生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

トップページへ戻る

 

↓↓↓ 訪問者数 ↓↓↓

 

名前
メールアドレス
スレッド名
本文
写真

URL
削除キー 項目の保存


検証 : 批判・批難と争う姿勢は生長の家人ではない。和解と調和をモットーとせよ! (1814)
日時:2013年08月23日 (金) 11時34分
名前:画龍点睛



<批判・批難と争う姿勢は生長の家人ではない。和解と調和をモットーとせよ!>この様な主張を掲示板上で繰り返す投稿者の方達が後を絶ちません。マサノブ君擁護の本部直轄掲示板?「トキ掲示板」は勿論のこと、「正統・生長の家」復活推進側でも時々見受けられるのであります。このことに関して、これまでに幾人もの方々が『生命の實相』に基づいてその考え方の誤りについて説明されて来ましたが、依然として誤ったお考えを述べられる方が後を絶ちません。


「谷口雅春先生を学ぶ会」の伊勢見真会でも当初の頃に、テーマ別座談会でこのことが取り上げられ、雅宣総裁の「今の教え」の誤りを指摘して、『生命の實相』に基づいて正しい見解を述べることは、果たして「批判・批難」なのか、「虚説の摧破」なのか、を挙手調査したことがありました。結果は、「批判」と考えた人は全体の17%位おられ、また、「谷口雅春先生を学ぶ」誌の創刊の辞の中の 

< 今、生長の家の創始者である谷口雅春先生のみ教えは廃れつつある・・・それは、信徒の数が減少しつつあることを言うのではありません。たとえば、谷口雅春先生のご著書の一部を絶版状態にするような、尊師谷口雅春先生を排斥する事態のことを言うのです。「生長の家は原理主義ではない。いまや時代は変った。私が説くことがいまの生長の家の教えである。」と谷口雅宣副総裁は主張されています。しかし、副総裁(現総裁)の説く「真理」たるや、信仰とは何の関係もない、左翼の得意とする環境問題などの雑論がその大半を占め、ときには谷口雅春先生のみ教えを否定することさえ言われています。>

「創刊の辞」のこの部分を当時の雅宣副総裁に対する批判・批難文である。雅宣総裁の「今の教え」はマチガイであるが、それに対しては批判・批難せず、本来の正しい『御教え』をのみ掲げていけばよいのである。と、強力に主張する人も少人数ですがおられたことは事実であります。


同じような状態が依然として現在も続いており、さらにエスカレートして、マサノブ君擁護側と「正統・生長の家」復活推進側とは不倶戴天の敵同士の如く憎しみいがみ合っていると観察して、いづれの側も「天地一切のものに和解せよ」との生長の家の根本教義に反しており、そんなことでは生長の家の信徒とは言えない。一日も早くお互いに譲るべきところは譲って和解し、本来の大調和の状態に復元すべきである。と、主張する人たちもかなりの人数おられると思います。



このことに関し、以下、『生命の實相』の『御教え』に基づいて私の理解していることを申し上げておきたく存じます。


@ この問題に関しましては、多くの人たちが既に述べられておりますが、『生命の實相』第14巻・倫理篇下巻、第4章・和解の倫理に正しい解答として開祖・谷口雅春先生はお示し頂いているのであります。その部分を引用いたします。

<< われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。虚説に和解したら実相をくらますことになります。実相をくらませば、みずから迷うことになるのであります。異端・盲説・妄念・妄想は、<本来無い説>―虚説―でありますから、その実相をみれば「本来ない」ことが判るわけでありますから、本来ないもの「虚説」に和解することは絶対に出来ないのであります。光は闇と和解することは出来ない。光が近ずけば闇は消えるほかはない。それと同じく、真説は虚説に近ずけば虚説を消す働きをする。虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳が無いように思うのは間違いであります。また、虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。要は、<天地一切のものと和解せよ>との生長の家の第一最大の誡命(いましめ)は、「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、仮想や虚説にたいしては「サタンよ去れ!」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃せられたのであります。虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許す。どうか皆さんも虚説に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ!」の態度で進んでいただきたく、人間に対してはその表面の<包み>(罪)をみないで、その罪なき完全な実相を見てその罪を赦す(その罪を見て<無い>と見て捨てる)ことにしたいのであります。>>


A 「和解の倫理」の上記引用文を正しく理解するならば、「 批判・批難と争う姿勢は生長の家人ではない。和解と調和をモットーとせよ! 」という人々の意見は妥当な意見ではないと言う事が容易にお解かりいただけると思うのであります。以下ご説明申し上げます。(注:「訊け管理人」氏の独善的解釈は誤りでありますので顧慮外におきます、不悪。)


B 最も大切な個所は、<虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許す>・<虚説に対しては和解することなく、・・・人間に対してはその罪なき完全な実相を見て赦す>という所であります。「人」とその人の説く「虚説」とをハッキリと分けて考えなければならないのであります。マサノブ君という人とマサノブ君の説く「今の教え」とを分けて考えなければならないのであります。「虚説」を説いているかのごとく見えるマサノブ君の實相は罪なき神の子そのものであります。しかし厚く神性隠蔽されたニセモノ(現象)のマサノブ君の説く虚説・「今の教え」は本来無い非・真理の教えでありますから、そのマチガイの真相を指摘し明らかにして本来の無の世界に還帰して消滅させなければならないのであります。従って、われわれは實相のマサノブ君に対しては、いささかの憎しみやいがみ合いの感情などはないのであります。唯、彼の説く「今の教え」という“虚説”の誤りを指摘し“正説・真説”に置き換えるべしと主張し行動しているのであります。故に、「 批判・批難と争う姿勢は生長の家人ではない。和解と調和をモットーとせよ! 」という人々は、人とその人の説く虚説を分けて考えず、“一体化”して考えているその考え方自体が間違っているわけであります


C “一体化”して考えると、マサノブ君に対する批判・批難はよくない、大調和の神示に反すると云う事になります。そして虚説である「今の教え」のマチガイを指摘せず放置しておきますと、“虚説”は益々存在感を増し、本来の正しい『御教え』をこの世から駆逐してしまうのであります。従って、“虚説”排除、正説顕現の行動が必要になるのであります。しかし、中には<真説は虚説に近ずけば虚説を消す働きをする>のだから、虚説に心を捉われず、真説をのみ掲げればよい、虚説駆除の行動よりもマサノブ君の實相直視が大切だと、マサノブ君の實相顕現をのみ祈って居る篤信の信徒さんも多くいらっしゃいますが、マサノブ君の暴走は止るどころか益々スピードアップして行っているのであります。是はなぜでありましょうか?


D これは想念の相互影響の問題であります。祈られる側と祈る側とが、個人対個人の場合には祈る側の實相直視の悟りの念が強ければ祈られる側の實相顕現が容易となります。しかし、同じ想念の相互間影響原理が、団体や国家の場合にそのまま適応できると考えると背負い投げを喰らう確率が極めて大となるのであります。(新講『甘露の法雨』解釈P.85『殺虫剤や軍備は不要か?』参照)。団体や国家の問題になりますと、その構成員である会員や国民の想念は順念あり逆念ありでありますから、今まで多くの篤信の信徒さんが幾らマサノブ君の實相顕現を祈っても彼の暴走を阻止し得なかったのはこの理由によるのであります。団体や国家の問題の場合には、祈りと同時にその行動化が必要であります。その中には時として必要悪的な戦術戦略も必要になって来るのであります。「正統・生長の家」復活推進者たちは、祈りと共に「本流掲示板」を起ち上げて、「今の教え」の非真理性を徹底して明らかならしめ、時には過激と批難されるような投稿活動を続け、今日ではその効果が顕著に現れだし、マサノブ君は四面楚歌となって孤立化して「総裁更迭」も手の届くところまで近づいて来ているのであります。


E ここまで申し上げても未だ<「 批判・批難と争う姿勢は生長の家人ではない。和解と調和をモットーとせよ! 」と云い続ける人たちは、共産中国の理不尽な尖閣諸島の領有権主張と奪取戦略にどう対処すべきかを考えたら良いのではありませんか?


F <共産中国の習近平国家主席と言えども、實相は完全円満な神の子では無いか、この實相を直視して實相顕現の祈りを続けていれば、争わないで円満な調和ある解決が出来る。対抗意識を捨てて實相直視に透徹すればよいのである。是が大調和の教えに基ずく生長の家の教えである。共産中国を敵と見て対処しているとやがては戦争となり多くの犠牲者が出ることを考えなければならない。> このような祈りに徹して、共産中国が現実に漁民兵に変装して尖閣諸島に上陸して領有宣言を為しても日本としては相手の實相の善なる事を信じて無抵抗で祈り続けることが大事だと言うのですか? こうなると竹島と同じく尖閣も同じ運命になります。尖閣の次は沖縄列島ですよ。次は北海道・本州・四国・九州ですよ。共産中国は既に日本占領統治の青写真を完成させており、その計画を着々と進めているのが現実であります。現象ナシ・大調和の實相独在、心配せず實相顕現の祈りに徹せよ! こんな一知半解の悟りはマチガイであります。


G どこが間違っているか? その一つは、實相直視の祈りを主張する人たちの“念”よりも、習近平国家主席の“念”の方がはるかに強力であります。“念”の強力さにおいて、始めから圧倒されているからである事に気づいてはいないのです。第二は、日本国民の“念”が一つにまとまらず、色々な“逆念”が錯綜しておりますから、實相直視の人々の念が少々強くても逆念でその實相直視力は減衰してしまい、習近平国家主席までは到達しないのであります。従って、手を拱いて共産中国の思いのままにさせておくことは決して善であるとは言えないどころか完全に間違った対処方法でります。現実的には、鉄壁の軍事力を構築して共産中国の野望を跳ね返していかなければならないのであります。これは善悪の問題ではなく生命存続の原理であります。このことは、マサノブ君に対しても全く同じ事が言えるのであります。


H だから、開祖・谷口雅春先生は、<真説は虚説に近ずけば虚説を消す働きをする。虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳が無いように思うのは間違いであります。また、虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。> 古代ローマ帝国の版図拡大政策に最初は抵抗したが次第に追いつめられて最後は無抵抗で要求を次々と呑んだある一つの民族国家(筆者注:具体的民族国家名は忘れました)は最後は完全に消滅・抹殺せしめられたと言うのが歴史上の教訓であります。


I 以上の如く、『生命の實相』の<和解の倫理>の真理を深く理解しておれば、本稿のタイトルの如き、生長の家の信徒が「 批判・批難と争う姿勢は生長の家人ではない。和解と調和をモットーとせよ! 」という事を主張することは今日的状況下に於いては決して適切な意見ではないのであります。せっかく「正統・生長の家」復活推進側に賛同しながら、この様な批判批難意見の発表は十分なる熟慮が必要と考える次第であります。







Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板