生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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『新編 生命の實相』の章立て変更に対しての疑義に対してお答えします!  (2289)
日時:2013年10月17日 (木) 21時39分
名前:サーチャー

<光明掲示板>
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『新編 生命の實相』の章立て変更に対しての疑義に対してお答えします! (1942)
日時:2013年10月17日 (木) 19時52分
名前:「学ぶ会」広報官

皆さまのご支援によりまして、『新編 生命の實相』も第7巻まで順調に発刊することができました。

しかし、ここに来て、またぞろ、『新編 生命の實相』の章立てを“勝手に”変更したことは、谷口雅春先生のお心に反するのではないかという疑義を呈する人たちが出てきました。

こういう人たちは、今後も何かにつけ、しつこく、これを言い募っては、『新編 生命の實相』に“難癖”をつけてくるのではないのかと思われます。

なぜ、敢えて、“難癖”というのか?

谷口雅春先生のお心に反しているというのであれば、当然、谷口雅宣総裁の新しい「経本」の発刊についてもガンガン文句をいい続けなければおかしい。

だって、「聖経」は補強しなければならない、これほど谷口雅春先生のお心を踏みにじる発言はないからです。

ところが、この方々は、新しい「経本」の発刊については、「私もおかしいとは思っている、だから私は読まない」というだけで、これを発刊した谷口雅宣総裁については、それ以上の追求を決してしようとはしないのであります。

これでは首尾一貫しないではありませんか?!

結局、『新編 生命の實相』の発刊が気に入らない、面白くない、その感情的な反発があるからとしか、こちらとしては思い得ないのであります。

本当にそれが問題だというのであれば、直接、「光明思想社」に問い合わせればいいだけの話なのです。

ところが、そういうことはしないで、こういうネットで騒ぎ立てようとする。

無視しても構わないのですが、この際、こちら側の見解を明らかにして、“為にする論”にハッキリと決着をつけるのも一興かなと思い、ここに回答を記させていただく次第です。

さて、その回答に入る前に、日本教文社の前社長で、当会の代表でもあります、中島省治代表の重大な言葉を紹介しておきます。

中島代表は、この件に関して、「谷口雅春先生は『頭注版 生命の實相』の構成に、直接、関わっていないように思われる。篇の順番に対しても関わっておられない確率が極めて高いのではないのか」と言われています。

それを裏付けるかのように、『頭注版 生命の實相』が余りにもひらがなが多いことに、谷口雅春先生が激怒なされたという事実があるのです。

『頭注版 生命の實相』に直に関わっておられたら、尊師が激怒された理由が成立しません。

なるほど、『頭注版 生命の實相』を繙きますと、「われわれ」「わたし」等、どうして漢字にしなかったのかと思われてならない表現かそこかしこに見受けられます。

ひらがなが多いために、実に読みにくくなっているし、しかも品がない、という問題があることを知っておいてください。

つまり、谷口雅春先生が直に関わっていないと思われる『頭注版 生命の實相』をあまりにも絶対視して、それを拠り所にして違いを論うのは、いかがなものかなと思う次第です。


前置きが長くなりました。

それでは、『新編 生命の實相』で、なぜ、章立ての変更をしたのかということについてご説明させていただきます。


@まず、『生命の實相』は戦前も含めて18種類あります。
その全てが、全部、章立てが同じかといえば、決してそうではありません。
そのことからしても、章立ての変更は決して谷口雅春先生のお心に反するものだとは決めつけられないと考えます。


A『新編 生命の實相』のコンセプトは、とにかく読みやすくするということにありました。
だから字を大きくして、行間もあけるようにしたのです。
そして、『頭注版 生命の實相』のコンセプトにもあるように、『新編 生命の實相』もハンドバッグにも入る大きさにしたい。
総頁数も200頁を目処とする。
当然、そうなると、巻数が多くなる。
それはこのコンセプトを優先する限り致し方ない。
巻数が多くなることは、この際、目を瞑るしかないと覚悟せざるをえませんでした。


B各巻、それぞれ頁数を揃えるということにしたら、章立てを工夫せざるをえませんでした。
そのことは、『頭注版 生命の實相』においても散見せられるところであります。
例えば、『頭注版 生命の實相』第18巻「宗教問答篇」というのがあります。
また同じく『頭注版 生命の實相』第23巻にも「常楽篇/経典篇二」の下に「宗教問答続篇」というのが出てまいります。
しかもこの「宗教問答続篇」はわずか15頁しかありません。
普通であれば、「宗教問答篇」として一緒に章立てしたがいい筈です。
どうして、こんな分け方をしたのか?
総頁数を揃えるための苦肉の策ではなかったかと思わざるをえません。
何を申し上げたいか。
『頭注版 生命の實相』でも決してきれいなわかりやすい章立てになってはいないということであります。


C以上のことから、『新編 生命の實相』においては、『頭注版 生命の實相』の章立て、構成を尊重し、それに準拠しつつも、決して、そのまま踏襲することはしないということにいたしました。
そこで、問題の『新編 生命の實相』の第1巻になるわけですが、「総説篇」のあと、どうして「実相篇」をもってこなかったのか?
当初は、そのようにしようと考えました。
しかし、総頁数を勘案すると、どうしても中途半端な感じが否めない。
どうするか、なかなか判断を決めかねていたとき、「総説篇」のあと「光明篇」を入れると実に収まりがいいということに思い到ったのです。
それというのも、この「光明篇」というのは、黒皮表紙『久遠の実在』では「総説篇」となって冒頭に出ていたからです。
ぜひ、ここにご注目いただきたいのです。
同じ「総説篇」であれば、『新編 生命の實相』の第1巻として、それこそ「総説篇」として実に合致するではないか、そう思ったというわけです。
また、これを入れると全体の総頁数も実に収まりが良い。
そしてなおかつ、これをもって『新編 生命の實相』の第1巻にすれば、その後の第2巻以降を「実相篇」の「上・中・下」として、スッキリと章立てがうまくいく。
そのように考えたというわけです。


Dとりわけ、ここでご注目いただきたいのは、『新編 生命の實相』では、各巻毎に、その「タイトル」を前面に押し出したということがあります。
例えば、『頭注版 生命の實相』では、その表紙には、「総説篇・実相篇〈上〉」としか記されていません。
しかし、『新編 生命の實相』では、「総説篇・光明篇」だけではなく「七つの光明宣言 生命に到る道」というタイトルを大きく打ち出しました。
どうして、こういうことをしたのか?
『新編 生命の實相』では、そのタイトルを背表紙にまで記すことで、そのタイトルの魅力で本を手にする読者もいるのではないのかと思ったのです。
谷口雅春先生がその章立てに使われた素晴らしいタイトル、その言葉をもっともっと前面に出していこう。
そのタイトルに引かれて、その巻だけでも読んでもらう。
どの巻から読んでもいい。
タイトルに引かれて読みたいという思いを駆り立てる。
そういう『新編 生命の實相』にしたいと思ったのです。

そのあたりの『新編 生命の實相』にかけた思いをぜひ、お汲み取りいただければと心から念願する次第です。

以上が、今回、章立てを変更させていただいた理由です。

それでも納得がいかないと言うのであれば、今後は、直接、電話でもお問いあわせしていただければと思います。

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