぎで大々的に報道していたことで、その汚職事件の火中の大人物を司法大臣が果たして断固起訴するかどうかということが一般の注目の的であった。私は書類の表題を一見して、さては総理もいよいよ決心がついたのかと思いながら、それをお机の上に差し出した。
汚職といえば陛下の最も忌み嫌われることであるから、私は陛下がすぐに裁可の印をお捺しになることとばかり思っていたところ、意外にも、陛下は、この書類を御覧になるや否や一瞬非常に苦悩の御様子をお示しになった。はてなぜそんなにおん悩みになるのであろうかという、かすかな疑問が私の脳裏をかすめたが、陛下は上奏書に添付してある司法大臣の数枚に亘る起訴理由書を、ジーッと悲しいおんまなざしで、繰り返しくりかえし、御覧になっておいでになる。
当初私は内心いささか痛快な気持になっていたのだが、この陛下の悲痛な御様子を拝見しているうちに、私もだんだんと考え直し始めた。恐らく陛下は、新聞紙上に騒がれている問題が単なる噂や中傷であれかしと、おん心ひそかに祈っておいでになったのではあるまいか。それが今、公正な司直の手にかかって愈々これが事実に近いということになったのだから、はた目にも御落胆の御様子が、しみじみと伺われる。
陛下が、この上奏に対していかなる御決裁をなさるであろうかと、最後の決着をお側でおまちしている私の胸のうちには、このとき色々な思いが浮かんできた。われわれの仲間には多かれ少なかれお互いの間に彼我の対立感というものがあって、正と不正、義と不義、美と醜、貧と富、強と弱、智と愚等あらゆる名目にこだわって、われと彼とを比較計量することはやたらにするが、ほんとのところ実は、彼と我とは相去ること余り遠くないということにはとんと気がつかずにいる。ところが陛下はこの対立感というものを少しもお持ちにならないのだから、汚職そのものを嫌われることは明らかだけれども、汚職をした人を憎しと思われる御様子は少しもない。ただ汚職の横行する世の中をいとも悲しと嘆かれておられるのであろう。十年以上も年上の私がつい今まで、心のうちに、いささかなりとも痛快味を観じていたということは、何んという浅ましいことだったかと限りなく恥ずかしくなってきた。
理由書の御熟読はなかなか終らなかったが、とうとう最後に、陛下は裁可の印をお取り上げになって上奏書にお捺しになった。これでいよいよ起訴は決定した訳である。私はその書類をいただいて上奏箱に入れ、鍵をかけ、私を待っている内閣書記官に急いで渡そうと思って、御前を退いて一歩御座所を踏み出そうとしたところ、陛下は私をお呼び止めになった。
何か別の御用かと思ってお側に参ったところ、陛下は沈んだお声で唯一言、結局私が悪いのだと仰せになって考え込んでおいでになる。私はお側に立ちながら、ああ、かほどまでにおん身を責められるのか、真に申し訳ないことだと思っていると、つと椅子からお立ちになって、縁側においでになったから、私も無言のままお後について縁側に出た。丁度秋の非常によく晴れた日で、夕日がお庭の松に照りそっていたが、澄み切った蒼天を仰いで静かに、わたしが悪いのだよ、どうすれば政治家の堕落が防げるであろうか、結局わたしの徳が足りないからだ。どうしたらよいと思うか、とおん嘆きになる。
つい先刻まで、浅はかな持ち前の対立感から、いささか痛快味を味わっていた私ごときものに、どうしてこのお答えができよう。万感胸に迫り、私はただ無言、低く頭を垂れ泣かんばかりで御前をさがってきたことがあった。今でも秋の澄んだ夕空を眺めていると、ときどき、この折のことを想い出す。>>
<<戦後十年、昭和三十年九月十四日の朝、私は何気なく読売新聞を手にとって第二面を開いたところ大見出しで「天皇陛下を賛えるマ元帥」という題で、重光外務大臣の寄稿が載っていた。これを読んでいるうちに、私の胸の中は歓喜感激の情が怒涛のように高鳴ってきた。それは敗戦以来私の心のうちに、ひそかに求めに求めていたあるものを遂に発見したからである。先ずその寄稿の要点を次に掲げる。
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(昭和三十年九月十四日 読売新聞第二面)
天皇陛下賛えるマ元帥
重光 葵
私の渡米中最も印象深かったマッカーサー元帥との会見の模様を少しばかり御披露申し上げます。
九月二日ニューヨークにおいて御前十時半、十年前のこの日を思い出でつつ加瀬国連大使と共にマッカーサー元帥の住んでいるホテル、ワードルフ・アストリアの玄関先に着きました。元帥の副官であったホイトニー将軍やスクリップ・ハワード通信の主、ロイ・ハワード氏らに迎えられた。間もなくエレベーターで元帥のアパートに昇る。
有名なワードルフ・アストリア・ホテルのタワーの一角である。アパートの入り口まで出迎えられ堅く私の手を握った元帥の全身は興奮のあまりふるえている。腕組みしながら私を自室に導いてソファーの上に座をすすめ自分はその側のイスについた。
(中略)
重光 「東京出発前、那須御用邸で天皇陛下に拝謁した際、陛下は“もしマッカーサー元帥と会合の機もあらば、自分は米国人の友情を忘れたことはない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝してその健康を祈っている”と伝えてもらいたいとのことであった。」
マッカーサー 「自分は日本天皇の御伝言を他のなにものよりも喜ぶものである。私は陛下に御出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚(はばか)らないのである。それにもかかわらず陛下のなされたことは未だかつて十分に世に知らされて居らぬ。十年前平和再来以来、欧州のことが常に書き立てられて陛下の平和貢献の仕事が十分了解されていないうらみがある。その時代の歴史が正当に書かれる場合には、天皇陛下こそ新日本の産みの親であるといって崇められることになると信じます。
私は戦前には天皇陛下にはお目にかかったことはありません。 始めてお出会いしたのは東京の米国大使館内であった。どんな態度で陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下はまず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。即ち“私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされた総ての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総べての事を進めていただきたい。私は全責任を負います”これが陛下のお言葉でした。私はこれを聞いて興奮の余り陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがなうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るというこの日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念はその後益々高まるばかりでした。
陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。とともに決してその尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。どうか日本にお帰りの上は自分の暖かい御あいさつと親しみの情を陛下にお伝え下さい。その際自分の心からなる尊敬の念をも同時にささげてください。」
重光 「それは必ずお受け合いもうしあげます」
以上が私がニューヨークでマッカーサー元帥と再会した時に、元帥が天皇陛下の思い出を興奮した態度で私に話したものを、当時同席したロイ・ハワード氏が速記していた記録に照らし合わせたものである私はこれを聞いた時はほんとうに感激した。
終戦の当時、戦犯の問題はもちろん追放の問題まで大騒ぎであった。その空気の中で天皇陛下は少なくとも自らをかばおうとはせず、戦争に対する国家国民の行動については如何なることも全責任を取ることを敵将に明言されたのである。
その大御心(おおみごころ)は真に天日の如く世界を照らしておるというべきである。私の言葉は旧式の感傷の言葉ではなく、歴史上の事実に対する感激の言葉である。この歴史的事実は陛下御自身はもちろん、宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。
それがちょうど十年経った今日、当時の敵将、占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何というすばらしいことであるかと思った。われわれはなお日本民族の伝統を保っている。今日も君民一体、一君万民という古い言葉があるが、日本民族のうるわしい姿をマッカーサー元帥の口から聞き得たという感激をもって、ワードルフ・アストリア・ホテルを正午近くじきょしたのであった。
陛下はマ元帥に前後三回お会いになっているがこの記事は第一回の御会見に関するもので、敗戦直後の昭和二十年九月二十七日のことである。この御会見はわれわれとしては甚(はなは)だ恐縮のことながら陛下の方からマ元帥を米国大使館内に御訪問されたのであって、しかも元帥はお出迎えもしないで自室に待ちかまえて陛下を引見したのであるが、
お帰りの際には打って変わって、いとも丁寧に玄関までお見送りをしている。恐らく“見ると聞くとは大違い”の感があったのであろう。元帥が天皇を裁判に付することに絶対反対し、もし左様なことをすれば占領軍はなお百万の増援軍を必要とすると本国政府に抗議したことは、その何よりの証拠である。
マ元帥の室に陛下は通訳ただ一人を伴ってお入りになり、マ元帥もただ一人、一対一の御会見で会談の内容は極秘の御約束のもとに行なわれたものである。その内容に付いて当時、巷間(こうかん)色々な憶測は流布されたが、陛下は一切を黙して一言たりともお口にお出しになったことはない。然るに十年後とはいえ、マ元帥が敢えて重光さんに事の真相を物語ったのは、元帥自身の世界情勢判断と且つ陛下に対する深い思慕の情と非常な好意とが然(しか)あらしめたのであろう。このことの当否は別として、とにかくこの記事によって初めて御会見の内容を知り得たときの私の喜びは譬(たと)えようのないものであった。
戦前十余年間、陛下のお側をはなれていた私は戦後侍従次長として再びお側にお仕えすることになったが、当時の国内情況は万事一刻も油断のならない場合であったので、私は自分の事務所にベッドを持ち込んで夜を過ごすことが多かった。
したがって夜毎に陛下のお話をゆるゆる承る機会があったが、陛下は戦争に関する御自身の責任に付いては一言も触れられるところがなかった。私の胸の中には十数年前のあの秋の夕の深刻な記憶があるので、今の陛下のお心持は充分に御推察申し上げてはいたが、一言もこれにお触れにならないのには何か訳があるに相違ないと思っていた。
それが十年後の今日、当のマ元帥自身の口から事の真相が語られた次第であるから、私としては、雲はれて再び万古に変わらぬ天日を仰ぐ喜びで胸も張り裂けんばかりであったのである。陛下は約束を絶対にお守りになるお方である。元帥との堅い御約束があったればこそ、この問題に関しては絶対に沈黙を守りつづけておいでになる。当時は民間に天皇責任論が盛んに話題となって論議されていた際のことでもあるから、お心中さぞおつらかったことと思われてならない。
戦後、陛下は全国荒廃の各地を御旅行になり、私も初期お供したことがあるが、国民の狂気歓呼の奉迎振りは目をみはるものがあった。国民は陛下がおん自ら戦争の全責任を一身にお負いになって敵将の前に厳然と立たれたその尊いお覚悟は知るよしもないにしても、何かしら心自ら通づるものがあったのではなかろうか。>>
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<終戦の日・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* <その九> (1711) |
- 日時:2013年08月09日 (金) 10時42分
名前:信徒連合
<終戦の月・特集>
*大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*
「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ! 安らかに鎮まりませ・・・」
八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!
<その九>
日本近代史の第一級資料「東條英機・宣誓供述書」<その一>
はじめに―― 本日より数回にわたって、日本近代史の第一級資料「東條英機・宣誓供述書」の抜粋を掲載いたします。 出典は、<「大東亜解放戦争」下巻 岩間 弘 著(P.168〜245) > からであります。
現代日本に於ける、元首相・陸軍大将であられた東條英機氏の歴史上の評価は、日本を侵略戦争へと導いた大悪人であるかのごとく評価する人が非常に多いのでありますが、これは戦後日本の自虐史観教育のしからしめるところであります。そのような評価が果たして正しいのか、日本が本当に侵略を国策として遂行した悪い国であり、それを阻止した連合国(米・英・蘭・その他)が善の国であったという評価を鵜呑みにしていいものかどうかを、この「東條英機・宣誓供述書」を読んで各自で御判断いただきたいと思います。
その前に、是非とも予備知識として知っていただきたいことが二つあります。この二つのことは、戦後教育によって培われたる過てる自虐的先入観念を中和して、正しい公平な目で近代日本史を把握する為に非常に大切な役目を果たすものであります。このことを頭に入れて読んで頂きますと大東亜戦争の真実が正しく理解できるのであります。
[ T ] 『古事記と日本国の世界的使命』 (P.4〜6)
<歴史を研究する目的>:開祖・谷口雅春先生の御文章
<< 歴史というものは一体何であるかといいますと、現象界に實相が如何に投影し表現されて来るかということの、その現われ方、即ち實相が現われる場合の作用、反作用という風なものを次第に追うて並べて行くことによって、その民族に如何様に實相が現われ、實相が現われんとするに当って如何に反作用を起し、自壊作用を起したかを知り、それをずっと時間的に貫いて観てそこに實相が如何なる相を以って現われるかという事を知ることによって、大宇宙に於ける日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が国家構成の一員として及び個人として如何に生きていくべきものであるか、将来この世界は如何に発展して行くべきものであるかということをはっきりさせるためのものが歴史の研究であります。ですから、歴史というものは単に過去の記録を書いたという風なものではないのであって、生命の生々流動の流れの相、實相が現象界に貫いて響き出る時のその儘の相が書いてあるのであります。その相を見ることは自分自身の生命の相を見ることであり、宇宙の相を見ることであり、宇宙が、自分が、今如何に生き抜いて、今後如何に発展すべきであるかということを知ることであります。・・・動かない過去の記述を読むようなつもりで読んで頂いては間違いで、實相が迷いを通して輝き出るときの波動紋理というものを把みださねばならない。換言すれば、吾々日本人が如何に實相を生き、如何に自壊作用と闘うて来たか、という事の記録が現われているのであります。>>
[ U ] 「大東亜解放戦争」下巻 岩間 弘 著(P.241〜245)
<東條英機の慟哭>
今、東條英機の供述書を終って思うことは米軍の逮捕の使者が自宅に来た時、東條英機はピストル自殺を図ったが、どうしたことか手元が狂い自殺を為損ったのであった。首相で陸軍大臣という最高責任者だった者がと世間から冷笑を受けたが、あれは神様が日本の為に死なせない様に、手許を狂わせたものであったと私には思えてきた。
東條英機ほどの人が普通だったら手元が狂う筈はないからである。多くの人達はそんな馬鹿な、とお思いになるかも知れないが神様は全知全能であるから、神様なら不可能を可能にすることが出来ると思う。之は信じるか信じないかの問題だから、判ってくれる人は判ってくれると私は思う。
さて余談になったが神様は東條英機にこの供述書を書く意思と時間を与えて下さったのだと私は思う。大東亜戦争について述べるのに、どんな人が書こうがこの東條英機の供述書に勝るものはないと私は思った。“神様は日本を護って下さっている”これを読むとその感が深い。多くの人がこの供述書を読むことによって、日本が戦った大東亜戦争の実相を知ることが出来て、日本は侵略国ではなかったのだという事を正しく知ることが出来るのではないかと思うのであります。
その言葉に、行間に、天皇への忠誠と、憂国と愛国の裂帛(れっぱく)の気合が感じられる。そこには死を覚悟した、いや、生死を超越した勇者のことばがあるのみである。
さて、東條英機のお孫さんに岩浪由布子(いわなみゆうこ)さん(本名岩浪淑枝=英機の長男英隆氏の長女)が居られるが、その方が書かれた『祖父東條英機「一切語るなかれ」』があるが、その中に「祖父が巣鴨拘置所にあった時に三浦先生は東條の主任弁護人、清瀬一郎先生と弁護の仕方で激論を交わしたことがある。
清瀬さんは東條の罪を軽くすることに奔走されていた。しかし、三浦先生の考え方は違っていた。たとえ死刑になったとしても、法廷では東條は堂々と自分の考えを述べるべきだと。そうでなければ、何故戦争を始めたかの一番大切なところが曖昧になるという立場をとられた。祖父もまったく三浦先生と同じ考えだったからこそ、あれほど堂々と法廷で自論を述べることが出来たのであろう。」と書かれている。供述書の終りの摘要に堂々と述べている。再び述べると
「私は茲に重ねて申上げます。日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。
一歩は一歩より進み又、適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い之を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。
当年国家の運命を商量較計(注・左右する)するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起ったという事が唯一つ残された途でありました。
我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。
戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。
第一の問題は外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。
私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。
私は未だ嘗て我国が本戦争を為したことを以て、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が、個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。
第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私は、之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。」と結んでおります。
大東亜戦争は自衛戦であったというのは、その日本と戦った米国の連合国最高司令官マッカーサーは昭和二十五年五月二十五日、北朝鮮が突如三十八度戦を突破して韓国に攻め入った朝鮮戦争によって、共産主義国の脅威にはじめて目覚めて、朝鮮戦争に原爆を使うかどうかについて、トルーマン大統領と意見が合わず解任された後、アメリカ上院で証言し、「日本が太平洋戦争を戦ったのはSecurity(セキュリティー・防衛安全保障)の為即ち自衛の為だったと証言したのである。
日本とフィリッピンで死闘を戦った最高司令官が証言した意義は重大である。東京裁判を指揮して七名を絞首刑、残り十八名は全員有罪としたその人が、防衛・安全保障のためだった即ち侵略戦争ではなかったと証言したことは、東京裁判は間違っていたと証言した事と同じである。
これを念頭に置いて、再び岩浪由布子さんの書物から次の文を読むと東條英機の心情に心が打たれるのである。
即ち「・・・開戦を避けるために日夜必死に続けられていた日米交渉は遂に決裂し、昭和十六年十二月八日、日本は米・英に対して宣戦を布告した。十二月六日深夜から七日にかけて、祖母たちは祖父の寝室から忍び泣きの声が洩れてくるのに気がついた。その声は次第に慟哭(どうこく)に変わっていった。祖母がそっと寝室を覗くと、祖父は蒲団に正座して泣いていた。和平を希求される陛下の御心に心ならずも反する結果になり、宣戦布告をするに至った申しわけなさで身も心も、ちぎれる思いだったに違いない。慟哭の涙はとめどなく流れた。祖母は寒い廊下にしばし茫然と立ち尽くしていた。」とあります。
これを読むと、東條英機はこの戦争に、日本が勝利することは、きわめて難しいと覚悟をしていた様に思われる。それが判って居ても日本は戦わざるを得なかったのである。そして死中に活をもとめたのだろう。
日本は戦争はしたくはなかったのだ。しかし戦争をしないでハルノートを受諾したらどうだったか。
日本は一戦も交えずに敗けたと同じに、支那、満州、仏印から、陸、海、空軍及警察の撤退、満州政府の否認、汪兆銘政府の否認ということになれば日本の面子は丸つぶれとなり、日本国内に反対の声が湧き起こり、三国干渉で旅順、大連を返還した時と比べものにならない騒乱の発生が予想されるのである。
そうなれば戦はず敗戦国となり、収拾がつかなくなる恐れがあったのである。
インドのパール判事はハルノートについて次の様に語っている。「現在の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本に送ったものと同じ通牒を受けとった場合、モナコ王国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカにたいして武器をとって起ちあがったであろう」(田中正明「パール博士の日本無罪論」)と言っているのである。
再び云う。日本は自ら好き好んで戦ったのではなく、自存自衛の為の戦いで侵略戦争ではなかったのである。
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(参考)
「大東亜解放戦争」上下巻 岩間 弘 著
発行所
〒 981−1505 宮城県角田市角田字裏町156−31
TEL: 0224−62−1783 FAX: 0224−62−1778
郵便振替: 02240−9−46042
(尚、著者・岩間弘氏は誌友信徒の方でもあります。)
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<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その十 > (1716) |
- 日時:2013年08月10日 (土) 12時54分
名前:信徒連合
<終戦の月・特集>
*大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*
「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ! 安らかに鎮まりませ・・・」
八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!
<その十>
日本近代史の第一級資料「東條英機・宣誓供述書」<その二>
時局が緊迫する中、米国の最後通牒ともいうべきハルノートを突き付けられ日本は、自存自衛のため決然起って戦う以外に道なしと昭和十六年十二月八日、ハワイ真珠湾攻撃を敢行、大東亜戦争へと突入したのであった。この間の事は当時の首相であった東條英機が、戦後東京裁判にかけられた時、その所信を堂々と述べた供述書が、高原大学滝沢宗太編著として出版された「正義を貫いた東条英機東京裁判供述書」に詳しく述べられている。これは首相として、また、陸軍大臣として日本の立場を一身を賭して供述したもので、非常に価値の高いものであると思われるので、私はこれを日本国と天皇陛下の名誉の為、及び東条英機元首相はじめ戦犯と言われ裁判にかけられた多くの人々の名誉の為、及び全日本国民の名誉のために、これを転載記述(要点のみ)して、これを読まれる諸賢に供したいと思うのであります。なお紙数の都合上、NO.55、より掲載させて頂きます。
<天皇に責任なし、敗戦の責・我にあり>
東条英機宣誓供述書(全文)(ここでは要点のみ) 昭和二十二年十二月二十六日提出
極東軍事裁判所 亜米利加合衆国 其他 対 荒木貞夫 其他
宣誓供述書 供述者 東條英機
自分儀我国ニ行ハルル方式ニ従ヒ宣誓ヲ為シタル上次ノ如ク供述致シマス 右ハ当時立会人ノ面前ニテ宣誓シ且署名捺印シタルコトヲ証明シマス 同日 同所 立会人 清瀬一郎
宣誓書
良心ニ従ヒ真実を述ベ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓 署名捺印 東條英機
昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日 於 東京 市ヶ谷 供述者東條英機
< 第三次近衛内閣に於ける日米交渉(其一、九月六日 御前会議前)>
五五、
第二次近衛内閣の日米交渉は停頓し遂に該内閣の倒壊となったのであります。・・・私の観察に依ればこの政変は、日米交渉を急速に且つ良好に解決するために松岡外相の退場を求めたということに在ります。同氏に辞表を迫るときは勢い混乱を生ずるが故に、総辞職という途を撰んだのであります。・・・この経過によっても、次に出来た第三次近衛内閣の性格と使命が明らかとなります。
五六、
然るに「アメリカ」側では南部仏印進駐を以て、日本の米英蘭を対象とする南進政策の第一歩であると誤解しました。之に依って太平洋の平和維持の基礎を見出すことを得ずといって日米交渉の打ち切りを口にし、又資産凍結を実行するに至りました。・・・日本は進出の限度及び撤兵時期も明示して居ります。此の場合出来得るだけの譲歩はしたのであります。然るに米国側は一歩もその主張を譲らぬ。日本の仏印進出の原因の除去については少しも触れて来ない。ここに更に日米交渉の難関に遭遇したのであります。
五七、
近衛首相は此の危機を打破するの途は唯一つ。此際日米の首脳者が直接会見し、互いに誠意を披露して、世界の情勢に関する広き政治的観点より国交の回復を図るの外はないと考えました。・・・米国は主旨に於いては依存はないけれども、主なる事項、殊に三国同盟条約上の義務の解釈並びにその履行の問題、日本軍の駐留問題、国際通商の無差別問題につき、先ず合意が成立することが第一であって、この同意が成立するにあらざれば、首脳会見に応ずることを得ずという態度でありました。そこで此の会談は更に暗礁に乗り上げたのであります。
< 九月六日の御前会議 >
五八、
米英蘭の一九四一年(昭和十六年)七月二十六日(この後は一九四一年等の西暦を省略して単に昭和十六年の如く昭和の年号で記することとします)の対日資産凍結を繞(めぐ)り日本は国防上死活の重大事態に当面しました。此の新情勢に鑑み我国の今後採るべき方途を定める必要に迫られました。ここに於て昭和十六年九月六日の御前会議に於て「帝国国策遂行要領」と題する方策(法定証第五八八号の中段)が決定されたのであります。・・・私は陸軍大臣として之に関与致しました。
五九、
その要旨は
一、 十月上旬頃迄を目指して日米交渉の最後の妥結に努める。之がため我国の最小限の要求事項並に我国の約諾し得る限度を定め極力外交に依ってその貫徹を図ること。
二、 他面十月下旬を目途として自存自衛を全ふするため対米英戦を辞せざる決意を以て戦争準備を完成する。
三、 外交交渉に依り予定期日に至るも、要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意する。
四、 その他の施設は従前の決定に依る。 というのであります。
六○、
此の要領を決定するに当たって存在したりと認めた急迫せる情勢及之を必要とした事情は概ね次の七項目であります。(弁護側証第二九二三号)
a、 米英蘭の合従連衡に依る対日経済圧迫の実施――米英蘭政府は日本の仏印進駐に先立ち、緊密なる連携の下に各種の対日圧迫を加えて来ました。・・・ 右の如く同じ日「アメリカ」「イギリス」「オランダ」が対日資産凍結を為した事実より見て、此等の政府の間に緊密なる連絡がとられて居ったことは明白なりと観察せられました。その結果は日本に対する全面的経済断交となり、爾来日本は満州、支那、仏印、泰(タイ)以外の地域との貿易は全く途絶し、日本の経済生活は破壊せられんとしたのであります。(中略)
b、 (中略)
c、 日本の国防上に与えられたる致命的打撃――米英蘭の資産凍結により日本の必要物資の入手難は極度に加わり日本の国力及び満州、支那、仏印、泰(タイ)に依存する物資による外なく、其の他は閉鎖せられ或種の特に重要な物資は貯蔵したものの、消耗によるの外はなく、殊に石油は総て貯蔵によらなければならぬ有様でありました。この現状で推移すれば、我国力の弾発性は日一日と弱化し、その結果日本の海軍は二年後にその機能を失ふ。液体燃料を基礎とする日本の重要産業は、極度の戦時規制を施すも一年を出でずして、麻痺状態となることが明らかにされました。ここに国防上の致命的打撃を受くるの状態となったのであります。 (中略)
g、 外交と戦略との関係――外交に依り局面が何しても打開出来ぬとなれば日本は武力を以て軍事的、経済的包囲陣を脱出して国家の生存を図らねばならないのであります。(中略)
六一、
万一太平洋戦争となる場合の見通しは、世界最大の米英相手の戦争であるから、容易に勝算の有り得ないことは当然でありました。そこで日本としては、太平洋及び印度洋の重要戦略拠点と、日本の生存に必要なる資源の存在する地域に進出して、敵の攻撃を破砕しつつ頑張り抜く以外に方法はないと考えたのであります。
第三次近衛内閣に於ける日米交渉(其二、九月六日の午前会議以後)
六九、
九月六日の御前会議の決定以後の対米外交は専ら豊田外相の手に依りて行はれたのであります。・・・而して対米外交の経路は従前と異なり二つの筋によって行なはれました。その一つは豊田外相より米国駐日大使を通じて進行する方法でありました。此の交渉と近衛首脳者会談とは我方では、大きな期待をかけて居たのであります。之に対する回答は十月二日米国の「口上書」(証一二四五号G)として現われました。
之を野村大使に交付するときの「ハル」長官の言によれば、米国政府は予め了解が成立せざれば両首脳の直接会見は危険であるというのであります。(中略)要するに以上によって首脳者会談の成立せざることは明白となりました。・・・日本は生存上の急を要する問題を解決しようとするに対し、米国は当初より原則論を固執するのみであります。
当時の米国の考えは野村大使よりの十月三日の米国の一般状況具申の電報(註二九〇六号)に依り明らかであると認めました。之によれば米国はいよいよ大西洋戦に深入りすることになり、これがため対日態度に小康を保ちつつあるが、さりとて対日経済圧迫の手を緩めず、その既定の政策に向かって進みつつあることは、最も注意すべきことであるといって居ります。なお、此の電報には此のまゝ対日経済戦を行いつつ武力戦を差し控えるに於ては米国は戦はずして対日戦の目的を達するものであると云って居ります。
七三、
昭和十六年十月十二日、午後二時より首相の招致により荻外荘(近衛首相の荻窪の邸宅)にて、五相会議が行われました。出席者は近衛首相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁、及び陸相の私でありました。・・・この会合の目的は日米交渉の成否の見通し並に、和戦の決定についての懇談でありました。長時間に亘って議論されましたが、詳細は今記憶して居りませぬが、各自の主張の要点は次の如くでありました。
近衛首相並に豊田外相の主張――日本の今日までの主張を一歩も譲らぬというのであったならば日米交渉成立の見込みはない。しかし交渉の難点は撤兵問題である。それであるから、撤兵問題に於て日本が譲歩するならば交渉の見込みはある。日本としては撤兵問題に際し、名を捨て実をとるということが出来る。即ち一応は「アメリカ」の要求に従って全面撤兵をすることにし、そして中国との交渉により新たなる問題として駐兵することも可能であるというのであります。之は実際に於ては明かに九月六日の御前会議の決定の変更でありますが、両大臣は特に決定変更とまでは言われなかったのでした。
私の主張――今日までの日米交渉の経過より見て、殊に九月六日の御前会議の決定に基づく対米交渉に対し米国の十月二日の回答並びに、首脳会談の拒否の態度を見ても、日米交渉の成功の目途はないのではないか。これ以上の継続は徒に米側の遷延策に乗ぜられるのみである。・・・米国の狙いは・・・交渉の進むに従いその目的が無条件撤兵であるという事が明らかとなって来た。換言すれば名実共に即時且つ完全撤兵を要求してきて居るのである。
従って両大臣の言わるる如き名を捨てて実を採ると云う案によって、妥協が出来るとは考えられぬ。然らば仮に米国の要求を鵜呑みにし、駐兵を放棄し、完全撤兵すれば如何なることになるか。日本は四年有余に亘りて為したる支那事変を通しての努力と犠牲とは空となるのみならず、日本が米国の強圧に依り中国より無条件退却するとすれば、中国人の侮日思想は益々増長するであろう。共産党の徹底抗日と相待ちて、日華関係は益々悪化するであろう。その結果、第二、第三の支那事変を繰り返すや必至である。
日本の此の威信の失墜は、満州にも、朝鮮にも及ぼう。尚、日米交渉の難点は駐兵、撤兵に限らず、彼の米国四原則の承認、三国条約の解釈、通商無差別問題等幾多そこに難関がある。此等の点より言うも、日米妥協はもはや困難なりと思ふ。しかし、外相に於て成功の見込みありとの確信あらば更に一考しよう。又、和戦の決定は統帥に重大関係がある。従って総理だけの決定に一任する訳には行かぬ。(後略)
七五、
十月十四日は閣議の日であります。・・・午前十時閣議が開かれました。豊田外相は外交妥結の見込みについては、荻窪荘会談と同様の意見を述べました。此の閣議では近衛首相も、及川海相も他の全閣僚も何等発言しませんでした。ここに於て外相と陸相との衝突となり、之にて万事は休したのであります。
< 東条内閣の組閣 >
七八、
昭和十六年十月十七日には前日来、辞職願を出したため此の日私は官邸にてその引払いの準備を致して居りました。午後三時三十分頃侍従長より、天皇陛下の思召に依り直ちに参内すべしとの通知を受けました。突然の御召のことではありますから、私は何か総辞職に関し、私の所信を質されるものであろうと直感し、奉答の準備のために書類を懐(ふところ)にして参内しました。
七九、
参内したのは午後四時過と思いますが、参内すると直ぐに拝謁を仰付かり組閣の大命を拝したのであります。その際賜はりました御言葉は、昭和十六年十月十七日の木戸日記にある通りであります。(法定証第一一五四号英文記録一〇二九一頁)・・・即ち「只今陛下より陸海軍協力云々の御言葉がありましたことと拝察しますが、なほ国策の大本を決定せらるゝについては、九月六日の御前会議決定に捉わるゝことなく、内外の情勢を更に深く検討して慎重なる考究を加ふるを要するとの思召であります。命(めい)に依り其の旨申し上げて置きます」というのであります。之が後にいう白紙還言の御諚であります。
八〇 、 私としては組閣の大命を拝すると云う如きことは思いも及ばぬことでありました。(中略)私が皇族内閣を適当なりと考えたには次の理由に拠るのであります。・・・新内閣が前内閣の決定を覆えすことは出来ますが、御前会議は問題と異なり、内閣でなく政府と統帥部との協定を最高の形式に於て為したものであります。従って統帥部が九月六日の御前会議決定の変更に同意しない場合には、非常に厄介な問題を惹起する惧れがあったのであります。皇族内閣ならば、皇族の特殊の御立場により斯る厄介な問題をも克服して円滑に九月六日の御前会議の決定を変更し得ると考えたからであります。従って私自身私が後続内閣の総理大臣たるの大命を受けること乃至は、陸軍大臣として留任することは、不適当なりと考えたのであります。又、斯の如き事の起ろうとは無想もしませんでした。殊に私は近衛内閣総辞職の主唱者であるのみならず、九月六日の御前会議決定に参与したる責任の分担者であるからであります。特に九月六日の御前会議決定の変更のためには、私が総理大臣としては勿論陸軍大臣として留任することが却って、大いなる困難を伴ない易いのであります。以上は当時私および私を繞(めぐ)る陸軍内部の空気でありました。故に若し「白紙還元」の御諚を拝さなければ、私は組閣の大命を受け容れなかったかも知れないのであります。此の「白紙還元」と云うことは、私もその必要ありと想って居たことであり、必ず左様せねばならぬと決心しました。なお此の際、和か戦か測られず、いづれにも応ぜられる内閣体制が必要であると考えました。之に依り私自身陸軍大臣と内務大臣と兼摂する必要ありと考へ、その旨を陛下に予め上奏することを内務大臣にお願いしました。当時の情勢では、もし和と決する場合には相当の国内的混乱を生ずるおそれがありますから、自ら内務大臣としての責任をとる必要があると思ったのであります。陸軍大臣兼摂には現役に列する必要があり、それで現役に列せられ陸軍大臣に任ぜられましたが、このことは、後日閑院宮殿下の御内奏に依ることであります。
八一、
組閣についてはなかなか考えが纏まりません。此の場合神慮に依るの他なしと考へ、先ず明治神宮に参拝し、次に東郷神社に賽(さい)し、靖国神社の神霊に謁しました。その間に自ら組閣の構想も浮びました。(後略)
八二、
(前略)十八日朝は靖国神社例祭で午前中は天皇陛下は御親拝あり自分も参列しました。午後一時閣員名簿を捧呈、四時親任式を終り、茲に東條内閣は成立致しました。
< 十一月五日の御前会議の前後 >
八三、
前に述べた通り私が組閣の大命を拝受したとき、天皇陛下より平和御愛好の大御心より前に申した通りの「白紙還元」の御諚を拝しました。依て組閣後、政府も大本営も協力して、直ちに白紙にて重要国策に対する検討に入りました。十月二十三日より十一月二日に亘り縷々連絡会議を開催し、内外の新情報に基き純粋に作戦に関する事項を除き、外交、国力及び軍事に亘り各般の方面より慎重審議を重ねました。その検討の結果米側の十二月二日の要求を参酌して、先ず対米交渉に関する要領案を決定したのであります。之は後に十一月五日の御前会議決定となったもので、その内容は法廷証第七七九号末段と略ぼ同様と記憶します。
八四、
次で此の対米交渉要領に依り、日本の今後に於ける国策を如何に指導するかに付、更に審議を尽し最後に三つの案に到達したのであります。
第一案は、新たに検討を加えて得たる対米交渉要領に基き、更に日米交渉を続行する。而して其の決裂に終りたる場合に於ても、政府は隠忍自重するというのであります。
第二案は、交渉をここで打ち切り、直ちに開戦を決しようというのであります。
第三案は、対米交渉要領に基きて交渉を続行す。他面交渉不成立の場合は戦争決意を為し、作戦の準備をなす。
そして外交による打開を十二月初頭に求めよう。交渉成立を見たるときは作戦準備を中止する。交渉が決裂したるときは直ちに開戦を決意す。開戦の決意は更めて之を決定するものであります。
八五、
(前略)然し、たとい決裂に陥りたる場合に於ても直ちに米英蘭と戦争状態に入ることは慎重なる考慮を要する。それは我国としては支那事変は既に開始以来四年有余となるが、而も未だ解決を見ぬ。支那事変を控えて対米英戦に入ることは、日本の国力より言うも、国民の払う犠牲より言うも、之を極力避けなければならぬ、今は国力の全部を支那事変の解決に向けて行きたい。故に日本は外交交渉の場合に於ても、直ぐに戦争に入らず、臥薪嘗胆再起を他日に期すべきである。次の理由は、国民生活の上よりするも、亦支那事変遂行の途上にある今日、軍需生産維持の点よりいうも、今日は至大なる困難にある。而して最も重要なる問題は液体燃料の取得である。これさへ何とか片付けばどうにか耐えて行けるものではあるまいか。それ故、人造石油を取り上げ、必要の最小限の製造に努力しようではないかといふにあります。この案に対する反対意見は、国家の生存に要する物質は、米英蘭の封鎖以来致命的打撃を受けて居る、殊に液体燃料に於て然りである。もし此のまま推移すれば、就中(なかんずく)、海軍と空軍は二年を出でずして活動は停止せられる。之は国防上重大なる危機である。支那事変の遂行もそのために挫折する。人造石油の問題をその設備の急速なる増設により解決し得るならば之は最も幸である。依て此の点に対し真剣なる研究を為したその結論は、日本はその1ヶ年の最小限の所要量を四百万屯とし、之を得るためには、陸海軍の軍需生産の重要なる部分を停止するも、四年乃至(ないし)七年の歳月を要するとの結論に到達した。此の期間の間は貯蔵量を以て継がなければならぬのであるが、斯の如き長期の間、貯蔵量を以ってつないで行くことは出来ぬ。そうすれば国防上重大なる危険時期を生ずる。且つ軍需生産の重要部分の停止ということは、支那事変遂行中の陸海軍としては、之を忍ぶことは出来ぬ。故に此の際、隠忍自重、臥薪嘗胆するということは帝国の死滅を意味する。ここに坐して死滅を待つよりも死を決して包囲網を突破し、生きる道を発見する必要がある。支那事変四年有余、更に米英戦に入ることは、国民の負担の上に於ても、政府としては耐え難き苦悩である。然し悠久なるべき帝国の生命と権威のためには国民は之を甘受してくれるであろうというのでありました。
八七、
第三案、即ち交渉を継続し、他面交渉不成立の場合は戦争決意を為し作戦の準備を為すという案の理由は、前記第一号第二案を不可とする理由として記述したものと同一であります。
八九、
この案に付いては、更に連絡会議に於いては、第三案の主旨に基き、今後の国策遂行の要領を決意し必要なる手続きを経て後に、昭和十六年十一月五日の御前会議で更に之を決定しました。これには私は総理大臣及び陸軍大臣として関与したことは勿論であります。これが十一月五日の「帝国国策遂行要領」というのであります。此の本文は存在せず提出は不能でありますが、この要旨は私の記憶によれば次の通りであります。(弁護士側証二九四五号)
第一に、帝国は現下の危機を打開し、自存自衛を全うするための対米英戦を決意し、別紙要領甲乙両案に基き日米外交交渉により打開を図ると共にその不成立の場合の武力発動の時期を十二月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を為す。――尤も開戦の決意は更にあらためてする。及ち十二月初頭に自動的に開戦となるわけではない。
第二、独、伊との提携強化を図り、且つ武力発動の直前に泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立する。
第三、対米交渉が十二月初頭迄に成功せば作戦準備を停止する。
というものであります。 右の中第一項に別紙として記載してあるものが前記証七七九号末段である甲案、乙案であります。之を要するに、我が国の自衛と権威とを確保する限度に於て甲乙の二つの案をつくり、之を以て日米交渉を進めようとしたのであります。 その中の甲案というのは九月二十五日の日本の提案を基礎とし、既往の交渉経過より判断したる米国側の希望を出来るだけ取入れたる最後的譲歩案であって慎重なる三点につき譲歩して居ります。その要旨は法廷証第二九二五条(記録二五九六六)にある通りであります。 乙案というのは、甲案が不成立の場合に於ては、従来の行きがかりから離れて、日本は南部仏印進駐以前の状態にかえり、米国も亦、凍結令の廃止その他、日本の生存上最も枢要とし、緊急を要する物資取得の最小限度の要求を認め、一応緊迫した日米関係を平静にして、更めて全般的日米交渉を続けんとするものであります。其の要旨は法廷証一二四五号にある通りであります。
九〇、
右の深刻なる結論を、昭和十六年十一月二日午後五時頃より参謀総長軍令部総長と共に、内奏しました。其の際天皇陛下には吾々の上奏を聞し召されて居られましたが、その間陛下の平和御愛好の御信念より来る御心痛が切々たるものある如く、其の御顔色の上に拝察しました。陛下は総てを聴き終られ、暫く沈痛な面持ちでお考えでありましたが、最後に陛下は「日米交渉に依る局面打開の途を極力盡(つく)すも而も達し得ずとなれば、日本は止むを得ず米英との開戦を決意しなければならぬのかね」と深き御憂慮の御言葉を漏らされまして、更に「事態謂(い)ふ如くであれば、作戦準備を更に進むるは止むを得なかろうが、何とか極力日米交渉の打開を計って貰いたい」との御言葉でありました。(我々は右の御言葉を拝し恐懼した事実を今日も鮮やかに記憶して居ります)。斯して十一月五日の御前会議開催の上更に審議を盡すべき御許しを得たのでありましたが、私は陛下の御憂慮を拝し、更に熟考の結果、連絡会議、閣議、御前会議の審議の外に、更に審議検討に手落ちなからしめ、陛下の此の御深慮に答うる意味に於いて、十一月五日の御前会議に先立ち、更に陸海軍合同の軍事参議官会議の開催を決意し、急遽其の御許しを得て十一月四日に開催せらるる如く取り運んだのでありました。此の陸海軍合同の軍事参議官会議なるものは、明治三十六年軍事参議官制度の創設せられてより初めての事であります。
大東亜解放戦争 =真相は日本が勝ったのだ= 岩間書店刊・岩間 弘著 (下巻・P.168〜187)
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