生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その十一  ・ 十二 ・ 十三 ・ 十四 ・ 十五 ・ 十六 ・ 十七 ・ 十八(最終)  >  (1723)
日時:2013年08月11日 (日) 15時36分
名前:信徒連合

<終戦の月・特集>


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
            安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



              <その十一>



日本近代史の第一級資料「東條英機・宣誓供述書」<その三>




< 十一月五日の御前会議 >


九二、

以上は昭和十六年十一月五日の御前会議に至る迄の間に於て開かれた政府と統帥部との連絡会議及び軍事参議官会議で為された協議の経過並びに結果であります。十一月五日には右の案を議題として午前会議が開かれました。(後略)


九三、

元来此の種の御前会議は政府と統帥部との調整を図ることを目的として居るのであります。日本の制度に於ては、政府と統帥部は全然分立して居りますから、斯の如き調整方法が必要となって来るのであります。此の会議には予め議長というものもありません。その都度陛下の御許しを得て、首相が議事を主宰するのを例と致します。この会議で決定したことは、その国務に関する限りは更に之を閣議にかけて最後の決定をします。又統帥に関することは統帥部に持ち帰り、必要なる手続きをとるのであります。この如くして後、政府並びに統帥部は別々に天皇陛下の御允裁(ごいんさい)を乞うのであります。従って憲法上の責任の所在は国務に関することは内閣、統帥に関することは統帥部が、各々別々に責任を負い其の実行に当るのであります。又幹事として局長なり書記官長が出席しますが、之は責任者ではありません。御前会議、連絡会議の性質及び内容は右の如くでありまして政府及び統帥部の任務遂行上必要なる当然の会議であり検事側の観察しあるが如き共同謀議の機関と見るは誣言(ふげん)であります。




< 東條内閣に於ける日米交渉 >


九八、

政府は日米交渉が益々困難に陥らんことを予見し且つ、その解決の急を要する情勢にあるに鑑み、同年八月中の野村大使よりの要請に基き、各交渉援助のため来栖大使を派遣することに致したのであります。来栖氏は十一月五日東京を発ち、同月十五日に「ワシントン」に到着したのであります。之は真面目に日米交渉の妥結を企図したもので、日本の開戦意思の隠蔽手段では断じてありません。(後略)


一〇〇、

日米交渉は甲案より始められたものでありますが、同時に乙案をも在米大使に送付して居ります。交渉は意の如く進行せず、その難点は依然として三国同盟関係、国際通商無差別問題、支那駐兵、にあることも明らかとなり、政府としては両国の国交の破綻を回避するため、最善の努力を払うため従来の難点は暫く措き、重要且つ緊急なるもののみに限定して、交渉を進めるために予め送ってありました乙案によって、妥結を図らしめたのであります。(後略)


一〇一、

昭和十六年十一月十七日、私は総理大臣として当時開会の、第七十七議会に於て施政方針を説明する演説をいたしました。(弁護側証二二六号)之により日本政府としての日米交渉に対する態度を明らかにしたのであります。(中略)

(一)第三国が支那事変の遂行を妨害せざること。

(二)日本に対する軍事的、経済的妨害の除去及び平常関係に復帰

(三)欧州戦争の拡大とその東亜への波及の防止、とであります。

右に引き続き東郷外相は日米交渉に於ける我方の態度につき、二つのことを明らかにせられました。(法廷証第二七四三号)その一つは、今後の日米交渉に長時間を要する必要のなかるべきこと。その二つは、我方は交渉の成立を望むけれども、大国として権威を毀うことは之を排除するというのであります。首相及び外相の演説は即世界に放送せられ中外に明らかにせられました。(中略)
右政府の態度に対し十一月十八日貴衆両院は孰(いず)れも政府鞭撻の決議案を提出し満場一致之を可決したのであります。(弁護側証二○九、二七一二)


一○二、

前に述べました我国の最後案である乙案については、日米交渉に於いても、米国政府は依然として難色を示し、野村、来栖大使の努力に拘らず、米国政府は依然六月二十一日案を固執して居って、交渉の成立は至難でありました。他方十一月二十四日より二十六日に亘って、米国は英、蘭、支各国代表と蜜に連絡し各国政府間に緊密の連絡を遂げて居ることは当時の情報に依って判って来ております。


一○三、

これより先、米英濠蘭の政情及び軍備増強は益々緊張し又、首脳者の言動は著しく挑発的となって来ました。(弁護側証二九二三号) 之が我国朝野を刺激し、又前に述べた議会両院の決議にも影響を与えたものと認められます。例へば昭和十六年十一月十日には、「チャーチル」英首相は「ロンドン」市長就任午餐会に於て「アメリカ」が日本と開戦の暁には「イギリス」は一時間内に対日宣戦を布告するであろうと言明したと報ぜられました。(法廷証二九五六、英文記録二六一○五、証一一七三、英文記録一○三五二)・・・・「ルーズベルト」大統領はその前日である休戦記念日に於て、米国は自由維持のためには永久に戦はんと述べ・・・「ノックス」海軍長官の如きは、右休戦記念日の演説に対日決意の時到ると演説したのであります。(中略)なお、十一月二十四日には米国政府は蘭領「ギアナ」へ陸軍派兵に決した旨を発表しました。米軍の蘭領への進駐は日本として関心を持たずには居られませんでした。(後略)




< ハルノート >


一○四、

斯の緊張裏に米国政府は昭和十六年十一月二十六日に、駐米野村、来栖両大使に対し、十一月二十日の日本の提案に付ては、慎重に考究を加え関係国とも協議をしたが、之には同意し難しと申し来り、今後の交渉の基礎としての覚書を提出いたしました。之が彼の十一月二十六日の「ハルノート」であります。その内容は証第一二四五号1(英文記録一八一五)の通りであります。此の覚書は従来の米国側の主張を依然固持する許りではなく、更に之に付加する当時日本の到底受け入れることのなきことが明らかとなって居った次如きの難問を含めたものであります。即ち

(一) 日本陸海軍はいふに及ばず警察隊も支那全土(満州を含む)及び仏印より無条件に撤兵すること。

(ニ) 満州政府の否認

(三) 南京国民政府の否認

(四) 三国同盟条約の死文化

であります。


一○六、

十一月二十七日には午前十時より政府と統帥部は宮中に於て連絡会議を開催して居りました。・・・そのうちに「ワシントン」駐在の陸軍武官より米国案の骨子だけが報道されて来ました。之によれば前に概略言及したような苛酷なものでありました。同様な電報は海軍武官よりも言って来ました。同日即ち十一月二十七日午後二時より更に連絡会議を開き、各情報を持ち寄り審議に入ったのでありますが、一同は米国案の苛酷なる内容には唖然たるものがありました。その審議の結果到達したる結論の要旨は次の如くなりと記憶します。

(一) 十一月二十六日の米国の覚書は明らかに日本に対する最後通牒である。

(ニ) 此の覚書は我国としては受諾することは出来ない。且つ米国は右条項は日本の受諾し得ざることを知りて之を通知して来て居る。しかも、それは関係国と緊密なる了解の上に為されて居る。

(三) 以上のことより推断し、又最近の情勢、殊に日本に対する措置言動、並びに之により生ずる推論よりして、米国側に於ては既に、対日戦争の決意を為して居るものの如くである。それ故に何時米国よりの攻撃を受けるやも測られぬ。日本に於ては十分警戒心を要するとのこと。即ち此の連絡会議に於ては、もはや日米交渉の打開はその望みはない。従って十一月五日の御前会議の決定に基き行動するを要する。しかし、之に依る決定はこの連絡会議でしないで、更に御前会議の議を経て之を決定しよう。そしてその午前会議の日取は十二月一日と予定し、此の御前会議には政府からは、閣僚全部が出席しようということでありました。(後略)


一○九、

次の事柄は、私が戦後知り得たことがらであって、当時は之を知りませんでした。

(一) 米国政府は早く我国外交通信の暗号の解読に成功し、日本政府の意図は常に承知して居ったこと、

(二) 我国の昭和十六年十一月二十日の提案は日本としては最終提案なることを、米国国務長官では承知して居ったこと。

(三) 米国側では十一月二十六日の「ハルノート」に先立ち、なお交渉の余地ある仮取極(かりとりきめ)案を「ルーズヴェルト」大統領の考案に基きて作成し、之により対日外交を進めんと意図したことがある。この仮取極案も米国陸海軍の軍備充実のために余裕を得る目的であったが、孰(いず)れにするも仮取極は「イギリス」及び重慶政府の強き反対に会い、之を取りやめ遂に証第一二四五号(1)の通りのものとして提案したものであること、並びに日本が之を受諾せざるべきことを了知して居たる事。

(四) 十一月二十六日の「ハルノート」を日本政府は最後通牒と見て居ることが米国側にわかっていたこと。

(五) 米国は一九四一年(昭和十六年)十一月末、既に英国と共に対日戦争を決意して居った許りでなく、日本より先に一撃を発せしむることの術策が行われたることであります。十一月末のこの重大なる日数の間に於て、斯の如き事が存在して居ろうとは無想だも致して居りませんでした。




< 十二月一日 御前会議 >


一一五、

(前略)十一月二十六日に至り米国の最後通牒に接し、我国としては日米関係はもはや外交折衝によっては、打開の道なしと考へました。此のことは前にも述べた通りであります。以上の経過を辿ってここに開戦の決意を為すことを必要としたのであります。之がために開かれたのが十二月一日の御前会議であります。…….此の会議では従前の例に依り御許しを得て私が議事進行の責に当りました。当日の議題は「十一月五日決定の帝国国策遂行要領に基く対米交渉遂に成立するに至らず、帝国は米英国に対し開戦す」(法廷証第五八八号の末尾)というのでありました。(中略)最後に原枢密院議長より総括的に次の如き意見の開陳がありました。

(一) 米国の態度は帝国としては忍ぶべからざるものである。此上、手をつくすも無駄なるべし、従って開戦は致方なかるべし。

(二) 当初の勝利は疑いなしと思う。(後略)

(三) 戦争長期となれば、国の内部崩壊の危険なしとせず、政府としては十分に注意せられ度し。

之に対し私は次のように答えました。
(中略)皇国隆昌の関頭に立ち、我々の責任これより大なるはない。一度開戦御決意になる以上、今後一層奉公の誠を尽くし、政府統帥部一致し、施策を周密にし、挙国一体必勝の革新を持し、あくまでも全力を傾倒し、速やかに戦争目的を完遂し、以て聖慮に答え奉り度き決心であると。斯くしてこの提案は承認せられたのであります。此の会議に於て陛下は、何も御発言あらせられませんでした。


一一六、

此の会議に先立ち、内閣に於ては同日午前九時より臨時閣議を開き、事前に此の案を審議し、政府として本案に大体依存なしとして、御前会議に出席したのでありますから、此の会議をもって、閣議決定と観たのであります。統帥部に於ては各々その責任に於て更に必要な手続きを取ったのであります。


一一七、

以上の手続きに由り決定したる国策については、内閣及び統帥部の輔弼(ほひつ)及び輔翼(ほよく)の責任者に於て、其の全責任を負うべきものでありまして、天皇陛下の御立場に関しては、寸毫の誤解を生ずるの余地なからしむるため、ここに更に詳説いたします。これは私に取りて真に重要な事柄であります。

(一) 天皇が内閣の組織を命ぜらるるに当っては、必ず往時は元老の推挙により、後年殊に本訴訟に関係ある時期に於ては、重臣の推薦及び常時輔弼の責任者たる内大臣の進言に由られたのでありまして、天皇陛下が此等の者に推薦及び進言を却け、他の自己の欲せらるる者に組閣を命ぜられたというが如き前例は未だ嘗てありませぬ。又統帥部の輔翼者(複数)の任命に於ても、既に長期間の慣例となった方法に依拠せられたものであります。即ち例えば、陸軍に在りては三長官(即ち陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の意見の合致に由り、陸軍大臣の輔弼の責任に於て御裁可を仰ぎ決定を見るのであります。海軍のそれに於ても同様であります。此の場合に於ても天皇陛下が右の手続きに由る上奏を排して他を任命せられた実例は記憶いたしませぬ。以上は明治、大正、昭和を通しての永い間に確立した慣行であります。

(二) 国政に関する事項は必ず右手続きで成立した内閣及び統帥部の輔弼輔翼に因って行なわれるのであります。此等の助言に由らずして陛下が独自の考えで国政又は統帥に関する行動を遊ばされる事はありませぬ。この点は旧憲法にもその明文があります。その上に更に慣行として、内閣及び統帥部の責任を以て為したる最後決定に対しては天皇陛下は拒否権は御行使遊ばされぬという事になって来ました。

(三) 時に天皇陛下が御希望又は御注意を表明せらるる事もありますが、而も此等御注意や御希望は総て、常時輔弼の責任者たる内大臣の進言に由って行なわれたことは、某被告の当法廷に於ける証言に因り立証せられた通りであります。而もその御希望や御注意等も、之を拝した政治上の輔弼者(複数)、統帥上の輔翼者(複数)が更に自己の責任に於て之を検討し、その当否を定め、再び進言するものでありまして、此の場合常に前申す通りの慣例により御裁可を得て定め、之を拒否せられた事例を御承知いたしませぬ。之を要するに天皇は自己の自由の意志を以て内閣及統帥部の組織を命じられませぬ。内閣及統帥部の進言は拒否せらるることはありませぬ。天皇陛下の御希望は、内大臣の助言に由ります。而も此の御希望が表明せられました時に於ても、之を内閣及び統帥部に於て其の責任に於て審議し上奏します。この上奏は拒否せらるることはありませぬ。これが戦争史上空前の重大危機に於ける天皇陛下の御立場であられたのであります。現実の慣行が以上の如くでありますから、政治的、外交的及軍事上の事項決定の責任は、全然内閣及統帥部に在るのであります。夫れ故に昭和十六年十二月一日開戦の決定の責任も亦内閣閣員及統帥部の者の責任でありまして、絶対的に陛下の御責任ではありません。




< 十二月一日の御前会議終了より開戦に至る迄の重要事項 >


一一九、

十二月一日以後開戦までは屡々連絡会議を開きました。そして此間に作戦実施準備と国務につき重要なる関係を有する諸事項を決定しましたが、そのうち重なるものは次の通りであったと記憶します。これ等は本節冒頭に陳べました純統帥以外のことであり、国務と統帥との両者に関連を有する事柄であって、両者の間に協定を遂げたものであります。

(一) 対米通告とその米国への手交の時期の決定
(二) 今後の戦争指導の要領の決定
(三) 占領地行政実施要領の決定
(四) 戦争開始に伴なう対外措置の実行
(五) 宣戦詔勅の決定




< 対米通告と米国政府への手交時期の決定―― >


一二○、

日本政府は昭和十六年十二月八日(日本時間)米国に対し、駐米野村大使をして、帝国が外交交渉を断絶し、戦争を決意せる主旨の通告を交付せしめました。その文言は法廷証第一二四五号のKの通りであります。そうして此の通告に対する外交上の取扱は外務省の責任に於てせられたのであります。
これより先、昭和十六年十一月二十七日の連絡会議に於て同月二十六日のアメリカの最後通牒と認められる「ハルノート」に対する態度を定めたことは既に前に述べました。之に基き東郷外相より私の記憶に依れば、十二月四日の連絡会議に於て、我国より発すべき通告文の提示があったのであります。之に対し全員異議なく承認し、且つその取扱に付ては、概ね次のような合意に達したと記憶します。

A、右外交上の手続きは外務大臣に一任すること

B、右通告は国際法に依る戦争の通告として、その米国政府に手交後に於ては、日本は行動の自由をとり得ること

C、米国政府への手交は必ず攻撃実施前に為すべきこと、この手交は、野村大使より米国政府責任者へ手交すること、駐日米大使に対しては、攻撃実施後に於て之を通知する。通告の交付は攻撃の開始前に之をなすことは、予て天皇陛下より私及び両総長に屡々御指示があり、思召は之を連絡会議関係者に伝え連絡会議出席者は皆之を了承して居りました。

D、通告の米国政府に対する手交の時間は、外相と両総長との間に相談の上之を決定すること、蓋(けだ)し外交上、作戦上機微なる関係がありましたからであります。

 真珠湾其の他の攻撃作戦計画及び作戦行動わけても攻撃開始の時間は大本営に於ては極秘として一切之を開示しません。従って連絡会議出席者でも陸海軍大臣以外の閣僚等は全然之を知りません。私は陸軍大臣として参謀総長より極秘に之を知らされて居りましたが、他の閣僚は知らないのであります。私の検事に対する供述中法廷第一二○二号のAとして提出してある部分に、真珠湾攻撃の日時を東郷外務大臣及び鈴木企画院総裁が知って居たと述べているのは全く錯誤であります。之はここに訂正いたします。わたしの記憶によれば、昭和十六年十二月五日の閣議に於て対米最終的通告につき、東郷外務大臣よりその骨子の説明がありました。会員は之を了承しました。

日本政府に於ては十二月六日に野村大使に対し慎重廟議を尽くしたる結果、対米覚書を決定したこと、又此の覚書を米国に提示する時期は追て電報すべきこと、並びに覚書接到の上は何時にても、米国に交付し得るような文書整備其の他、予め万般の手配を了し置くよう外相より訓電せられて居ります。詳細は山本熊一氏の証言せる如くであります。(英文記録第一○九七頁参照)その上右覚書本文を打電したのであります。翌十二月七日にはその覚書は正確に「ワシントン」時間七日午後一時を期し米側に(加成(なるべく)、国務長官に)野村大使より直接に交付すべき旨訓電して居ります。

要するに、対米通告の交付については、日本政府に於ては真珠湾攻撃前に之をなす意思を有し、且つ此の意思に基き行動したのであります。而して私は当時其の交付は野村大使に依り外相の指示に基き指定の時間に正しく手交せられたものと確信して居りました。蓋し斯の如き極めて重大なる責任事項の実行については、出先の使臣は完全なる正確さをもって事に当るということは、何人も曾て之を疑わず、全然之に信頼して居るのは当然であります。然るに事実はその手交が遅延したることを後日に至り承知し、日本政府としては極めて之を遺憾に感じました。対米最終報告の内容取扱については、外務省当局に於て国際法、及び国際条約に照し慎重審議を尽して取扱ったものであって、連絡会議、閣議とも全く之に信頼して居りました。




< 宣戦の詔書 >


一二四、

宣戦詔書の決定と其の布告、帝国は昭和十六年十二月八日、開戦の第一日宣戦の詔書を発布しました。右詔書は法廷証第一二四○号がそれであります。而して此の詔書はその第一項に明示せらるる如く、専ら国内を対象として発布せられたものであって、国際法上の開戦の通告ではありません。


一二五、

之より囊(さき)、昭和十六年十一月二十六日米国の「ハルノート」なる最後通牒を受取り開戦はもはや避くべからざるものとなることを知るに及び、同年十一月二十九日頃の連絡会議に於て宣戦詔書の起草に着手すべきことを決定しましたと記憶します。十二月五日頃の閣議並びに十二月六日頃の連絡会議に於て詔書草案を最終的に確定し上奏したのであります。尤も事の重大性に鑑み中間的に再三内奏いたしました。その際に右文案には二つの点につき、聖旨を体して内閣の責任に於て修正を致したことがあります。その一つは第三項に「今ヤ不幸ニシテ米英両国ト戦端ヲ開クニ至ル洵ニ己ムヲ得サルモノアリ豈朕か志ナラムヤ」との句がありますが、これは私が陛下の御希望に依り修正したものであります。その二は十二月一日、木戸内大臣を経て稲田書記官を通じ、詔書の末尾を修正致しました。それまでの原案末尾には、「皇道ノ大義ヲ中外ニ宣揚センコトヲ期ス」とありましたが、御希望に依り「帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」と改めたのであります。右二点は孰れも陛下の深慮のあらせらるるところを察するに足るものであります。(法廷証三三四○号中二四○節、二四一節)(中略)…..而してその間と雖も米国の反省による外交打開に一縷の望みをかけて居った。その妥結を見たならば作戦中止を考えて居ったが遂に開戦になったこと、並に「オランダ」に対しては開戦の当初、その攻撃を予期して居らず従って日本より好んで宣戦する必要はない。それであるから「オランダ」のことは此の詔書より除外したと述べたのであります。


            大東亜解放戦争 =真相は日本が勝ったのだ=
          岩間書店刊・岩間 弘著 (下巻・P.188〜206)











<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その十二 >  (1729)
日時:2013年08月12日 (月) 14時14分
名前:信徒連合




<終戦の月・特集>


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
            安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



              <その十二>



日本近代史の第一級資料「東條英機・宣誓供述書」<その四>



< 真珠湾攻撃の実施 >



一二六、

帝国は昭和十六年十二月一日より開戦準備に入り、大本営陸海軍統帥部の企画に基づき、敵の大包囲網を「ハワイ」、比島、香港、及び「マレー」の四ヶ所に於て突破するの作戦に移りました。十二月八日(日本時間)早暁其の攻撃を実施しました。而して此の攻撃は何れも軍事目標に指向せられたのであります。此の攻撃作戦は統帥部に於て極秘裡に進められたものであります。私と海軍大臣を除く他の閣僚は事前に之を承知して居りません。(中略)即ち敵の方より先制することがあり得ると思われましたからです。先ず日本をして一撃を加へしめるよう仕向けるというが如き戦争指導手段が「アメリカ」側に考えられて居ったということは、その当時は予期して居りませんでした。



一二七、

私が真珠湾攻撃の成功の報を受け取ったのは、昭和十六年十二月八日午前四時三十分頃(日本時間)海軍側から伝えられた報告に依ったものと記憶致します。而してその奇蹟的成功を欣び天に感謝しました。大本営陸海軍報道部は同日午前六時米英と戦争状態に入りたる旨を発表し、同日八時三十分臨時閣議を招集し、此の席上初めて陸海軍大臣より作戦の全貌を説明したのであります。此の間に「マレー」方面の作戦成功の状況についても報告を受けました。



一二八、

我国の最終的通告を米国へ交付遅延の事情は証人亀山の証言(英文記録二六一八六頁)及び結城の証言(英文記録二六○九頁)により明白となりました。日本は真珠湾攻撃のために右覚書交付の時間決定については此の交付を故意に遅らせたという如き姑息なる手段に出たものではないことは、前に述べた通りであります。なお此のことは、実際上よりいうも証拠の示す如く、米国は攻撃の前に之を予知し、之に対する措置を構じて居ったのでありますから、もし覚書交付遅延の如きことをするも、格別の効果はなかったのであります。




< 大東亜解放と東條内閣 >

日本の企画せる大東亜政策殊に之を継承して東條内閣に於てその実現を図りたる諸事情



一四一、

日本の企図して居りました大東亜政策というものはその時代に依って各種の名称を以て表現せられて居ります。即ち例えば「東亜新秩序」「大東亜の建設」又は「大東亜共栄圏の建設」等というのがその例であります。此の大東亜政策は、支那事変以来具体的には歴代内閣によりその実現を企図せられ来ったものであります。そしてその究極の目的は、東亜の安定の確立ということに帰するのであります。而して昭和十五年七月の第二次近衛内閣以後の各内閣に関する限り、私はこの政策に関係したものとして其の真の意義目的を証言する資格がある者であります。



一四二、

抑々日本の大東亜政策は、第一次世界大戦後世界経済の「ブロック」化に伴い近隣世界相互間の経済提携の必要から、此の政策が唱えられるに至ったのであります。其の後東亜の赤化と中国の排日政策とにより支那事変は勃発しました。そこで日本は防共と経済提携とに依て、日華の国交を調整し以て東亜の安定を回復せんと企図しました。日本は支那事変を解決することを以て東亜政策の骨子としたのであります。

然るに、日本の各般の努力にも拘らず、米、英、蘇の直接間接の援蒋行為に依り事態は益々悪化し、日華両国の関係のみに於て支那事変を解決することは不可能であって、之が為には広く国際改善に待たねばならぬようになって来ました。日本は之に努力しましたが、米、英は却て対日圧迫の挙に出たのであります。茲に於て日本は止むを得ず、一方仏印、泰、更に蘭印との友好的経済的提携に努むると共に、東亜の安定回復を策するの方法をとるに至りました。以上は元より平和的手段に拠るものであり、亦列国の理解と協力とに訴えたものであります。

然るに日本に対する米英蘭の圧迫は益々加重せられ、日米交渉に於て局面打開不可能となり、日本は己むを得ず自存自衛のため武力を以て包囲陣を脱出するに至りました。右武力行使の動機は申す迄もなく、日本の自存自衛にありました。一旦戦争が開始せられた以後に於ては、日本は従来採り来った大東亜政策の実現、即ち東亜に共栄の新秩序を建設することに努めました。大東亜政策の実現の方策としては、先ず東亜の解放であり次で、各自由且つ独立なる基礎の上に立つ一家としての大東亜の建設であります。



一四三

大東亜政策の前提である「東亜解放」とは、東亜の植民地、乃至、半植民地の状態に在る各民族は他の民族国家と同様の世界に於て対等の自由を獲んとする永年に亘る熱烈なる希望を充足し、以て東亜の安定を阻害しつつある不自然の状態を除かんとするものであります。斯くして世界のこの部分に於ける不安は排除せられるのであります。恰も約一世紀前の昔「ラテンアメリカ」人が「ラテンアメリカ」解放のために戦ったのと同様であります。

当時、東亜民族が列強の植民地として又は半植民地として、他よりの不当なる圧迫の下に苦悩し、之よりの解放を如何に熱望して居たかはこの戦争中、昭和十八年十一月五日、六日、東京に開催せられたる「大東亜会議」に於る泰(タイ)国代表「ワンワイタヤーコン」殿下の演説に陳(の)べられた所により、之を表示することが出来ます。

曰く『特に一世紀前より英国と米国とは、大東亜地域に進出し来たり、或いは植民地として、或は原料獲得の独占的地域とし、或いは自己の製品の市場として、領土を獲得したのであります。従って大東亜民族は、或いは独立と主権とを失い、或は治外法権と不平等条約に依て、其の独立及び主権に種々の制限を受け、而も国際法上の互恵的取扱を得るところがなかったのであります。斯くして「アジア」は政治的に結合せる大陸としての性質を喪失して単なる地域的名称に堕したのであります。斯かる事情により生れたる苦悩は広く大東亜諸国民の感情と記憶とに永く留って居るのであります』と。(法廷証第二三五一)。

又同会議に於て南京政府を代表して汪兆銘(汪精衛)氏は其の演説中に於て為された演説を引用して居ります。之に依れば『日支両国は兄弟と同様であり日本は曾て不平等条約の束縛を受けるため発憤興起し、初めてその束縛を打破し、東方の先進国並に世界の強国となった。中国は現在同様に不平等条約廃棄を獲得せんとしつつあるものであり、日本の十分なる援助を切望するものである。中国の解放は即ち東亜の解放である』と述べております。(弁護側証第二七六○―B)

以上は単にその一端を述べたるに過ぎませぬ。之が東亜各地に鬱積せる不平不満であります。なお東條内閣が大東亜政策を以て開戦後、之を戦争目的となした理由につき簡単に説明いたします。従前の日本政府は、東亜に於けるこの動向に鑑み、又過去に於ける経験に照らして、早期に於て東亜に関係を有する列国の理解により之を調整するのでなければ、永久に東亜に禍根を為すものであることを憂慮致しました。

そこで大正八年(一九一九年)一月より開催せられた第一次世界大戦後の講和会議に於ては、我国より国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することの提案を為したのであります。(弁護側証第二八八六号)、しかしこの提案は、あえなくも列強により葬り去られまして、その目的を達しませんでした。依って東亜民族は大いなる失望を感じました。大正十一年の「ワシントン」会議に於ては何等此の根本問題に触れることなく、寧ろ東亜の植民地状態、半植民地状態は九ヶ国条約により、再認識を与えられた結果となり東亜の解放を希う東亜民族の希望とは益々背馳するに至ったのであります。

次で大正十三年(一九二四年)五月米国に於て排日移民条項を含む法律案が両院を通過し、大統領の署名を得て同年七月一日から有効となりました。これより先、既に明治三十四年(一九○一年)には、豪州政府は黄色人種の移住禁止の政策をとったのであります。斯くの如く東亜民族の熱望には一顧も与えられずに、益々之と反対の世界政策が着々として実施せられました。そこで時代に覚醒しつつある東亜民族は、焦慮の気分をもって、その成行を憂慮いたしました。その立場上、東亜の安定に特に重大なる関係を有する日本政府としては、此の傾向を憂慮しました。歴代内閣が大東亜政策を提唱致しましたことは、此の憂慮より発したのであって、東條内閣はこれを承継して、戦争の発生と共に之を以て戦争目的の一つとしたのであります。



一四四、

大東亜政策の眼目は大東亜の建設であります。大東亜建設に関しては当時日本政府は次のような根本的見解を持して居りました。抑々世界の各国がその所を得、相寄り相扶けて万邦共栄の楽を偕(とも)にすることが世界の平和確立の根本要義である。而して特に関係深き諸国が互に相扶け各自の国礎を培ひ、共存共栄の紐帯を結成すると共に、他の地域の諸国家との間に「協和偕楽」の関係を設立することが世界平和の最も有効にして且つ実際的の方途である。是れが大東亜政策の根底をなす思想であります。右は先に述べた昭和十八年十一月五日大東亜会議の劈頭(へきとう)に於て私の為した演説(法廷証一三四七号A)中にも之を述べて居るのであります。此の思想を根底として大東亜建設には次の様な五つの性格があります。

(一)は大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し、共存共栄の秩序を建設することであります。(後略)

(二)は大東亜各国は相互に自主独立を重んじ、大東亜の親和を確立することであります。(後略)

(三)は大東亜各国相互に其の伝統を尊重し、各民族の創造性に伸張し、大東亜の文化を昂揚することであります。

(四)は大東亜各国は互恵の下、緊密に連携し其の経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進する事であります。(後略)

(五)は大東亜各国は万邦との交誼を厚くし、人種的差別を撤廃し、普く文化を興隆し、進んで資源を解放し、以て世界の進運に貢献することであります。(中略)口に自由平等を唱えつつ他国家、他民族に対し、抑圧と差別とをもって臨み、自ら膨大なる土地と資源とを壟断し、他の生存を脅威して顧みざる如き世界全般の進運を阻害する如き旧秩序であってはならぬと信じたのであります。以上は大東亜政策を樹立する当初より、政府は(複数)此の政策の基本的性格たるべしとの見解でありました。斯くの如き政策が世界制覇とか、他国への侵略を企図し、又は意味するものと解釈せらるゝということは夢だにもせざりし所であります。



一四五、

以上の大東亜建設の理念は、日本政府(複数)が従来より抱懐して居ったところでありまして、日本と満州国との国交の上に於ても、亦、日華基本条約乃至(ないし)は、日満華共同宣言の締結に於ても、日支事変解決の前提としても、なお又、仏印及び泰国との国交の展開の上に於ても、総ては平和的方法により、其の達成を期せんとして居ることは、前にも述べた通りであります。この主旨は昭和十八年(一九四三年)十一月五日開催の大東亜会議に参集しました各国の代表の賛同を得て、同月六日に大東亜宣言として世界に表示したのであります。(証第一三四六号英文記録第一二○九八頁)



一四九、

外に対する施策として実施しました事として昭和十七年(一九四二年)十二月二十一日対支新政策を立て大東亜政策の本旨に合する如く、日支間の不平等条約撤廃を目的として逐次左の如く施策を進め、昭和十八年十月三十日を以て之を完了しました。即ち

(一) 昭和十八年一月九日とりあえず、中国に於ける帝国の特殊権利として有したる一切の租界の還付及び治外法権の撤廃に関する日華協定を締結し、直ちに之を実行しました。(証第二六一○号)

(ニ) 昭和十八年二月八日、中国に於て帝国の有せる敵国財産を南京政府に移管しました。

(三) 次で昭和十八年十月三十日、日華同盟条約(法廷証第四六六号)を締結し、その第五条及び付属議定書により、之より蘘(さき)昭和十五年十一月三十日に締結した日華基本条約に定めてあった一切の駐兵権を放棄し、日支事変終了後日本軍隊の駐兵権を含め、全面撤兵を約束し、ここに日支間の平等条約の最後の残滓(ざんし)を一掃したのであります。

(四) 而して対等の関係に於て新たに、前述の同盟条約を締結し、相互に主権及び領土の尊重、大東亜建設及び東亜安定確保のための相互協力援助並びに両国の経済提携を約したのであります。

 右に関し昭和十八年十一月十五日の大東亜会議に於て、中国代表汪兆銘氏は次の如く述べて居ります。(弁護側証二七六○―B)『本年一月以来日本は、中国に対し早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し、殊に最近に至り日華同盟条約をもって日華基本条約に代え、同時に各種付属文書を一切廃棄されたのであります。国父孫文先生が提唱せられました大東亜会議は、既に光明を発見したのであります。国父孫文先生が日本に対し切望しましたところの中国を扶け、不平等条約を廃棄するということも既に実現せられたのであります』と



一五○、

外に対する施策の其の二について一言しますれば、

(A)先ず「ビルマ」国の独立であります。昭和十八年八月一日、日本は「ビルマ」民族の永年の熱望に答え、その「ビルマ」国としての独立を認め且つ、同日之と対等の地位に於て日緬同盟条約(弁護側証第二七五七号)を締結しました。而してその第一条に於て其の独立を尊重すべきことを確約して居ります。又、昭和十八年九月二十五日帝国政府は帝国の占領地域中「ビルマ」と民族的に深き関係を有する「マレー」地方の一部を「ビルマ」国に編入する日緬条約(弁護側証第二七五八号)を締結し之を実行しました。之によっても明瞭なる如く、日本政府は「ビルマ」に対し何等領土的野心なく唯、その民族の熱望に応え、大東亜政策の実現を望んだことが判るのであります。元来「ビルマ」の独立に関しては日本政府は、太平洋戦争開始間もなく昭和十七年一月二十二日、第七十九議会に於て私の為した施政方針の演説中に於て、その意思を表明し(法廷証第一三三八号、英文記録一二○三四頁)又、昭和十八年一月二十二日第八十一議会に於て私の為した施策方針演説に於ても、「ビルマ」国の建国を認める旨を確約しました。(弁護側文書二七一一号)そして同年三月当時「ビルマ」行政府の長官「バー、モー」博士の来朝の際、之に我が政府の意思を伝え、爾後(じご)建国の準備に入り昭和十八年八月一日前述の如く独立を見たのであります。「ビルマ」民族がその独立を如何に熱望して居たかは、同年十一月六日の大東亜会議に於ける「ビルマ」国代表「バー、モー」氏の演説中に明かにされて居ります。その中の簡単な一節を引用しますれば次の如く言って居ります。(法廷証第二三五三号)『僅かに一千六百万の「ビルマ」人が独力で国家として生まれ出づるために戦争したときは常に失敗に終りました。何代にも亘って我々の愛国者は民衆を率い、打倒英国に邁進したのでありますが、我々が東亜の一部に過ぎないこと、一千六百万人の人間が、為し得ないことも十億の「アジア」人が団結するならば、容易に成就し得ること、此等の基礎的事実を認識するに至らなかったために、我々の敵に対するあらゆる反抗は、仮借することなく蹂躙(じゅうりん)されたのであります。斯くて今より二十年前に起った全国的反乱の際には「ビルマ」の村々は焼払われ、婦女子は虐殺され志士は投獄され、或は絞殺され、又は追放されたのであります。然し乍らこの反乱は失敗に終ったとは言え、この火焔(かえん)、アジアの火焔は「ビルマ」人全部の心中に燃えつづけたのでありまして、反英運動は次から次へと繰り返され、此のようにして闘争は続けられたのであります。而して今日漸くにして遂に我々の力は一千六百万人の「ビルマ」人の力のみではなく、十億の東亜人の力である日が到来したのであります。即ち東亜が強力である限り「ビルマ」は強力であり、不敗である日が到来したのであります』と。

(B)次は「フィリッピン」国の独立であります。昭和十八年十月十四日、日本は「フィリッピン」に対し全国民の総意によるその独立と憲法の制定とを認めました。(弁護側小証二八一○号)又同日これと対等の地位において同盟条約を締結しました。その第一条に於いて相互に主権及び領土の尊重を約しました。右の事実及び内容は弁護側証第二七五六号の通りであります。元来「フィリッピン」の独立に関しては、太平洋戦争開始前、米国は比島人の元来の熱望に応へ一九四六年七月を期し、比島を独立せしむべき意思表示を行って居ります。我国は開戦間もなく一九四二年(昭和十七年)一月二十二日の第七十九議会に於て、比島国民の意思の存するところを察し、その独立を承認すべき意思表示をしました。(法廷証一三三八号)而して昭和十八年一月二十二日第八十一帝国議会に於てこれを再確認しました。(弁護側証第二七一一号)次で更に同年五月には、私は親しく比島に赴きその民意のある処を察し、その独立の促進を図り、同年六月比島人より成る独立準備会により、憲法の制定及び独立準備が進められました。かくして昭和十八年十月十四日比島共和国は独立国家としての誕生を見るに至ったのであります。而して比島民族の総意による憲法が制定せられ、その憲法の条草に基き「ラウレル」氏が大統領に就任したのであります。又、日本政府は「ラウレル」氏の申出に基きその参戦せざること及び軍隊を常設せざることに同意しました。以上を以て明瞭なる如く日本は比島に対し何等領土的野心を有して居らなかったことが明らかとなるのであります。

(C)帝国と泰(タイ)国との関係に於ては、太平洋戦争が開始せらるる以前、大東亜政策の趣旨の下に平和的交渉が進められ、その結果

(1)昭和十五年六月十二日、日泰友好和親条約を締結し(法廷証五一三号)

(2)昭和十六年五月九日、保障及び政治的諒解に関する日泰間議定書を締結し(法廷証六三七号)相互に善隣友好関係、経済的緊密関係を約しました。

以上は太平洋戦争発生以前、日泰両国間は平和的友好裡に行はれたのであります。而して太平洋戦争後に於ては更に、

(3)昭和十六年十二月二十一日、日泰同盟条約を締結し(弁護側証第二九三二号)東亜新秩序建設の趣旨に合意し、相互に独立及び主権の尊重を確認し、且つ和平的軍事的相互援助を約しました。

(4)更に又、昭和十七年十月二十八日には日泰文化協会を締結して(弁護側証第二九三三号)両民族の精神的紐帯をも強化することを約しました。

(5)昭和十八年八月二十日、帝国は「マレー」に於ける日本の占領地中の旧泰国領土中、「マレー」四洲即ち「ベルリス」「ケダー」「ケランタン」及び「トレンガン」並びに「シャン」の二洲「ケントン」「モンパン」を泰国領土に編入する条約を締結したのであります。(弁護側証第二七五九号)

此の旧泰領土編入の件は、内閣総理大臣兼陸軍大臣たる私の発意によるものであります。(この決定の原本は今日入手不能、弁護側証二九二二号)同年七月五日私の南方視察の途、泰国の首都訪問に際し「ピプン」首相と会見し、日本側の意向を表明し、両国政府の名に於て之を声明したのであります。元来泰国に譲渡するのに此の地を選びましたのは、泰国が英国により奪取せられた地域が最も新しい領土喪失の歴史を有する地域であるがためであって、其の他の地域の解決はこれを他日に譲ったのであります。本来この処置については当初は、統帥部に於て反対の意向がありましたが、私は大東亜政策の観点より之を強く主張し、遂に合意に達したのであります。帝国のこの好意に対し泰国朝野が年来の宿望を達し、その歓喜に満てる光景に接して私は深き印象を受けて帰国しました。帰国間もなく本問題の解決を促進することに致しました。昭和十八年十一月六日の大東亜会議に於いて泰国代表「ワンワイ、タラヤコーン」殿下は之につき次の如く述べて居ります。(法廷証第二三五一号中)『日本政府は宏量、克く泰国の失地回復と民力結集の国民的要望に同情されたのであります。斯くて日本政府は、「マライ」四洲及び「シャン」二洲の泰国領編入を承認する条約を締結されたのであります。これ実に日本国は、泰国の独立及び主権を尊重するのみならず、泰国の一致団結と国力の増進を図られたことを証明するものでありまして、泰国官民は日本国民に対して深甚なる感謝の意を表する次第であります。』と。もっとも泰国民のこれに対する熱意を知るとともに、帝国に於ては、占領地域に対し領土的野心なきことの明白な証拠であります。(中略)而も本措置は此の占領地を自国の領土に編入するものではなく、泰国の福祉のためその曾て英国に依り奪取されたる旧領土を泰国に回復せんとする全く善意的のものであり、且つ之が東亜の平和に資するものであります。

当時この措置を為すに当り、持って居った私の信念を率直に申せば、一九四○年(昭和十五年)十二月独「ソ」間に「ポーランド」領を分割し国境の確定を為せる取り決めが行われたること、又、昭和十五年六月「ソ」連が「ルーマニア」領土の一部を併合したことを承知して居りました。此等の約定が秘密であると、公表されたるものであるとに拘らず、条約は即ち条約であり、共に国際法の制約の下に二大国家間に行なはれたる措置なりと承知しておりました。尚、本、日泰条約は戦争中のものであります。而して日本としては、戦争の政治的目的の一つは東亜の解放でありました。故に私は、この目的達成に忠ならんと欲し何等躊躇(ちゅうちょ)するところなく、東亜の解放をドシドシ実行すべきであると考えたのであります。即ち独立を許すべきものには独立を許し、自治を与うべきものには自治を与え、失地を回復すべき者には失地を回復せしむべきであるとの信念でありました。此等のことは戦後を待つ必要もなく、又之を待つを欲しなかったのであります。尚、終戦後左記の事実を知って、此の間の措置が国際法に豪末も抵触せざることを私は更に確信を得ました。即ち

(1)昭和十八年(一九四三年)十一月米、英、及び重慶政府間の「カイロ」会議に於て、未だその占領下にもあらざる日本の明瞭なる領土中、台湾、澎湖島を重慶政府に割譲するの約束が為されました。

(2)昭和二十年(一九四五年)二月ヤルタ協定に於て、これ亦未だ占領しあらざる日本領土である千島列島、樺太南部を「ソ」連に割譲することを、米、英、「ソ」間に約定せられ、而も他の条件と共に、之をもってソ連を太平洋戦争に参加を誘う道具となしたのであります。斯の如き措置は国際法の下に、大国の間に行なはれたのであります。私は此等により日本の先に為した措置が違法にあらざる旨を確信を得て居ります。

(D)蘭領印度に対しては、現地情勢は尚、その独立を許さざるものがありましたので、とりあえず、私は前記昭和十八年五月三十日の決定「大東亜政策指導要領」に基き内閣総理大臣として昭和十八年六月十六日、第八十二回帝国議会に於て、その施政演説中に於て(弁護側証第二七九二号)「インドネシア」人の政治参与の措置を採る方針を明らかにし、これに基き、現地当局は、これに応ずる処置をなし、政治参与機会を与えました。而して東條内閣総辞職後、日本は蘭印の独立を認める方針を決定したと聞いて居ります。

去る昭和二十二年(一九四七年)三月七日山本熊一氏に対する「コミンス、カー」検事の反対尋問中に証拠として提示せられたる日本外務省文書課作製と称せらるる『第二次大戦中ニ於ケル東印度ノ統治及ビ帰属決定ニ関スル経緯』(法廷証第一三四四号検察番号第二九五四号)に昭和十八年五月三十日御前会議に於て、東印度は帝国領土へ編入すべきことを決定したと述べて居ります。昭和十八年五月三十日の御前会議に於て蘭領東印度は一応帝国領土とする決定が為されたことは事実であります。此等地方の地位に関しては、私を含む政府は大東亜政策の観点より、速かに独立せしむべき意見でありましたが、統帥部及び現地総軍司令部並びに出先海軍方面に於て、戦争完遂の必要より過早に独立を許容するは適当ならずとの強き反対があり、議が進行せず、他面「ビルマ」「フィリッピン」の独立の促進及び泰国に対する占領地域の一部割譲問題など、政治的の急速処置を必要とするものあり、止むを得ず、一応帝国領土として、占領地行政を継続し置き、更に十分考慮を加え、且つ爾後の情勢を見て変更する考えでありました。これで本件は特に厳秘に附し、現地の軍司令官、軍政官等にも全く知らしめず、先ず行政参与を許し其の成行を注視すると共に本件御前会議決定変更の機を覗って居たのであります。即ち、昭和十八年五月三十日御前会議決定当時に於ても此等の土地を永遠に帝国領土とする考えはありませんせした。この独立のための変更方を採用する前に、私どもの内閣は総辞職を為したのでありました。小磯内閣に於て「インドネシア」の独立を声明しましたが、私も此の事には全然賛成であります。(注・文中に「戦争完遂の必要より過早に独立を許容するは適当ならず」とあるのは蘭印の石油資源を日本の国有にして作戦に支障なく使う必要があった為と思はれます)

(E)帝国政府は昭和十八年十月二十日、自由印度仮政府の誕生を見るに及び十月二十三日にこれを承認しました。右仮政府は大東亜の地域内に在住せる印度の人民を中心として「シニバス、チャンドラボース」氏の統率の下に、印度の自由独立及び繁栄を目的として、之を推進する運動より生れたのであります。帝国は此の運動に対しては大東亜政策の趣旨よりして、印度民族の年来の宿望に同情し全幅の支援を与えました。なお、昭和十八年十一月六日の大東亜会議の機会に於て、我国の当時の占領地域中唯一の印度領たる「アンダマン、ニコバル」両諸島を自由印度仮政府の統治下に置く用意ある旨を声明しました。(弁護側文書第二七六○号−E)これ亦我が大東亜政策の趣旨に基き之を実行したのであります。


        大東亜解放戦争 =真相は日本が勝ったのだ=
         岩間書店刊・岩間 弘著 (下巻・P.206〜226)











<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その十三 > (1732)
日時:2013年08月13日 (火) 08時40分
名前:信徒連合




<終戦の月・特集>


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
            安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



              <その十三>



日本近代史の第一級資料「東條英機・宣誓供述書」<その五>




一五一、

大東亜政策として外に対する施策の第三である大東亜会議は、日本政府の提唱に依り、昭和十八年十一月五、六日の両日東京に於て開催せられました。参会した者は中華民国代表、同国民政府行政院長汪兆銘氏、「フィリッピン」代表同国大統領「ラウレル」氏、泰国代表、同国内閣総理大臣「ピプン」氏の代理「ワンワイタラヤコーン」殿下、同国務総理張景恵氏、「ビルマ」代表、同国首相「バーモー」氏及び日本国の代表、内閣総理大臣である私でありました。この外自由印度仮政府首班「ボース」氏が陪席しました。而して本会議の目的は、大東亜秩序の建設の方針及び大東亜戦争完遂に関し、各国間の意見を交換し、隔意なき協議を遂ぐるにありました。

この会議の性質及び目的に関しては、予め各国に通報し、その検討を経(へ)、且つ其の十分なる承諾の下に行なはれたものであります。私は各国代表の推薦により議長として議事進行の衝に当りました。会議の第一日即ち十一月五日には、各国代表がその国の抱懐する方策及び所信を披歴しました。第二日即ち十一月六日には、大東亜共同宣言を議題として審議し、その結果満場一致を以て之を採択しました。之は証第一三四六号の通りであります。ここに関係各国は大東亜戦争完遂の決意、並びに大東亜の建設に関しては、その理想と熱意につきその根本に於て意見の一致を見、大東亜各国の戦争の完遂、及び大東亜建設の理念を明らかにしたのであります。

次に満州国代表張景恵氏より此の種の会合を将来に於ても、随時開催すべき旨提議がありました。「ビルマ」代表「バーモー」氏より自由印度仮政府支持に関する発言があり、之に引続きて自由印度仮政府首班「ボース」氏の印度独立運動に関する発言がありました。私は「アンダマン、ニコバル」両諸島の帰属に関する日本政府の意向を表明しました。(弁護側証二七六○−E号)斯くして本会議は終了しました。本会議は強制的のものでなかったことは、その参加者は次のような所感を懐いて居ることより証明できます。「フィリッピン」代表の「ラウレル」氏はその演説の中に於て次の如く述べて居ります。曰く『私の第一の語は先ず本会合を発起せられた大日本帝国に対する深甚なる感謝の辞であります。即ち、此の会合に於て大東亜諸民族共同の安寧と福祉との諸問題が討議せられ、又大東亜諸国家の指導者閣下に於かれましては親しく相交ることに依りて、互に相知り依て以て亜細亜(アジア)民族のみならず、全人類の栄光のために大東亜共栄圏の建設及びこれが恒久化に拍車をかけられる次第であります。(法廷証二三五二号)と申して居ります。

又陪席せる自由印度仮政府代表「ボース」首班の発言の中には『本会議は戦勝者間の戦利品』分割の会議ではありません。それは弱、小国家を犠牲に供せんとする陰謀謀略の会議でもなく、又弱小なる隣国を瞞着せんとする会議でもないのでありまして、此の会議こそは解放せられたる諸国民の会議であり、且つ正義、主権、国際関係に於ける互恵主義及び相互援助等の尊厳なる原則に基づいて、世界の此の地域に新秩序を創建せんとする会議なのであります。』(法廷証二七六○号−D号)と言って居ります。

更に「ビルマ」代表バーモー氏は本会議を従来の国際会議と比較し次の如く述べて居ります。曰く『今日此の会議に於ける空気は全く別個のものであります。此の会議から生まれ出る感情は、如何様に言い表はしても誇張し過ぎる事はないのであります。多年「ビルマ」において私は亜細亜の夢を夢に見つづけて参りました。私の「アジア」人としての血は常に他の「アジア」人に呼びかけて来たのであります。昼となく夜となく私は自分の夢の中で「アジア」はその子供に呼びかける声を聞くのを常としましたが、今日此の席に於て私は初めて夢であらざる「アジア」の呼声を聞いた次第であります。我々「アジア」人はこの呼声、我々の母の声に答えてここに相集うて来たのであります』(法廷証二三五三号)




< ソ連竝にコミンターンとの関係 >



一五五、

日本は未だ嘗て検察側の主張するが如き蘇(ソ)連邦に対し、侵略を為せることは勿論、これを意図したこともありません。我国は寧(むし)ろ蘇連邦の東亜侵略に対し、戦々恐々其の防衛に腐心し続けて来たのでありました。殊に昭和七年(一九三二年)満州国の成立後に於ては、日本はその防衛の必要と、日満共同防衛の盟約とに基き同国と協力し、隣邦蘇連に対し、満州国の治安確保と其の防衛に専念し来たのであります。而して日本陸軍としては、此の目的を達するための軍事整備の目標を、主として蘇連極東軍に置いて居たのであります。従って、日本陸軍の対「ソ」作戦計画の本質は対「ソ」防衛であります。その計画手段を含んで居りますが、之は国家が万一開戦を強いられた場合において採るべき戦闘手段を準備計画せるものであり、我方より進んで戦争することを意味するものではありません。又、決して侵略を目的としたものではないことは勿論であります。尚、大東亜共栄圏に西比利亜(シベリア)地域を国家の意思として考えたこともありません。

本法廷に於て検察側よりいわゆる『関特演』計画に関することが証拠として提示せられて居りますが、これとても此の範囲を出づるものでなく、且つこれは一に資材、人員の補充を計ったものであります。他面日本の対蘇外交は常に蘇連邦との間に「静謐保持」を以て一貫した政策として居ったのであります。支那事変、次で太平洋戦争発生後に於ては、日本は北辺に事無からんことを常に最新の注意を払い、殊に昭和十五年(一九四○年)四月、蘇連邦との間に日蘇中立条約の締結を見たる以後に於ては、これが堅持を基本として対「ソ」平和政策を律してきたのでありまして、昭和二十年(一九四五年)八月同条約の有効期限に之を破って侵略を行ったのは日本ではありませんでした。

他面帝国は第三「インターナショナル」の勢力が東亜に進出し来ることに関しては、深き関心を払って来ました。蓋し、共産主義政策の東亜への浸透を防衛するにあらざれば、国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を攪乱し、延いて世界平和を脅威するに至るべきことをつとに恐れたからであります。之がため、国内政策としては、大正十四年(一九二五年)治安維持法を制定し(若槻内閣時代)昭和十六年更に之を改訂し、以て國體変革を戒め、私有財産の保護を目的として共産主義による破壊に備え、又、対外政策としては、支那事変に於て、中国共産党の活動が、日支和平の成立を阻害する重要なる原因の一たるに鑑み、共同防共を事変解決の一条件とせることも、又東亜各独立国家間に於て「防共」を以て共通の重要政策の一としたることも、之はいづれも各国協同して東亜を赤化の危険より救い、且つ、自ら世界赤化の障壁たらんとしたのであります。これら障壁が世界平和のため如何に重要であったかは、第二次世界大戦終了後、此の障壁が崩壊せし二年後の今日の現状が雄弁に之を物語って居ります。




< 摘 要 >


一五六、

本供述書は、事柄の性質が複雑且つ重大なるよりして期せずして相当長文となりました。ただ私は世界史上も最も重大なる時期に於て、日本国家が如何なる立場に在ったか、又同国の行政司掌の地位に選ばれた者等が、国家の栄誉を保持せんがため真摯に、其の権限内に於て、如何なる政策を樹て、且つ之を実施するに努めたかを、此の国際的規律に於ける大法廷の判官各位に御諒解を請はんがため、各種の困難を克服しつゝ之を述べたのであります。

斯の如くすることに因り、私は太平洋戦争勃発に至るの理由及び原因を描写せんとしました。私は右等の事実を徹底的に了知する一人として、我国に取りましては無効且つ惨害を齎した一九四一年(昭和十六年)十二月八日に発生した戦争なるものは、米国を欧州戦争に導入する為の連合国側の挑発に原因し、我国に関する限りに於ては、自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります。

尚、東亜に重大なる利害を有する国々(中国自身を含めて)が、何故戦争を欲したかの理由は他にも多々存在します。これは私の供述の中に含まれて居ります。但(ただ)我国の開戦は最後的手段として、且つ緊迫の必要よりして決せられたものである事を申上げます。

満州事変、支那事変及び太平洋戦争の各場面を通して、其の根底に潜む不断の侵略計画ありたりと為す主張に対しては、私はその荒唐無稽なる事を証する為、最も簡潔なる方法を以て之を反証せんと試みました。我国の基本的且つ、不変の行政組織に於て多数の吏僚中の内、少数者が長期に亘り、数多の内閣を通じて、一定不変の目的を有する共同謀議(此の観念は日本には存在しないが)を為したなどという事は、理性ある者の到底思考し得ざる事なることが、直ちに御了解下さるでありませう。

私は何故に検察側がかゝる空想に近き訴追を為さるかを識るに苦しむ者であります。日本の主張した大東亜政策なるものは侵略的性格を有するものなる事、これが太平洋戦争開始の計画に追加された事、尚この政策は白人を東亜の豊富なる地帯より駆逐する計画なる事を証明せんとするため、本法廷に多数の証拠が提出せられました。之に対し私の証言は、この合理にして且つ自然に発生したる導因の本質を白日の如く明瞭になしたと信じます。

私は又国際法と太平洋戦争の開始に関する問題とにつき触れました。又日本に於ける政府と統帥との関係殊に国事に関する天皇の地位に言及しました。私の説明が私及び私の同僚の有罪であるか無罪であるかを御判断下さる上に資する所あらば幸せであります。

終りに臨み――恐らくこれが当法廷の規則の上に於て、許さるる最後の機会でありましょうが――私は茲に重ねて申上げます。日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。一歩は一歩より進み又、適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い之を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。

当年国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起ったという事が唯一つ残された途でありました。我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。

戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。

第一の問題は外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私は未だ嘗て我国が本戦争を為したことを以て、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が、個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。

第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私は、之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。 以上

右ハ当時立会人ノ面前ニテ宣誓シ且ツ署名捺印シタルコトヲ証明シマス
同日同所
立会人 清瀬一郎

宣誓書

良心ニ従ヒ真実ヲ述ベ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ
署名捺印 東條英機

昭和二十二年(一九四七年)十二月十九日 於東京、市ヶ谷
供述書 東條英機



//////////////////////////////////////



詔 書

天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚(こうそ)ヲ践(ふ)メル大日本帝国天皇ハ昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝有衆(なんじゆうしゅう)ニ示ス 朕茲に米国及ビ英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海軍将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコト期セヨ

抑々(そもそも)東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕(ひけん)ナル皇祖考丕承(ひしょう)ナル皇考ノ作述セル遠猷(えんゆう)ニシテ朕カ挙々(けんけん)措(お)カサル所而(しこう)シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ之亦(これまた)帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端(きんたん)ヲ開クニ至ル洵(まこと)ニ已(や)ムヲ得サルモノアリ豈(あに)朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩(さき)ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫(みだり)ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱(こうらん)シ遂ニ帝国ヲシテ干戈(かんか)ヲ執ルニ至ラシメ茲(ここ)ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼(よしみ)ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭(ひいん)ヲ恃(たの)ミテ兄弟尚未タ檣(かき)ニ相鬩(せめ)クヲ悛(あらた)メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿(かく)レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞(たくまし)ウセントス剰(あまつさ)ヘ與国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與へ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ニ裡(うち)ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ彌(わた)リタルモ彼ハ豪モ交譲ノ精神ナク徒(いたずら)ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ッテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯クノ如クにシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕(ひん)セリ事既ニ此(ここ)ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然(けつぜん)起ッテ一切ノ障礙(しょうがい)ヲ破砕スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚(しんい)シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘(かいこう)シ速ニ禍根ヲ芟除(きんじょ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

御名御璽

昭和十六年十二月八日
各大臣副署




< 詔 書 >



朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ對(たい)シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧(こうねい)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ挙々措(けんけんお)カサル所曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ亦実に帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶畿(しょき)スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スか如キハ固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦己(すで)ニ四歳ヲ閲(けみ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆民ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸連邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たふ)レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内(ごだい)為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以て万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠(はいさい)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相傳ヘ確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣
各国務大臣副書




東條英機の慟哭(再掲示)


今、東條英機の供述書を終って思うことは米軍の逮捕の使者が自宅に来た時、東條英機はピストル自殺を図ったが、どうしたことか手元が狂い自殺を為損ったのであった。首相で陸軍大臣という最高責任者だった者がと世間から冷笑を受けたが、あれは神様が日本の為に死なせない様に、手許を狂わせたものであったと私には思えてきた。東條英機程の人が普通だったら手元が狂う筈はないからである。多くの人達はそんな馬鹿な、とお思いになるかも知れないが神様は全知全能であるから、神様なら不可能を可能にすることが出来ると思う。之は信じるか信じないかの問題だから、判ってくれる人は判ってくれると私は思う。

さて余談になったが神様は東條英機にこの供述書を書く意思と時間を与えて下さったのだと私は思う。大東亜戦争について述べるのに、どんな人が書こうがこの東條英機の供述書に勝るものはないと私は思った。“神様は日本を護って下さっている”これを読むとその感が深い。多くの人がこの供述書を読むことによって、日本が戦った大東亜戦争の実相を知ることが出来て、日本は侵略国ではなかったのだという事を正しく知ることが出来るのではないかと思うのであります。

その言葉に、行間に、天皇への忠誠と、憂国と愛国の裂帛(れっぱく)の気合が感じられる。そこには死を覚悟した、いや、生死を超越した勇者のことばがあるのみである。


さて、東條英機のお孫さんに岩浪由布子(いわなみゆうこ)さん(本名岩浪淑枝=英機の長男英隆氏の長女)が居られるが、その方が書かれた『祖父東條英機「一切語るなかれ」』があるが、その中に「祖父が巣鴨拘置所にあった時に三浦先生は東條の主任弁護人、清瀬一郎先生と弁護の仕方で激論を交わしたことがある。清瀬さんは東條の罪を軽くすることに奔走されていた。

しかし、三浦先生の考え方は違っていた。たとえ死刑になったとしても、法廷では東條は堂々と自分の考えを述べるべきだと。そうでなければ、何故戦争を始めたかの一番大切なところが曖昧になるという立場をとられた。祖父もまったく三浦先生と同じ考えだったからこそ、あれほど堂々と法廷で自論を述べることが出来たのであろう。」と書かれている。供述書の終りの摘要に堂々と述べている。再び述べると

「私は茲に重ねて申上げます。日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。一歩は一歩より進み又、適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い之を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。当年国家の運命を商量較計(注・左右する)するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起ったという事が唯一つ残された途でありました。我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。第一の問題は外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。私は未だ嘗て我国が本戦争を為したことを以て、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が、個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私は、之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。」と結んでおります。

大東亜戦争は自衛戦であったというのは、その日本と戦った米国の連合国最高司令官マッカーサーは昭和二十五年五月二十五日、北朝鮮が突如三十八度戦を突破して韓国に攻め入った朝鮮戦争によって、共産主義国の脅威にはじめて目覚めて、朝鮮戦争に原爆を使うかどうかについて、トルーマン大統領と意見が合わず解任された後、アメリカ上院で証言し、「日本が太平洋戦争を戦ったのはSecurity(セキュリティー・防衛安全保障)の為即ち自衛の為だったと証言したのである。日本とフィリッピンで死闘を戦った最高司令官が証言した意義は重大である。東京裁判を指揮して七名を絞首刑、残り十八名は全員有罪としたその人が、防衛・安全保障のためだった即ち侵略戦争ではなかったと証言したことは、東京裁判は間違っていたと証言した事と同じである。

これを念頭に置いて、再び岩浪由布子さんの書物から次の文を読むと東條英機の心情に心が打たれるのである。即ち

「・・・開戦を避けるために日夜必死に続けられていた日米交渉は遂に決裂し、昭和十六年十二月八日、日本は米・英に対して宣戦を布告した。十二月六日深夜から七日にかけて、祖母たちは祖父の寝室から忍び泣きの声が洩れてくるのに気がついた。その声は次第に慟哭(どうこく)に変わっていった。祖母がそっと寝室を覗くと、祖父は蒲団に正座して泣いていた。和平を希求される陛下の御心に心ならずも反する結果になり、宣戦布告をするに至った申しわけなさで身も心も、ちぎれる思いだったに違いない。慟哭の涙はとめどなく流れた。祖母は寒い廊下にしばし茫然と立ち尽くしていた。」とあります。

これを読むと、東條英機はこの戦争に、日本が勝利することは、きわめて難しいと覚悟をしていた様に思われる。それが判って居ても日本は戦わざるを得なかったのである。そして死中に活をもとめたのだろう。

日本は戦争はしたくはなかったのだ。しかし戦争をしないでハルノートを受諾したらどうだったか。日本は一戦も交えずに敗けたと同じに、支那、満州、仏印から、陸、海、空軍及警察の撤退、満州政府の否認、汪兆銘政府の否認ということになれば日本の面子は丸つぶれとなり、日本国内に反対の声が湧き起こり、三国干渉で旅順、大連を返還した時と比べものにならない騒乱の発生が予想されるのである。そうなれば戦はず敗戦国となり、収拾がつかなくなる恐れがあったのである。

インドのパール判事はハルノートについて次の様に語っている。「現在の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本に送ったものと同じ通牒を受けとった場合、モナコ王国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカにたいして武器をとって起ちあがったであろう」(田中正明「パール博士の日本無罪論」)と言っているのである。再び云う。日本は自ら好き好んで戦ったのではなく、自存自衛の為の戦いで侵略戦争ではなかったのである。


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<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その十四 > (1735)
日時:2013年08月14日 (水) 11時59分
名前:信徒連合




<終戦の月・特集>


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
            安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事・その他の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



              <その十四>



         本来の日本と日本人 <その1>


本来の日本と日本人はこのように素晴らしかったNEW (9375)
日時:2012年05月22日 (火) 11時22分
名前:龍

5月21日の「ねずきちのひとりごと」というブログ

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1509.html#more

に、各国の人々が日本を讃える言葉が紹介されていました。
長くなりますが、是非目を通しください。 合掌。


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@ 世界の国歌のうち最も荘厳なもの。(『君が代』について)
[ヘルベルト・フォン・カラヤン]



A 我々が(オランダから)独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのに、同じ有色人種の我々に同じことが出来ない訳はないと発憤したからである。
[スカルノ大統領]



B 裁判官パール氏の主張が絶対に正しいことを、私は全然疑わない。
[ハンキー卿(英国枢密院顧問官)]



C 日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。
[ラフカディオ・ハーン]



D 日本の僧侶たちはといえば、老僧も小坊主も親切さとこのうえない清潔さがきわだっていて、無礼、尊大、下劣で汚らしいシナの坊主たちとは好対照をなしている。
[ハインリッヒ・シュリーマン]



E 大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。
[朴鉄柱(韓国、韓日文化研究所)]



F 日本の天皇の宣戦書には、東洋平和を維持し大韓独立を強固にすると書かれていた。そのような大義は青天白日の光線より勝っていたのであり、韓・清の人々の智恩を論ずることなく、みな心を同じくして、賛同し服従したのである。もう一つは、日露の開戦は黄白両人種の競争というべきものであって、前日までの日本に対する仇敵の心情がたちまち消え、かえって、一大愛種党となるにいたったのであり、これまた人情の順序であり、理に合うものであった。快なるかな、壮なるかな。数百年来、悪を行い続けてきた白人種の先鋒が、鼓を一打したたけで大破してしまったのである。日露戦争の勝利は一千古に稀な事業として万国で記念すべき功績であった。だからこのとき韓・清両国の有志は、はからずも同じように、自分たちが勝ったように喜んだ。
[安重根(伊藤博文を暗殺した韓国の“英雄”)]



G 私は貧農の生まれで、学校に通うなど思いもよらなかったが日本人の役人が両親を説得して小学校に行く事が出来た。そしたら学校の教師がお前は頭が良いから無料の師範学校に行った方が良いと推薦してくれた。師範学校では更に優秀さを認めてくれて陸軍士官学校に推薦してくれた。その結果士官学校首席として日本人同期生のトップで卒業し、陸軍将校に成る事が出来た。今の私が有るのは清廉で誠実な日本人達のおかげである。
[朴正熙(韓国元大統領)]



H 日本人はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。
[ヴァリニャーノ]



I アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。
[ナチール(インドネシア元首相)]



J 日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。
[ラフカディオ・ハーン]



K 日本人は自分の子弟を立派に薫育する能力を持つてゐる。ごく幼い頃から讀み書き、法制、國史、地理などを教へ、大きくなると武術を教へる。しかし一等大切な點は、日本人が幼年時代から子弟に忍耐、質素、禮儀を極めて巧みに教へこむことである。われわれは實地にこの賞讃すべき日本人の資質を何度もためす機會を得た。
[ゴロヴニン]



L 日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです。
[ノンチック(元マレーシア上院議員)]



M この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれるのである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない。
[ラフカディオ・ハーン]



N この国に来られた日本のある学校の先生は、「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。
[ノンチック(元マレーシア上院議員)]



O 日本人は信用すべしと認められる。彼らは第一の目的である名誉に邁進する。また恥を知るを以て漫に他を害うことは無い。彼らは名誉を維持するためには喜んで生命を捨てる。
[フランソア・カロン]



P 我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である。
アラムシャ(インドネシア元第三副首相)



Q 日本はどんな悪いこ事をしたと言うのか。大東亜戦争でマレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが英軍は再び取り返すことができずマレーシアは独立したのだ。
[シャフィー(元マレーシア外務大臣)]



R 日本人は、野蛮な西洋人がするように、花先だけを乱暴に切り取って、意味のない色の塊を作り上げたりはしない。日本人はそんな無粋なことをするには、自然を愛しすぎていると言える。
[ラフカディオ・ハーン]



S 特にインドネシアが感謝することは戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。
[サンパス(インドネシア元復員軍人省長官)]





<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その十五 > (1746)
日時:2013年08月15日 (木) 10時54分
名前:信徒連合



<終戦の月・特集>


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
            安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事・その他の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



              <その十五>



         本来の日本と日本人 <その2>


本来の日本と日本人はこのように素晴らしかったNEW (9375)
日時:2012年05月22日 (火) 11時22分
名前:龍

5月21日の「ねずきちのひとりごと」というブログ

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に、各国の人々が日本を讃える言葉が紹介されていました。
長くなりますが、是非目を通しください。 合掌。



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21:

世界に最も「良い影響」を与えている国は日本。米メリーランド大が世界の約4万人を対象に実施した英BBC放送との共同世論調査で、こんな結果が出た。同大が3日発表した。調査は昨年10−12月に米州、欧州、中東、アフリカ、アジア各地域の33カ国で行われた。質問の対象となったのは日本、米国、中国、ロシア、フランス、英国、インド、イランの8カ国と欧州。調査結果によると、日本が世界に「好影響」を与えているとの回答は、33カ国中31カ国で「悪影響」を上回り、平均すると好影響が55%、悪影響が18%だった。
[(共同通信2006/02/04)]



22:

日本「世界に良い影響」、独と並びトップ。読売新聞社が英BBC放送と実施した共同世論調査によると、日本は世界に良い影響を与えていると思う人は56%で、悪い影響を与えているとの答えは21%だった。「良い影響」はドイツと並んで最も高く、「悪い影響」はドイツの18%に次いで低い数値となり、総合的に高く評価された。調査は昨年10月から今年1月にかけて34か国で行い、政治、経済、安全保障分野で世界に影響を及ぼす14か国・国際機関についての評価を聞いた。(中略)日本に対する各国の評価を見ると、「良い影響」が最も高かったのはケニアの78%。「悪い影響」は中国55%、韓国52%が目立った。
[(BBC・読売調査2008/04/02)]



23:

東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として、復讐の感情に駆られた、公正ならざる裁判だった。
[キーナン(極東国際軍事裁判首席検事)]



24:

自分の農地を整然と保っていることにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはないであろう。田畑は、念入りに除草されているばかりか、他の点でも目に見えて整然と手入れされていて、まことに気持ちがよい。
[オールコック]



25:

この裁判は歴史上最悪の偽善であった。このような裁判が行われたので息子には軍人になることを禁ずる。
[ウィロビー(GHQ参謀第二部長)]



26:

ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、彼は、旅の終りまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。
[イザベラ・バード]



27:

日本は西洋諸国の植民地を解放した罪によって罰せられたが、その四半世紀もたたないうちに、1960年(昭和35年)に国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。
[レーリンク(極東国際軍事裁判蘭代表判事)]



28:

我々は戦争法規を擁護する為に裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争規を徹底的に踏みにじった事を、毎日見せつけられていたのだから、それは酷いものだった。もちろん、勝者と敗者を一緒に裁く事は不可能だった。東條が東京裁判は勝者による復讐劇だと言ったのはまさに正しかった。
[レーリンク(極東国際軍事裁判蘭代表判事)]



29:

このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。
[グラバイ・デサイ(インド弁護士会会長)]



30:

日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい。
[ヤクブケヴィッチ(ポーランド極東委員会副会長)]



31:

日本人は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族の群を抜いている。彼らの鋼や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。農夫が自分の土地にかける熱心さと、そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい。
[ツュンベリー]



32:

アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 
清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
[インドネシア祖国防衛義勇軍のマーチ]



33:

日本の戦争責任を問うならば、それより以前、非人間的な支配と収奪をつづけた欧米の宗主国の責任はどうなるのか。日本が来たことで植民地支配から解放され近代化がもたらされた。
[マハティール(マレーシア首相)]



34:

有色人種が先天的に劣っているという誤解を日本が打破してくれた。日本が有色人種を白色人種の奴隷から救ってくれるので、有色人種は日本を指導者として従い我々の夢を実現しなければならない。
[ウィリアム・デ・ボイス(アフリカ解放の父)]



35:

日本人の間には、罵倒、呪詛、悪口、非難、侮辱の言葉がなく、また戦争、借用者、海賊の名目をもってなされる場合を除けば、盗みは行なわれず、窃盗行為はひどく憎悪され、厳罰に処せられる。
[ヴァリニャーノ]



36:

パリもニューヨークもローマも忘れてしまえ。グルメの本場は東京なのだ。
[ロイター通信(ミシュラン東京版発売の報道)]



37:

日本人は造園芸術にかけては世界一ともいうべく、彼等はあらゆる事象の美しさをたのしむらしく見えた。
[モース]



38:

私は、日本人ほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。
[イザベラ・バード]



39:

欧米諸国は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示する目的であったにちがいない。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流れていくのを、私は平然と見過ごす訳にはゆかない。誤られた彼らの宣伝を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられなければならない。
[ラダ・ビノード・パル(極東国際軍事裁判判事)]



40:

日本は国際法に照らし、全被告は無罪である。
[ラダ・ビノード・パル(極東国際軍事裁判判事)]









<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その十六 > (1758)
日時:2013年08月16日 (金) 09時37分
名前:信徒連合



<終戦の月・特集>


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
            安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事・その他の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



              <その十六>



         本来の日本と日本人 <その3>


本来の日本と日本人はこのように素晴らしかったNEW (9375)
日時:2012年05月22日 (火) 11時22分
名前:龍

5月21日の「ねずきちのひとりごと」というブログ

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1509.html#more

に、各国の人々が日本を讃える言葉が紹介されていました。
長くなりますが、是非目を通しください。 合掌。


―――――――――――――




41:

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。
[モース]



42:

 第一に、私たちが交際することによって知りえた限りでは、日本人は今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。
[フランシスコ・ザビエル]



43:

日本国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。
[ヴァリニャーノ]



44:

昭和23年の国会で教育勅語がとりやめになったのは残念です。教育勅語で日本の教育が成長したんです。父母に孝に友に、夫婦相和し朋友相信じ…。もういっぺん日本は教育勅語をやり直すべきです。日本には教育勅語がないから、夫婦相和さず、離婚率が高いのです。朋友が信じないから「いじめ」が絶えないのです。外国は日本の弱体化を図ってこの教育勅語を外してしまった。それを日本人は知らないが、これは間違っている。どこにも軍国主義的なところはない。教育勅語は人間の人間たることを明治天皇がお示しになったまでです。一旦緩急アレバ義勇公ニ奉」ずる精神が失われたから「陸軍記念日」も祝われず、国会で謝罪決議さえ行うのです。台湾には、大和魂があるから、選挙の時に中共(中華人民共和国)から台湾沖にミサイルを三発撃ち込まれても、ビクともしませんでした。能登半島沖に北朝鮮からノドン一号が打ち込まれましたが、日本の反応はいかがでしたか。
[許国雄]



45:

日本がキリスト教に改宗するなら、道徳やそのほかの面で得るものは何もないが、失うものは多いといわねばならない。これは、公平に日本を観察してきた多くの見識者の声であるが、私もそう信じて疑わない。
[ラフカディオ・ハーン]



46:

神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。
[ラフカディオ・ハーン]



47:

ペリリュー島の桜を讃える歌


激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
強兵(つわもの)たちはみな散って 
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる


小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち 
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない


将兵(ヘいし)は桜を叫びつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの桜に意味深し


日本の桜は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の桜は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に


今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る 


平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし桜花
今では平和が甦る


どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる


戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
[オキヤマ・トヨミ、ショージ・シゲオ作詞(ともにパラオ人)]



48:

ノギとかトーゴーとかいう名前の者は、この辺はたくさんいましてね。ノギ集まれ、トーゴー集まれっていったらこの教会からはみだしますよ。「ノギ」というのは乃木大将のノギですよ。「トーゴー」はもちろん東郷平八郎に因んでのことです。
[ポーランドのある教会の神父]



49:

この勝利(日露戦争)がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。それはすべての虐げられた民衆に新しい夢を与える歴史的な夜明けだったのである。ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。それはわれわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的にみれば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点とも呼べるものであった。
[バ・モー(ビルマ首相)]



50:

私達は国旗の選択に相当苦労した。応募者は悉く各島の人々であり、それぞれの旗にパラオの歴史と伝統がこめられていた。だから、選考委員は真剣であった。選考に日数をかけた。でも、最終的にこの旗に決まったのは、日本の旗に一番似ていたので、最大の人気が集まった。日の丸の部分を黄色にしたのは、月を現わす。周囲の青地は海を意味する。月は太陽が出ないと輝くことができない。つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つ。太陽とは日本のことである。海に囲まれたパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのである。我々はまた戦争中に、日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大きな魅力と尊敬を捧げている。一万に及ぶ英霊たちは私達に、勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである。
[パラオ国旗の解説文]



51:

アジアの一国である日本の(日露戦争の)勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた。ヨーロッパの一大強国が破れたとすれば、アジアは昔たびたびそうであったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり『アジア人のアジア』の叫びが起きた。日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった。
[ネール(インド首相)]



52:

これら日本の英雄達(大東亜戦争の戦士)は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。
[ベルナール・ミロー(フランス人ジャーナリスト)]



53:

私は海外に出て初めて「実物の日本人」と会い、かれらが予想外に洗練された人たちであり、韓国人と比べて立派な点が多くあることを知りました。
[金完燮]



54:

日本のみなさん、自信を持って下さい。まだまだ日本には底力があります。皆さんが立ち上がって、大国としての政治をやれば日本は強い国になります。欧米の金融メジャーからアジア経済を守り、共産主義国家の武力侵攻に対抗できる国は日本しかありません。地球環境保護の問題で世界をリードできる技術も日本は持っています。私は、日本がもっと強い国になり、政治経済の上で本当にアジアの盟主となってくれることを願っています。日本と台湾が手を取り合って頑張れば、きっとアジアはもっとすばらしい発展を遂げることができると思います。・・・皆さん、すばらしい日本と台湾、そして新しいアジアの建設のために共に努力してゆこうではありませんか。
[許国雄]



55:

アメリカの青年たちよ。東洋には、すばらしい国がある。それは日本だ。日本には君達が想像もつかない立派な青年がいる。ああいう青年がいたら、やがて日本は世界の盟主になるに違いない。奮起しろ!
[スプルアンス(硫黄島の激闘時の米軍司令官)]



56:

かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切でこころ豊かだった
アジアの国の誰にでも自分のことのように一生懸命つくしてくれた。何千万人もの人のなかには少しは変な人もいたし、おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけていばってばかりいる人だっていなかったわけじゃない。でもその頃の日本人はそんな少しのいやなことや不愉快さを越えておおらかでまじめで希望に満ちて明るかった。戦後の日本人は自分たち 日本人のことを悪者だと思い込まされた。学校も ジャーナリズムもそうだとしか教えなかったから。まじめに自分たちの父祖や先輩は悪いことばかりした、残酷無情なひどい人たちだったと思っているようだ。だから アジアの国に行ったらひたすら ペコペコあやまって私たちはそんなことはいたしませんと言えばよいと思っている。そのくせ 経済力がついてきて技術が向上してくると自分の国や自分までがえらいと思うようになってきて、うわべや口先では済まなかった悪かったと言いながらひとりよがりの自分本位のえらそうな態度をするそんな今の日本人が心配だ。本当にどうなっちまったんだろう日本人は そんなはずじゃなかったのに。本当の日本人を知っているわたしたちは今は いつも 歯がゆくてくやしい思いがする。自分のことや自分の会社の利益ばかり考えてこせこせと身勝手な行動ばかりしている。ヒョロヒョロの日本人はこれが本当の日本人なのだろうか。自分たちだけで集まっては自分たちだけの楽しみやぜいたくにふけりながら自分がお世話になって住んでいる自分の会社が仕事をしているその国と国民のことをさげすんだ眼で見たりバカにしたりする。こんなひとたちと本当に仲良くしてゆけるだろうか。どうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ
[ラジャー・ダト・ノンチック]



57:

日本は貧しい、しかし高貴だ。
世界でただ一つ、どうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本だ。
[ポール・クローデル]



58:

日本民族の勇気、万邦安泰の礎たらんとする熱誠、自然や神々との緊密な結びつき、歴史の連続性、文化の奥深い独創性などからして、日本こそ、明日の文明の座標軸の一つとなってしかるべきではないでしょうか。
[オリヴィエ・ジェルマントマ]



59:

昭和23年の国会で教育勅語がとりやめになったのは残念です。教育勅語で日本の教育が成功したんです。・・・もういっぺん日本は教育勅語をやり直すべきです。
[許国雄]



60:

私はかつて日本人であったことに誇りを持っていますが、逆に日本の方々は誇りを持っていないんですね。どうか皆さん、過去に対して正当な評価と自信を持ってください。
許文龍




<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その十七 > (1765)
日時:2013年08月17日 (土) 08時27分
名前:信徒連合






<終戦の月・特集>


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
            安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事・その他の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



              <その十七>



         本来の日本と日本人 <その4>


本来の日本と日本人はこのように素晴らしかったNEW (9375)
日時:2012年05月22日 (火) 11時22分
名前:龍

5月21日の「ねずきちのひとりごと」というブログ

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1509.html#more

に、各国の人々が日本を讃える言葉が紹介されていました。
長くなりますが、是非目を通しください。 合掌。



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61:

戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する必要などありません。戦後の日本政府は、深い絆を持ちながら世界で一番の親日国家である台湾を見捨てました。謝罪すべきはむしろ戦後の日本外交です。
[許文龍]



62:

どうぞ心に留めていただきたい。
“日本”は、あなた方現代の日本人だけのものではない、我々“元日本人”のものでもあることを。私は、台湾にやってくる日本人に説く。「自分の国を愛しなさい」と。自分の国をも愛せない人が、どうして他人や他の国の人々を愛せるだろうか。自らの祖先を敬い、親兄弟を愛し、そして、そうした人々が幸せに暮らす祖国を愛してこそ、世界の人々を愛せるのだ。・・・どうぞ台湾に日本の正しい歴史を学び、自身と誇りを取り戻していただきたい。そして誇りある日本がアジア地域の安定と平和を担う真のリーダーたらんことを願う。日本人よ胸を張りなさい!
[蔡焜燦]



63:

ぜひ、皆さんも歴史的に、伝統的に持っていた日本人の徳目、日本人の素晴らしさを再評価して、それをなんとか次の世代に伝えてゆくという仕事に、日本人ひとり一人が参加してほしいのです。それが台湾のためなのです。日本がちゃんとしていなければ、台湾は、存在できない。日本と台湾は運命共同体だと考えています。・・・日本は、責任をもってこの地域のリーダーであるというその使命を果たしてほしい。日本以外にはないのです。覇権主義国家の中国にこの地域のリーダーシップをとってもらっては皆が迷惑するのです。ですから皆さん、“覚悟”を決めて、この地域のリーダーを担えるような国をつくり上げていってください。
[金美齢]



64:

敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
これは、私が敬愛する新渡戸稲造先生の名著『武士道』の中で改めて紹介されている本居宣長の和歌ですが、この「大和心」こそ、日本人が最も誇りに思うべき普遍的真理であり、人類社会がいま直面している危機状況を乗り切っていくために、絶対に必要不可欠な精神的指針なのではないでしょうか。
[李登輝]



65:

しかし、結局のところ、最後に勝ったのは日本だった。日本のとった道、すなわち、自らの主権のもとに、近代化、西洋化をはかるという道が、結局、西洋を打ち負かした。日本は西洋を取り込むことによって、西洋の支配を免れた。軍事的には、日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)において、歴史上、最も決定的な敗北を喫した。自ら植民地大国たらんとする政治的な野望は達せられなかった。しかし、その後の推移では、政治的に敗北したのは西洋だった。日本は、西洋をアジアから追い出し、西洋の植民地勢力の権威を失墜させることに成功した。その結果、西洋はアジア、ついでアフリカの西洋化された非西洋世界に対する支配権を放棄せざるをえなくなった。
[P・F・ドラッガー]



66:

日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。 第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。 第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。
[インドネシアの中学3年用の歴史教科書]



67:

第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。 日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
[アーノルド・トインビー]



68:

この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底的な統一性を感得する。(伊勢神宮について)
[アーノルド・トインビー]



69:

神宮の建築は、ギリシアのパルテノンに比すべき、すばらしいものである。天から降ってきたようなこの建築は、日本固有文化の精髄であり、世界建築の王座である。
[ブルーノ・タウト]



70:

アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか。それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、大東亜共栄圏のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。
[J・R・ジャヤワルダナ蔵相(セイロン -現スリランカ)]



71:

日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。
それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの2つの日を忘れてはならない。
[ククリット・プラモード(タイ元首相)]



72:

本人は、古きより美しくやさしき自然に育てられて、美しくやさしき詩人たるべく養われたりき。
[山路愛山]



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以上は、FBの友人のKさんからいただいた名言集です。Kさんも、ご友人の方から送られてお読みになられたのだそうです。Kさんはおっしゃいます。「読んでいて、涙が止まりませんでした。今の私たちは、このように世界の人々が宝石のように大切に思って下さっている民族なのでしょうか?」

「今、反日抗日を叫んでいる朝鮮人の中にも真に日本人を評価している人もいたのだと知りました。そのような朝鮮人の方々と真の歴史認識を共有して、両国の正しい歴史を共有する事が出来れば、日本と朝鮮は全く異なる未来へと向かう事でしょう」

「今、日本を滅亡させようと企む勢力は一体何なのか?私達日本人は何と闘い、何と協力するべきなのか?今一度、しっかりと考える必要があるのかもしれません。」

上述の名言集には、韓国、北朝鮮出身者の方も出て来ます。その中に安重根も出ています。彼は、伊藤博文を暗殺した犯人です。安重根は、いまの韓国では、抗日の英雄、建国の義士として国民的英雄の地位を与えられているといいます。
けれど歴史を振り返れば、彼は初代韓国総監です。そして当時の朝鮮半島は、日本の保護国でした。その朝鮮半島を日本が併合すべしという意見に対し、伊藤博文は、これに反対しています。つまり、日本と朝鮮半島の関係は、日本が半島を保護するに停めていれば良いというのが、伊藤博文の立場でした。
これに対して安重根は、むしろ積極的に日本に半島内に介入してもらうことで、短期間に韓国に地力を付けさせ、朝鮮民族の近代化を早期に実現しようと考えていました。だから、日韓併合に反対だった伊藤博文を邪魔な存在として、暗殺しています。要するに安重根は、朝鮮民族主義であると同時に、親日主義の日本統治歓迎派だったわけです。彼の言葉が、その全てを物語っています。

それからもうひとつ、名言集の中に東京裁判関係のものがいくつかあります。
なので、ひとつだけ申し上げたいと思います。

東京裁判では、東條英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章の7人が死刑の宣告を受けました。昭和23(1948)年12月23日、巣鴨拘置所内で、その執行がなされています。この執行に、日本人でただ一人絞首台に立会ったのが、浄土真宗の僧侶であり東大教授であった花山信勝師です。その目撃談です。


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残り時間は二分しかないというので、花山師は「三誓偈」の初めの三頌と最後の一頌を読んだ。
誰からともなく「万歳」はどうだろうか、という声が上がった。いいだろうということになり、最年長の松井石根が音頭をとり「天皇陛下万歳」を三唱し、つづいて「大日本帝国万歳」を三唱した。「日本で天皇陛下万歳、大日本帝国万歳を叫んだのはこの七人が最後でしょうな」花山信勝師は当時の場面を思い出したのか、感動的にそう言ってから暫く言葉につまった。

いよいよ最期、というときに東條さんが、両腕をとっている大きな下士官にむかって、ゴクローサン、アリガトウ、アリガトウといい、七人みんながアリガトウといったんです。死ぬ間際の真剣な万歳とアリガトウということばに感動したのか、後ろで見張り番をしていた四、五人の将校が繋がれた四人のところにやってきて、自分から手を差し出して握手を求めたんです。こういうのは世界に例がありませんよ。絞首刑にするほうと、されるほうが固い握手を交わすなんて。まったく珍しいことですよ。わたしはこの光景をこの目で見たんです
(「東條英機わが無念」佐藤早苗著)


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「死ぬ間際の真剣な万歳とアリガトウということばに感動したのか、後ろで見張り番をしていた四、五人の将校が繋がれた四人のところにやってきて、自分から手を差し出して握手を求めた」

これが日本人です。





<終戦の月・特集> *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ* < その十八 >  (1775)
日時:2013年08月18日 (日) 12時58分
名前:信徒連合



<終戦の月・特集>


          *大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ*


        「大東亜戦争は侵略戦争ではありませぬ!
            安らかに鎮まりませ・・・」



 八月十五日は、大東亜戦争終戦の日であります。今回の特集は当、ブログ(「今昔物語」)の今までの掲載記事・その他の中から関連記事を集めました。第三代目・雅宣総裁の“侵略戦争観”は明確な間違いであります。ここに於いてこの事を再確認し、開祖・谷口雅春先生の霊的真理に基づく日本国民としての正しい歴史の見方を学びましょう!



              <その十八・最終回>



              < 綜合コメント >



A.雅宣(自称)総裁の「侵略戦争観」の誤りについて

(1)第三代目・雅宣(自称)総裁の「大東亜戦争観」は“侵略戦争観”であります。このことを、此の度、改めてハッキリと全信徒に示されたのであります。即ち、平成22年7月22日の東京地裁での「生命の實相」著作権帰属に関わる裁判の法廷で、黒河内潤氏(元生長の家理事長)が「谷口雅春先生は戦前誤りを犯した」と述べ、「大東亜戦争は侵略戦争でありそれを現教団は認知している」と発言したのであります。

 谷口雅春先生の「日本は米英支から戦争に仕掛けられ、やむを得ず安全保障のために起って行った戦であり、侵略戦争などではない」との教えや、多くの歴史学者がそれを立証しているにも関わらず、中国や韓国のプロパガンダのままに、「侵略戦争であった」と言い切ったのは、まさに、第三代目・雅宣総裁率いる生長の本部の異常な左翼体質、と開祖・谷口雅春先生隠蔽そのものであり、開祖・谷口雅春先生という師(教え親)を否定する許されざる所業であります。


(2)第三代目・雅宣(自称)総裁の“侵略戦争観”は戦後教育の所謂,“自虐史観”に基ずくものでありますが、真っ向から開祖・谷口雅春先生の説かれたことを強く否定した目的は、鳩山由紀夫・前首相と同じく、国家・民族を否定して新世界秩序としての「世界統一政府」樹立への必須のプロセスに於ける登るべき階段であったわけであります。

 だから、清超先生は法燈継承の認可を最後まで拒絶されたのであり、第三代目・雅宣(自称)総裁はやむを得ずに“自作自演の自称法燈継承劇”を強行したと考えられるのであります。(鳩山由紀夫・元首相は“友愛精神”を強調し、「日本の国土は日本人だけのものではない」と発言、小泉純一郎・元首相は「女系天皇・長子継承への『皇室典範』の改定」を企て、これらはすべて、日本民族意識の否定・日本国家解体と世界統一政府樹立(世界の一極支配)を目指す欧米エシュタブリッシュメントの規定プランの実質的協力メンバーとしての進行ステップの履行であったわけであります。)


(3)今回の大東亜戦争の「英霊の諸霊に捧ぐ“終戦の日・特集”」によって、第三代目・雅宣(自称)総裁の“侵略戦争観”は明らかなる間違いであって、評点は<ゼロ点>であることがお分かりになったと思うのであります。

 浜島トメさんの言われた如く<伝え方を間違えてはならない>のであります。開祖・谷口雅春先生は「歴史を批判してはいけません。歴史から学ばねばなりません」と云われました。



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B.  それでは最後に、大東亜戦争の正しい伝え方と何を学ばなければならないかを開祖・谷口雅春先生の御教え(霊的な観方)の中から纏めておきたいと思うのであります。


(イ)大東亜戦争は摂理として顕れた地上天国実現のための聖戦――これが大東亜戦争の実相であった。

(ロ)大東亜戦争は、現象以前の「心の世界(霊の世界)」においては避けることの出来ない出来事として出来上がってしまっていた。

(ハ)摂理としての内部的動力が動き出すと、現象界には迷いと迷いと相搏って自壊するという形が現れ、その自壊作用を通して平和と光明とのみ充満する理想世界が現れる。

(ニ)大東亜戦争における<摂理の内部的動力>とは、「人類は霊的に互いに兄弟であるから有色人種の植民地の国々を民族自決によって独立せしめねばならぬ」という<理想>であり、大東亜民族解放のための戦いであった。そして日本はその開放のために一人十字架を背負って侵略国の汚名を着せられたのであった。

(ホ)大東亜戦争は、日本的「無」の立場、禊(みそぎ)的立場から見ると、宇宙大生命の神聖なる聖意の実相顕現に献身する戦いであったのであります。だからこそ<聖戦>といいうるのであります。故に今上陛下の愛深き大御心を以ってしてもその戦いを未発にとどめることが出来なかったのであります。

(ヘ)多くの人達は、戦争の悲惨な方面ばかり見て、その道徳的・宗教的意義を理解しない。肉体の無と大生命への帰一とが同時に完全融合して行われるところの最高行事が戦争なのである。戦争が地上に時々出てくるのは、地上に生まれた霊魂進化の一過程として、それが戦地へ赴くべき勇士達にとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。これは、地球に生を享けた高級霊が地球を卒業して他の天体に生まれかわる最終段階としての霊魂進化の一過程なのであります。

(ト)第二次世界大戦において、多くの自己処罰も行われたが、多くは滅私奉公の尊い犠牲精神で神去りまして、高級天体へ移行した夥しい霊魂もあるのである。戦争はこうして人為と摂理と両方から起こるのであるから、人間がいくら努力して警戒して平和論を唱えても無くなるものではないのである。大東亜戦争は一方においては、<高級霊>が最後の滅私奉公の行動を通して、急激に霊魂の地上進化の最後の過程を終えて高級天体に移住する契機をつくったのである。

(チ)戦争は、一人一人の自己処罰では足りない集団的自己処罰として起こる場合と、高級霊が「自己」を滅して「公」に殉ずるところの自己犠牲の行為を通して普通の生活状態では到底達し得ない急速度の霊魂の浄化を得んがために起こる場合があるが、たいていはその二つの原因が重複して起こるのである。従って、戦争には<低い霊魂>が互いに処罰し合う残虐な悲惨な所業が各地で行われるのであるが、

 また他方には、純潔な<高級霊>が理想のために「公」のために自己を犠牲にして「私」を顧みない崇高な精神の発露が行われるのである。前者の残虐な悲惨な面だけを説く人もあるが、高級崇高な自己犠牲を行う<場>として戦場が選ばれたということを看過ごすのは片手落ちである。

(リ)日本の国難を救わんとして献身を行った特攻隊その他の兵士達をすべて侵略に協力した者として攻撃する人もあるけれども、<結果>ばかりによって論ずべきではない。一粒の麦となって同胞愛のために生命を捨てんと挺身した兵士達をば十字架にかかったキリストのように傷ましくも仰ぎ見るのである。平成の時代に生きる現代の日本人はこのような先輩の人々(英霊の諸霊)の赤誠の上に立って毎日の活動と生活がなりたっていることを片時もわすれてはならないのであります。

(ヌ)第三代目・谷口雅宣・純子(自称)総裁は「世界平和」をこころの底から望んでおられ、此のことは『信仰による平和の道』や『平和こそ美しい』という書名やエッセイのテーマとして表われております。そしてその世界平和を如何にして達成し得るかについては、“民族を超え、国家を超え”、つまり、愛国心や民族意識の強調を止め、国境を無くし友愛精神を育むことで達成するという所謂“左翼の机上論”を展開される。何故、左翼の机上平和論であるのか?以下に示させて頂きます。



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C. 何故、第三代目・谷口雅宣先生は、左翼の机上平和論者に過ぎないのか?

 先ず、第三代目・雅宣(自称)総裁は次の事についての霊的考察が出来ていないのであります。


(1)第三代目・雅宣(自称)総裁は、<戦争とは“迷い”と“迷い”との自壊現象である>と指摘されているが、それではどのような具体的な“迷い”の自壊なのか?の考察が不十分であります。

(2)何故、有史以来、人類は平和を望みながら戦争を繰り返して来ているのか?これを人類全体の“業(ごう)”とするならば、その“業”は如何なる手段にて本来の“無”に帰せしめることができるのか?

(3)地球上に於ける国家と民族の形成に関する形而上学的事由の考察

(4)宇宙全体から見た生命体としての地球という星の霊性進化の位置

(5)地球と云う天体へ霊魂進化を目的として輪廻転生し来る霊魂の霊性進化レベル

(6)宇宙の大法則としての“類は類を呼ぶ”という「類友親和の法則」は戦時において具体的にどんな形として現れたのか。

(7)神さまは、なぜ日本国家、日本民族を地球上に存在せしめ給うたのか

(8)物質現象界は霊的現象界(霊界)の“映し”の世界であれば、霊界の“原因フィルム”の修正(霊界の浄化)を如何にしてなせばよいのか。


 以上のような事柄は、『生命の實相』を始め、開祖・谷口雅春先生の御著書にチャント書かれているのであります。

 戦争と平和に関するこれらの根本的なことを説かずに、戦後唯物論教育の「自虐史観」と同様に第三代目・雅宣・純子(自称)総裁は“特攻隊は現世を犠牲にした自殺行為”とか“愛国の先にあるものは、殺し合いの世界”と云う霊的レベルの低い文章を発表して信徒を誤導し、“大東亜戦争は日本が起した侵略戦争”と広言している。まさに(自称)であるにせよ法燈継承者・総裁の資格はありません。霊的資質も二人には無い訳であります。



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D. 私たち、生長の家の正統派信徒たちは、この戦争と平和の問題につき開祖・谷口雅春先生の御教えによって次のように“霊的一般論”として理解させていただいたら宜しいのではないでしょうか。まだまだ理解不十分なところもありますがその点は何卒ご寛恕頂きたく存じ上げます。


(1)地球人類社会の戦争は、“迷い”と“迷い”の自壊作用であり、その“迷妄”とは、人類の「唯物価値観」即ち、名誉欲・支配欲・権力欲・財産欲・闘争欲等の自己顕示欲と、飽くなき自己利益追求の資本主義と云う自己拡張欲、そして唯物価値観国家による飽くなき領土拡張欲・資源獲得欲等であります。さらに、肉食・人工妊娠中絶等による自己処罰のことであります。

(2)地球人類世界に戦争が幾ら物質科学が進歩しても根絶できない理由は、一重に人類社会全体の霊性の進化が遅々として進まないからであり、霊性進化が進まない理由は、個生命としての霊的進化向上を目的として、この地球へ輪廻転生して来て、その課程を卒業した霊魂たちは、次なるより霊性の進化した天体、若しくは高級霊界へ転生をし、宇宙の摂理と経綸によって地球人類世界への特殊な使命を帯びた霊魂以外は再生して来ない、然るに一方に於いては、地球より霊性進化のレベルの低い他の天体よりの地球へ大勢の転生者が続々と生まれて来るからであります。

(3) 地球と云う天体に、日本国家なるものを存在せしめ、日本民族なる一群の霊魂たちを輪廻転生せしめたのは、霊的宇宙の摂理の法則によるものであり、宇宙創造神の御経綸によるものであります。

 即ち、地球人類世界の霊的レベルを引き上げるため(実相顕現のため)、その霊的リーダーとして日本民族なる霊的集団を転生せしめ、宇宙の實相(中心帰一の金波羅華實相)がそのまま顕現したモデル国家を創りあげ、それを地球全体に敷衍せしめて、宇宙に於ける地球と云う天体の霊性進化(實相顕現)を果たすと言うことなのであります。

 雛形経綸に基づいて存在せしめられている日本国家なるものを抜きにした世界平和論は左翼唯物論の机上の平和論にすぎないのであります。

(4)かかる使命と目的を担って日本国家と日本民族は存在せしめられていることを自覚しなければならないのであります。このように理解するならば、大東亜戦争の霊的真相は“侵略戦争”ではなく、宇宙の摂理と経綸によるところの“霊的聖戦”であったと云えるのであります。その“霊的聖戦”を戦われた英霊の御霊の皆様には限りない満腔の感謝の心を捧げなければならないのであります。

(5)と、同時に後世を生きる現代日本民族は祖先の人達の遺志を継ぎ、「天皇国日本の実相顕現」と地球人類社会の唯物価値観から<人間神の子・神の子人間>の唯神實相価値観への転換を目指す「人類光明化運動」すなわち、「真理国家・天皇国日本の建設」に今生の使命と目的を置かねばならず、この使命と目的の中心を担うのが吾々生長の家人であるのであります。

(6)開祖・谷口雅春先生の御教えを以上の如く理解させていただきますと、第三代目・雅宣(自称)総裁の『今の教え』および「国家を超え、民族を超えた信仰による世界平和」と「物的地球環境回復保全」の運動目標は適切なものではありません。一日も早く本来の運動目標に立ち返り、具体的な日本国實相顕現即ち、自主憲法の制定・日本精神醸成のための教育改革・真の霊的生命の尊重運動・霊界の浄化・唯神實相価値観の宣布を行なう生長の家に立ち帰らねばならないのであります。



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E. 雅宣(自称)総裁! 貴殿がこの「東條英機宣誓供述書」を読んでも、侵略戦争観を放棄しないならば、貴殿はもはや生長の家総裁ではない。「生長の家」=開祖・谷口雅春先生の『御教え』に反逆せる者であるとともに、貴殿はまさにジパノフォビア(反日的日本人)であります。どうしても、侵略戦争観を今後ともに主張し続けるならば、速やかに総裁の座を降り「生長の家」の看板を返し、外部で独立して頂く事を申し入れるものであります。反論あれば、「唐松模様」にて返答されたし!!



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F. 同様に、東南アジア諸国から、西欧諸国の植民地搾取から解放され独立できたことに関して実に多くの感謝の言葉が上記の如く寄せられてきたのか、このことについて雅宣(自称)総裁よ、いかに考えるや? このことをとっても大東亜戦争は日本が起こしたくて起こした「侵略戦争」などでは決してなく、ましてや東南アジア諸国に多大の迷惑を与えたのではなく、事実上の地球人類進化の摂理に基づく止むを得ないところの西欧植民地政策の頚木(くびき)からの「大東亜解放戦争」であったのが実の相であったのであります。ここまでいっても、雅宣(自称)総裁よ、「侵略戦争なり」との自論を撤回しないのか?反論あれば、「唐松模様」で返答されたし!!


(完)






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