生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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福岡教区・矢野教化部長の真理認識のマチガイ! (2206)
日時:2013年10月08日 (火) 12時27分
名前:信徒連合



福岡教区の矢野教化部長は、現教団本部発行の『生長の家』平成25年11月号に於いて、下記の如き文章を発表されていると掲示板に引用されていました。それを先ず、転載させて頂きます。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



すべての生命は一つ :  福岡教区教化部長 矢野俊一(氏)

<<  私自身、「生命を拝むこと」の尊さに感動し、すべての生命は一つであると感じた体験があります。それは富士河口湖練成道場に奉職していた頃のことです。当時の私の仕事は伝道でした。それは『法華経』に登場する常不軽菩薩の「礼拝讃嘆行」の実践でした。ある日伝道に出かけた私は、一見の家の前で一心に祈っていました。祈りが深まるにつれ、肉体の感覚がなくなり、自分の身体が虚空に広がっていくように感じました。「ああ、神が今ここにまします」。私は魂の昂楊と共に、神の祝福を全身で感じていました。目を開くと、すべてが生き生きと生命感に躍動していました。木々も青空も太陽も、みな別々でありながら、全てが一つに感じられるのです。その時、すべての存在が私を祝福しているのを感じました。 礼拝に徹し切った時に、今まで見えなかった世界が見えてきたのです。すべての生命を拝むこと、それがみ教えの中心である、と実感した瞬間でした。

現在私は、教区の責任者として布教活動を通じて、教区内の人々に地球環境の改善に貢献する生き方を強く勧めるとともに、環境への負荷をできるだけ少なくするために、行事の際には、テレビ会議システム等を使った複数会場での同時開催を行っています。また私の五人の子供たちには、子に遺す最善の遺産≠ニして生長の家のみ教えを積極的に伝えるとともに、機械あるごとに、生長の家が現在取り組んでいる環境保全活動の意義を伝え、日々の生活に実践するように勧めています。

 人間は、自然の一部であり、自然なくして生きていくことはできません。今こそ私たちは、肉体的人間観に立脚した「人間中心主義」から脱却し、「自然との一体感」をさらに深め、自然を含む天地すべてのものを祝福礼拝しつつ、自然との生かし合いの生活を実現してまいりましょう。>>



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上記転載文の第一段落の内容は、矢野氏がその昔、富士河口湖練成道場での極めて純真そのものの気持を持っての伝道行の中にあっての誠に素晴らしい霊的体験であります。実に感動するものであります。第二段落の文章内容も、まあよしと致しましょう。


問題は、第三段落であります。ここで矢野教化部長は「人間は自然の一部」と規定し、「自然との一体感を深めることによって人間中心主義から脱却せよ」と書かれておりますが、この「マサノブ教」の中心思想は間違っているのであります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を学んでいるならば、この様な間違った書き方はしないと思うのであります。教化部長であれば、この様なことを書けば信徒の皆さんを本来の『御教え』から脱線した唯物論の世界へ間違って誘導していることを気付くべきであります。マサノブ教・イエスマンに徹して生きていくために敢えて書かれたのであると思いますが、誠に「人間神の子」を自覚せぬ教化部長不適格者であります。



@ 「生長の家」の正しい『御教え』は「人間は神の子であって、神の子とは、神の最高の自己実現である」という事であります。“自然”という表現は、余りにも漠然としています。もっと具体的にいえば、鉱物界、植物界、動物界のことであります。この他、微生物界、自然現象界なども付け加えることが出来るでしょう。こう言った自然界を神は自己表現としてお作りになられたのでありますが、これらは、完全円満・無限完璧な神様の属性の一部を表現するものとしての創造でありました。そして最後に神さまは、完全完璧な自己の属性の全部を持つものとして人間なる者を御造りになられたのであります。だから、人間は「神の自己実現」であり、決して「自然の一部」ではありません。この根本的な真理の説き方を、教化部長たる者、決して間違ってはならないと考えます。



A ではどうして、マサノブ君は「人間は自然の一部である」と考える思想を持つのか?ということになります。この理由は簡単であります。マサノブ君は、<現象の立場に立って現象を見ている>からであります。現象の立場に立って現象を見ている限り、当然にして肉体人間は自然からの恩恵を受けなければ生きていけないわけであります。だから、人間は傲慢に成らずに自然界に感謝して行き、自然界の一部であるとの自覚を失わず謙虚に生きなさい!、と説けばそれなりの説得力があるわけで一般人は取っ付きやすいわけであります。



B 生長の家の實相哲学は、“實相独在”であり、“現象なし”であります。立脚点は“實相”にあるわけですから、實相の観点から全てを観なければならないのであります。対機説法や方便説法としては、“現象”の立場から説明しなければならないときもありますが、そのような時といえども最後は“實相独在”・“現象なし”と「唯観實相」の立場に戻って話しを締め括らなければならないのであります。だから、
「人間は自然の一部である」と言うマサノブ教の人間の定義は、マチガイであります。



C 次に、「マサノブ教」でよく使われる「人間至上主義」と言う言葉について深く考える必要があります。マサノブ教のいう「人間至上主義」というのは、これまでの人類が、地球上のありとあらゆるものは、人間の物質的・肉体的満足心を充足させるために存在するもとの考え方によって、人間が自然との調和共存共栄を考えず、一方的に乱獲・乱開発・乱消費をして来た、これが人類社会の現実的実態である。このように、人間という生物は自然社会に対する害獣である、だから、これからの人類社会は,“人間とは自然の一部である”との自覚に立ち返り、謙虚な気持で自然に感謝して生活すべし。こういう意味なのであります。



D しかし、「マサノブ教」の「人間至上主義」の“人間観”は、所詮、「人間罪の子」思想であります。本来の『御教え』とは対極にある考え方であります。それは何故か? 「マサノブ教」に於いては、人間至上主義の原因を追究せず、現象の現われ面だけを見てそのように言っているからであります。それでは、實相から「人間至上主義」を観ればどうなるのか? 神の子人間という本来の人間が、唯物観の迷いに覆われて、自らの神性を隠蔽してしまっているという“神性隠蔽”に依ってであります。ここまで「マサノブ教」に於いては行き届いて説明をしていないのであります。なぜか?それは「マサノブ教」のマサノブ教主そのものが“神性隠蔽”の張本人であるからで、このことを彼は知っているが為に根本原因まで説明しないのであります。



E 矢野教化部長は、「自然を含む天地すべてのものを祝福礼拝しつつ、自然との生かし合いの生活を実現してまいりましょう。」と書いております。これは言うまでもなく「大調和の神示」精神のことであります。しかし、「大調和神示」をよく読めば、感謝の順序が書かれている事が分かります。即ち、皇恩→父母→夫・妻→兄弟姉妹と子供→召使→一切の人々→天地の万物です。「マサノブ教」に於ける“自然”は最後の順序(天地万物)となっていますし、マサノブ教主は一番大切な「皇恩」そして「父母(特に母)さらに兄弟姉妹への感謝など考えていないのであります。神の子人間の基礎を疎かにして、最後の“自然”に対してだけ感謝する生活を説いても全く説得力はないのであります。



F 矢野教化部長は、開祖・谷口雅春先生の<別冊・「真理」>を読んでいるのでしょうか? 


* < 大自然を見渡せば、鉱物の王国から植物の王国、動物の王国へと、「生命というものが、何(いづ)れも次の一段高い王国の到来を預示しているのであります。人類の王国も亦、一層高次の高い王国を預示していると私は思うのであります。進化の段階が上昇するに従い、上位の王国は下位の王国を支配し、最後の段階の人間の王国は他のすべての王国を支配しております。私は生命原理の進化の段階に、更に現在の人間の上に、尚一層すぐれたる段階が出現すると云うことを期待しているのであります。それは生命の第五王国――超人――の出現であります。>(同書P.16)


* < 人間よりも一段上の王国の可能性は人間の内にあると云う事であります。これは必ずしも人間が、動物から生まれ出て真直ぐに立って歩き、心の道具として手を造ったときと同じように、次の段階の人間に到達する過程に於いて人間の身体的性質と構造が変化する事を意味しないのであります。それは人間が自己の内に超人となるための新しい力を発見すると云う意味であります。>(同書P.18)


* < 上位の力を獲得したる新しき人類は物質意識の標準から出て、キリスト意識、超人意識の標準にまで上る。第五王国の新しき人間とは貧乏、病気等を克服し得るのみならず、恐怖、不安、その他すべての精神的感情的不自由から解放された人であります。>(同書P.19)


* < 第五王国の人民は隣人の間違いや悪についての噂話を決してしない。虚栄と偽善とがない。彼らには心配、恐怖、憤慨、嫉妬、自責のような、みづからの活力を消耗し、力を滅ぼす種類の精神的習慣がない。彼らは思想に於いても、行為に於いても、他の人と公正正直に交わり、人間の思想が破壊的であるならば、それは荒々しい声や残酷な行為と同じ程度に、他人に有害であることを知っているのであります。彼らは他人に属する物を欲しがらないで、必要なもの、欲しい物を手に入れるために、心の法則を正しく応用することによって誰をも犯すことなしに獲得する道を知っているのであります。>(同書P.20〜21)


* < 第五王国は平和と調和の満ちた内的世界であります。あなたが精神科学を知って第五王国の人民となれば、内界が平和であれば外界を平和に保つことが出来ることを知るでしょう。感情的精神的生活の統制が出来ていれば、あなたの生活は力学的均衡状態にあるのであって、何の争いも緊張もなく人や状況と調和することが出来るのであります。これが精神的力学の実証であります。そしてあなたの希望と一致しない状況は、貴方の利用し得る力を用いて変更する事が出来るのであります。あなたが力を単に受動的なものとして所有し、他人や状況に屈服することによって平和を得るのと、あなたの力を積極的に使用することによって、あなたの計画と理想とに適した状況を造り出すこととはぜんぜん別の事柄であります。あなたの目指すところは後者でなければなりません。>(同書P.21〜22)


* < 要するに人間を量で計るならば動物の王国の生物量に較べれば実に小さな分量であります。然しながら、人間は精神的な力を持っており、その精神的な力を通して機械を使用することにより、肉体の力を拡大して他の三つの世界の支配者となっているのであります。然しこの「生命」上昇の段階は、人間の知識と技術との究極に来ると、其処で止ってしまってそれ以上進むことができない。何故なら知識と技術とは物質的なもののみを取扱うからである。物質の彼方に霊界が存在する。そして人間は物質的な体に包まれた「霊」である。それゆえに人間の霊は、人間の念願を触覚として物質と空間を超えて超感覚的世界に達しようとするのであります。人間は夢を見る、そして自己の不滅の生命の幻と無限の可能性とを見るのです。たとい脚は地上を踏んでいても、霊は高き世界に昇り、謂わばキリストと共に「神の右側に坐す」のであります。>(同書P.24)


* < この人間の理想への夢を、生命の幻を、そして無限の可能性を現実に翻訳することが必要なのです。人間はアダムの子孫として肉体という物質的な低い本性の上に立ちながら、その實相に於いては神の子たる霊的存在であって、吾らは、その霊的實相を自覚することによってのみ一段高い世界の市民となることができるのである。この一段高い世界の市民となると云うことは、物質界とは異なる新しき秩序の世界に入り、精神的にも、道徳的にも、経済的にも、完全なる自由を獲得すると云うことを意味するのであります。>(同書P.25)



G <この人間の理想への夢を、生命の幻を、そして無限の可能性を現実に翻訳すること>、この“翻訳”をマサノブ教では、物理的手段としての<都会を捨てよ、森の中で生活せよ>としたのであります。上記の一連の開祖・谷口雅春先生の『御教え』は、「人類よ、唯物的価値観を脱却して霊的価値観に入れ!」という事であり、マサノブ教団の方向とは全然逆であります。正しい“翻訳”は、都会を捨て八ヶ岳へ行く「森のオフィス」の建設ではないのです。正しい“翻訳”は、都会に居ろうと、田舎に居ろうと、山の中に居ろうと、その住するところを問わず、物質的生活価値観から霊的生活価値観への徹底的変革であり、これこそが宗教界の使命であるのであります。行政府の物理的環境対策の真似をする事ではない。150億円を掛けて政府の真似事をする、それ以上に、自分で生活費を稼ぐ必要のない一部の有閑セレブの豪華別荘暮らしでCO2ゼロの生活をする、こんなものは本来の「生長の家」が目指す方向ではないのであります。150億円掛けるならば、「生長の家総合学園」を建設し、霊的価値観を身につけたこれからの日本を背負う有為なる人財養成を図っていく方向を採るべきであります。



H 「マサノブ教」の環境対策は、現在の日本社会の目指す「福祉国家」対策と根本においては同じであります。


< * 本当の“福祉国家”とは
今、日本の国は、経済アニマルと言われたり、日本株式会社と言われたりしたということで、政治家は非常に反省して、これからは福祉国家をめざして、もっと内部的に社会的に社会資本を充実して福祉国家を建設せんならんというような方向に振り向けているんだけれども、内に振り向いているように見えているけれども、その内がわからないのじゃないかと、私は思うのであります。つまり、人間の福祉とは何であるか、という問題が忘れられて、そして福祉国家を建設するといっても、これでは本当の福祉国家は出来るはずがないと思うのであります。結局、人間の福祉とは何であるかということは、人間とは何ぞやという問題がハッキリ自覚されていなかったならば、その福祉というものはわからないのであります。「社会資本を充実し、色々な設備とかいうような物質的なものをそろえて、国民が肉体的に快楽をもっとむさぼれるようにする、そういう国が福祉国家である」と、そういうように今、政治家はかんがえているような調子なんであります。これで本当に福祉国家になれるかというとなれないのであります。>(『實相研鑽』第三集P.43〜44)


<* 国家の尊厳を確立せよ
今まで人間の幸福というものは、「物質が豊かになったら幸福になるんだ」というように考えて、エデンの楽園から追放されたような状態が、今の状態であり、知識の樹の実を食べて、“生命の実相”という内的自覚を忘れてしまって、「人間は物質的な分子が集って細胞となり、細胞が集って色々な組織が出来た複雑な肉体というものが、これが人間であるんだ。そしてその人間の福祉というものは、感覚が楽しむ世界ができれば、それが福祉国家である」というような考えでいくらやってみても、本当の福祉――魂の喜びというものは出て来ないことになるのであります。それが結局、蛇の知恵にだまされて、知識の樹の実を食べた結果、楽園から追放されている状態であるわけなんであります。>(『實相研鑽』第三集P.44〜46)



I 最後に申し上げなければならないことは、矢野教化部長は、<人間は、自然なくして生きていくことはできません。>と書かれています。それならば、同時に、「どのような人間でも、国家に属さずしては生きていけない。日本人は日本国家なくしては生きていけません」とも云うべきであります。マサノブ教の“非・生長の家的”なところの最大特徴は、「国家観」の欠如であります。この点について言及なきは教化部長としての適性を欠いているのであります。<国家意識や民族意識は戦争につながる>と言うマサノブ思想は完全にマチガイであります。



J 矢野教化部長殿、貴殿はマサノブ教の左翼唯物的教義の誤りをシッカリと自覚していただきたいと思います。「生長の家」と言う看板を掲げながら本来の『御教え』に反する人間観を以て信徒の皆様を間違った方向へ導いてゆくことは絶対に止めなければならないのであります。マサノブ教主からクレームが来れば、「マサノブ教主、あなたこそ間違っている!」、と開祖・谷口雅春先生の御著書を根拠にして反論すべきであります。茶坊主的保身では信徒を見捨てることになり、教化部長のすべきことではありません。貴殿の使命は開祖・谷口雅春先生の『御教え』を正しく信徒の皆さんに説くことであり、マサノブ教へ洗脳していくことではないのであります。今回のマサノブ講習会の姑息な動員対策はもっての外、貴殿の使命は、マサノブ教主に対して<総裁辞任・大政奉還・教団退去>を堂々と迫ることであります。







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